通話はご遠慮ください
私は買い物を終えて山手線に乗った。
19時近くの車内にはいろいろな人が乗っていてそれなりに混んでいた。
人の流れに押されるような形で長椅子の前に私は陣取った。
そして目の前に座っている女性が携帯電話で通話中であることに気づいた。
きれいな人だった。
一点の曇りもない完璧なメイク。
長い髪はお団子に結い上げて後ろでひとつになっている。
まだ着慣れていないように見えるリクルートスーツにも染み1つ、シワ1つない。
白っぽく光るストッキングの脚の間に荷物を挟んでいるのが気にならないではなかったが、それよりもすらっと細く長い脚が羨ましかったし、その膝の上に乗せられた鞄の中身はきちんと整理されていて、そちらのほうが印象に残った。
白い携帯電話を耳に当て、口元を手で覆い、何事か話している。
電話の向こうの声は聞こえてこなかったが彼女の声は嫌でも耳に入った。
「え。そーなんだ。ふーん。それじゃさー。…」
きちんとした身なりをしていた。
きちんとしたメイクをしていた。
身ごなしも美しい。
だがここは電車の中である。
とんでもない、やんごとない事情があってやむなく車内で通話しているのかと、初めは思った。
たとえば、採用試験を受けている企業からの連絡であるとか。
だが企業の人事担当者を相手にそんなぞんざいな口を利く学生はいない。
不要不急の電話であることはすぐにわかる。
いつしか私はものすごい目つきで彼女の観察を始めた。
観察しようと思ったわけではない。
この女性がマナーに反することをしていると悟った瞬間から彼女の声が耳につくようになり些細なことすら気になるようになったのだ。
そう、彼女の左手の甲に
「ES コピー」
などという走り書きがある、というようなことまで。
私はTシャツにハーフパンツに帽子にスニーカーという軽装だったが、Tシャツは赤く、ハーフパンツは迷彩柄だった。
明らかに年上なのにそんな奇妙な格好をした人間にじっと見つめられれば誰だって気になるだろう。
それは私にも長い時間であったが、彼女にはもっと長く感ぜられたかもしれない。
私の乗車から1駅程度の時間、彼女はしゃべり続けて電話を切った。
それでも私は彼女を観察し続けた。
白い長い手指で携帯電話のボタンを操っていた。
おそらくメールを書いているかネットでも見ているのだろう。
ちらりと彼女がこちらを窺った。
彼女はすぐに視線を外したが、私はじっと彼女の目を見続けた。
彼女の表情にじわりと動揺が広がる。
それから何度か彼女は私と携帯電話の画面を見比べ、そのたびに落ち着かない様子で視線を彷徨わせた。
彼女の斜め前、私から見て右手のほうに1人おいたところには彼女の友人がいた。
さらにその女性の斜め前の席にも友人らしき人物が座っており、彼女の通話中、途切れ途切れに会話を交わしていた。
電話が終わった彼女もその輪に混じろうとする。
しかし、決して外されない私の視線がどうしても気になるらしく、表情はおぼろで会話も弾まない。
私の視線に危機感を感じたのだろう。
とうとう彼女は白い携帯電話を素早く操作して画面を斜め前の友人の顔の前に押し出した。
友人が素早く私の顔を窺う。
それでも私は彼女から視線を外さない。
「ヤバイ!ヤバイって!超見てる!」
ひそひそと話しているつもりなのだろうが、私の耳にもその声は届いた。
次の会話は聞こえなかったが、友人がジェスチャーで彼女に席を立つように促した。
電車が次の駅に着くタイミングを計り、彼女は席を立って友人の隣に並んだ。
その挙措も私は決して逃すまいという気持ちでじっと見続けた。
席を立ったものの電車から降りようとしない彼女と、その女性を見続ける不審者の間に漂う空気を嫌ったのか。
私の右隣に立っていた人物は空いた席に座ろうとはしなかった。
他の乗客も同様である。
今思えばこの1件での一番の被害者は彼らだったかもしれない。
それが証拠に彼女の左に座っていた人物は携帯の画面を見つめながらボタンを操作しつつ、決して顔を上げようとはしなかった。
夜の帳が下り始めた外の空気とガラス1枚を隔てた車内の異様な空気。
不幸にも両者を分ける窓ガラスは鏡の役割を果たしてくれてしまった。
彼女は私の視線から逃れた筈なのに、私の視界にまだ存在するのだ。
ならば観察をやめることはできない。
暫く、探り合いが続いた。
私はガラス越しに彼女を見つめ続ける。
彼女もすぐにそれに気づく。
意図的にこちらを見ないようにしている様子だった。
間に乗客を1人置き、さらに奥の友人と会話をしているので声は遠い。
何を言っているのかわからないことと彼女が私の脅しに屈して席を立ったことで私の興味は急速に冷めていった。
結局私も携帯電話を取り出し、ツイッターで「勝利宣言」を宣して勝負は済んだかに思えた。
私は、降りる駅に着くまでの間にいろいろなことを考えた。
前職の同期が言っていた一言。
「電車の中でどうしても話さなきゃいけない用事ってなんなのって思う。」
まったく同感だ。
親でも死んだのか?
