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かつてあなたが見上げた夜空にも 星が輝いていたならばよかった

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 そこまで考えて、高原は自分の思考を自嘲した。あまりにもくだらなさすぎる。いつから自分はこんなにもあさはかな男になってしまったのか。
「……水瀬のせいだからな」
「は?」
 唐突な抗議に、水瀬が訝しげな顔を返した。
 ますます高原は笑ってしまう。頬杖をついて、下から水瀬を見上げる。
「水瀬のせい。水瀬がいなかったら、俺は俺と俺以外が個々の人間だってことを淋しいなんて思わずにすんだのに。どうしてくれんの?俺、もう独りじゃ生きていけないよ」
「はァ?」
「ぜーんぶ水瀬のせい」
 高原はくすくすと笑った。言葉と表情がまるでちぐはぐなことだって、ぜんぶぜんぶ水瀬のせいだ。
「俺がこれから大人になって、社会に出て。そしたらきっと思うんだ。あのとき水瀬彬良っていう人間にさえ出会わなかったら、こんな淋しい思いしなくてすんだのにな、ってさ。俺と水瀬が生きてきた別々の人生の、別々の歴史とかね。……これからの人生とか。俺はずっと淋しい淋しいって、ひとりで震えて過ごすんだ」
 水瀬がこたえてくれないから。
 笑い顔のまま、声だけは真摯に、そう告げた。
 何度も何度も、高原は水瀬へ想いを伝えてきたつもりだ。それこそ、自分でも呆れてしまうほど、しつこく食い下がっては真剣に気持ちをぶつけてきた。
 それなのに、水瀬はいつだって高原の言葉をはぐらかす。
 ならば仕方がないじゃないか。
 どんなに卑怯でも、わがままでも、こうするほかに水瀬の時間を独占する方法なんて知らないのだから。
「俺さ。明日も、明後日も、明々後日も一週間後も一ヶ月後も。きっと課題、出さないよ」
 水瀬のひとみを、まっすぐに見つめた。
「出さないから」
 水瀬はわずかに、ほんのかすかに、目を細めた。
 水瀬の心が知りたい。上っ面の、教師や大人としての言葉なんかじゃなくて。
 真実の心が知りたい。
 たったそれだけのことが、どうしてこんなにも、難しいのだろう。
「……それでも、水瀬は俺の補習、つきあってくれんの?」
 縋りつくような視線で、声だって情けなく沈んでしまった。
 水瀬の表情は変わらない。それが悔しくて、高原は軋んだ胸をごまかすようにくちびるの端を吊り上げる。
「こたえないなら、勝手に納得するからな。水瀬は俺といたいから毎日補習つきあってる、って俺は理解する。決定。解決」
「……人の気持ちを勝手に捏造しないでくれる」
「ならこたえて」
「……………」
 口をつぐんだ水瀬に、高原は少しだけ苛立った。この頑固者、と内心で罵り、虚構の水瀬の胸倉をつかんで引きずりたおす。頭の中でならどんなことだってできるのに、現実はどこまでも現実なのだ。たとえば映画のワンシーンのように、このまま激しく愛を囁いて、なにもかも放り出して抱きしめあえたら他にはなにもいらないのに。
 じっと高原を見つめたまま微動だにしない現実の水瀬は、手にしていた煙草へ視線を落とす。いつのまにかずいぶん短くなっているそれを灰皿に押しつけて、もう一本をとりだし、奇妙なほどゆっくりとライターで火を点けた。
 細い煙草の先から立ちのぼる紫煙が、再び窓をすり抜けて空へのぼる。そのむこうにはゆるやかに流れる薄い雲が見えた。秋特有の、レースを敷いたように涼しげな白と、オレンジに染まり始めている夕刻の空が、高原にはひどく切ない。
 季節はそろそろ秋の終わりにさしかかっている。これから冬がきて、春が訪れる頃には、果たして水瀬はこの学校にいてくれるのだろうか。