いや、親類からの連絡であればそれこそ留守電にしてかけなおすことができるはずだ。
だいたい、15年も遡れば携帯電話を持っている人間など一般にはほとんど皆無で、咄嗟の事態に連絡がつかないことなどざらだった。
それでもなんとかなっていたのだ。
ますます車内で通話する理由がわからない。
それから自分のことも考えた。
口で注意すればそれで良かったのではないか?
そうだ。
単に、車内で他人を注意する勇気が出なかっただけなのだ。
どんなに自分の裡で納得のいく理由付けを行ったところで―このほうが面白いとか、場の空気を変えるのが嫌だたとか―結局は口で注意できないことへの言い訳に過ぎない。
いっそ、友人に言ってやろうか。
「ご友人に、お電話をやめてくださるようにお願いしていただけませんか?」と。
だが、彼我の位置関係上それは不自然だ。
では降りる際に、わざと彼女の後ろをすり抜けて、すれ違いざまに耳打ちしてやろうか。
私のほうがドアに近いところに立っているのでそれも不自然だ。
そして、彼女のことにまた思い至った。
手の甲にペンでメモをしている学生を、私なら採用しないな、と。
まさかあの手のまま面接に行ったわけでもないであろう。
おそらくは説明会か面接が終わった後で書いたものだ。
そうであっても、わざわざ手の甲にメモしているということは、メモをとるのに適切な持ち物を携行していないか、重要なことは手に書いておかないと忘れてしまうような、よほどの粗忽者だと推測できる。
そんな管理の未熟な者を採用したいだろうか。
私が人事担当者なら遠慮したい。
きれいな字だったのは確かだが。
乗車から約7分の後、山手線は私の下車駅に到着した。
ホームに降り立ち、私はもう一度車内の彼女のほうを見た。
彼女はこちらを見てはいなかった。
降りた電車が去っていく。
出口に向かってゆっくり歩き出そうとしたところで私の3メートル後方に立ち止まっている女性2人組が彼女の友人であることに気づいた。
歩き出そうとした足を止め、私は2人が追いついてくるのを待った。
「あの、すみません。」
19時近くの車内にはいろいろな人が乗っていてそれなりに混んでいた。
人の流れに押されるような形で長椅子の前に私は陣取った。
そして目の前に座っている女性が携帯電話で通話中であることに気づいた。
きれいな人だった。
一点の曇りもない完璧なメイク。
長い髪はお団子に結い上げて後ろでひとつになっている。
まだ着慣れていないように見えるリクルートスーツにも染み1つ、シワ1つない。
白っぽく光るストッキングの脚の間に荷物を挟んでいるのが気にならないではなかったが、それよりもすらっと細く長い脚が羨ましかったし、その膝の上に乗せられた鞄の中身はきちんと整理されていて、そちらのほうが印象に残った。
白い携帯電話を耳に当て、口元を手で覆い、何事か話している。
電話の向こうの声は聞こえてこなかったが彼女の声は嫌でも耳に入った。
「え。そーなんだ。ふーん。それじゃさー。…」
きちんとした身なりをしていた。
きちんとしたメイクをしていた。
身ごなしも美しい。
だがここは電車の中である。
とんでもない、やんごとない事情があってやむなく車内で通話しているのかと、初めは思った。
たとえば、採用試験を受けている企業からの連絡であるとか。
だが企業の人事担当者を相手にそんなぞんざいな口を利く学生はいない。
不要不急の電話であることはすぐにわかる。
いつしか私はものすごい目つきで彼女の観察を始めた。
観察しようと思ったわけではない。
この女性がマナーに反することをしていると悟った瞬間から彼女の声が耳につくようになり些細なことすら気になるようになったのだ。
そう、彼女の左手の甲に
「ES コピー」
などという走り書きがある、というようなことまで。