 あるいは、たとえそんな別れがこなかったとしても、卒業という「終わり」はすぐそこにはっきりと見えていた。時間の流れなんて残酷なほど早いものだ。もう一刻の猶予だってなかった。じりじりと焦がれるような、どうしようもない焦燥感を高原は持て余している。
 始動する兆など欠片ほどもないこの関係に、行きつく先なんてどこにもないのかもしれないと思い知るのがつらかった。そこへ至る道も、方法も何ひとつわからない。自分はただ、純粋に真剣に、この人が好きなだけなのに。
「……でも、つきあってはくれるんでしょ」
 放課後の補習。もはや毎日の習慣となってしまった。かたくなに課題を提出しない高原の本心なんて、水瀬ははじめからわかっているはずなのだ。
 以前は教室で行われていた居残り勉強も、その対象者が高原ひとりとなった今では数学科準備室へ場所を移動していた。ふたりきりの密室に近いこんな部屋を望んだのもまた、水瀬であるという事実が高原には滑稽だった。
「それが、俺の仕事だから」
 水瀬は、今度ばかりははっきりとそう答えをかえした。交じり合わない異物がどこまでいこうと異物であるように、自分たちもこのまま永遠にすれちがってしまうのだろうか。
 夕焼けの空がまぶしい。目が潤んでしまうのはそのせいだと、高原は自分に言いきかせた。歪んでみえる視界の中央で、水瀬の白い顔が小さく動く。吐息と、ほんのわずかな自嘲の笑み。
 窓枠に片手を添え、水瀬は半身をねじって視線を遠くとばした。朱を侵食する夜の色。水瀬のひとみがその紫を映す。
「……中学の時」
 ぽつりと水瀬が呟いた。
 高原は二重に揺れる自身の視界をふりはらって水瀬を見上げる。こぼれ落ちる前に拭いとった涙が、水瀬に見えなければいいと思った。
 水瀬は続ける。窓からの冷たい風が煙草の匂いを高原へ届けた。
「家に、帰んのがイヤでさ。毎日のように寄り道してた時期があった。通学路の途中にちょうど公園があったから、いつもそこで時間つぶして。なるべく遅くなるようにって、まっくらになってもずっと、その公園でぼんやりしててさ」
 水瀬はゆっくりと、自分の記憶を探るようにゆっくりと、言葉を紡いだ。刻一刻と空の色が変わっていく。紫から紫紺、そして真の闇へと、ゆるやかに。
「そん時、はじめて煙草に手ぇ出した。別に煙草に興味があったとか、吸ってみたいと思ったことなんて一回もなかったけど。偶然さ、公園のベンチに煙草の箱が置き去りにされてたんだよ。そんで、なんとなく。コンビニでライター買ってきて、一本吸ってみた」
 水瀬はぼうっと宙をながめ、それから自分の手元を見つめた。ゆらゆらと煙草をもてあそび、思いついたように唇へ運ぶ。
「吸ってみたところで、正直美味いなんて全然思わなかったけど。でも、こういうのって、くり返してるうちにやめられなくなるもんだろ?そんな感じで、俺もずるずる吸い続けるようになってって」
 公園のさ。ちっちゃい子供が、『秘密の場所』とか呼んで遊ぶような遊具に隠れて。そっからぼーっと真っ暗な空ながめながら煙草吸って。俺何やってんだろーって、自分がすげぇイヤになって。そんな時に、ふっと思ったんだよな。こういう暗い闇の向こう側に、例えば異界とか、全然別の世界があったとしてさ。そういう、こことは別の世界に行っちゃえればいいのになーって。……物の怪っていうの?そんな、気味悪いもんでもなんでもいいから、俺のこと連れてってくれねーかなーって。けっこう真剣に。それか、別の世界がないんだったら、俺のことこのまま消しちゃってくれないかなーって、思った。その頃、いろんなことがイヤで、つらくて、人間も世界も自分のこともすげぇ嫌いだったから。だから。