私はTシャツにハーフパンツに帽子にスニーカーという軽装だったが、Tシャツは赤く、ハーフパンツは迷彩柄だった。
明らかに年上なのにそんな奇妙な格好をした人間にじっと見つめられれば誰だって気になるだろう。
それは私にも長い時間であったが、彼女にはもっと長く感ぜられたかもしれない。
私の乗車から1駅程度の時間、彼女はしゃべり続けて電話を切った。
それでも私は彼女を観察し続けた。
白い長い手指で携帯電話のボタンを操っていた。
おそらくメールを書いているかネットでも見ているのだろう。
ちらりと彼女がこちらを窺った。
彼女はすぐに視線を外したが、私はじっと彼女の目を見続けた。
彼女の表情にじわりと動揺が広がる。
それから何度か彼女は私と携帯電話の画面を見比べ、そのたびに落ち着かない様子で視線を彷徨わせた。
彼女の斜め前、私から見て右手のほうに1人おいたところには彼女の友人がいた。
さらにその女性の斜め前の席にも友人らしき人物が座っており、彼女の通話中、途切れ途切れに会話を交わしていた。
電話が終わった彼女もその輪に混じろうとする。
しかし、決して外されない私の視線がどうしても気になるらしく、表情はおぼろで会話も弾まない。
私の視線に危機感を感じたのだろう。
とうとう彼女は白い携帯電話を素早く操作して画面を斜め前の友人の顔の前に押し出した。
友人が素早く私の顔を窺う。
それでも私は彼女から視線を外さない。
「ヤバイ!ヤバイって!超見てる!」
ひそひそと話しているつもりなのだろうが、私の耳にもその声は届いた。
次の会話は聞こえなかったが、友人がジェスチャーで彼女に席を立つように促した。
電車が次の駅に着くタイミングを計り、彼女は席を立って友人の隣に並んだ。
その挙措も私は決して逃すまいという気持ちでじっと見続けた。
席を立ったものの電車から降りようとしない彼女と、その女性を見続ける不審者の間に漂う空気を嫌ったのか。
私の右隣に立っていた人物は空いた席に座ろうとはしなかった。
他の乗客も同様である。
今思えばこの1件での一番の被害者は彼らだったかもしれない。
それが証拠に彼女の左に座っていた人物は携帯の画面を見つめながらボタンを操作しつつ、決して顔を上げようとはしなかった。
夜の帳が下り始めた外の空気とガラス1枚を隔てた車内の異様な空気。
不幸にも両者を分ける窓ガラスは鏡の役割を果たしてくれてしまった。
彼女は私の視線から逃れた筈なのに、私の視界にまだ存在するのだ。
ならば観察をやめることはできない。
暫く、探り合いが続いた。
私はガラス越しに彼女を見つめ続ける。
彼女もすぐにそれに気づく。
意図的にこちらを見ないようにしている様子だった。
間に乗客を1人置き、さらに奥の友人と会話をしているので声は遠い。
何を言っているのかわからないことと彼女が私の脅しに屈して席を立ったことで私の興味は急速に冷めていった。
結局私も携帯電話を取り出し、ツイッターで「勝利宣言」を宣して勝負は済んだかに思えた。
私は、降りる駅に着くまでの間にいろいろなことを考えた。
前職の同期が言っていた一言。
「電車の中でどうしても話さなきゃいけない用事ってなんなのって思う。」
まったく同感だ。
親でも死んだのか?
いや、親類からの連絡であればそれこそ留守電にしてかけなおすことができるはずだ。
だいたい、15年も遡れば携帯電話を持っている人間など一般にはほとんど皆無で、咄嗟の事態に連絡がつかないことなどざらだった。
それでもなんとかなっていたのだ。
ますます車内で通話する理由がわからない。
それから自分のことも考えた。
口で注意すればそれで良かったのではないか?
そうだ。
単に、車内で他人を注意する勇気が出なかっただけなのだ。
どんなに自分の裡で納得のいく理由付けを行ったところで―このほうが面白いとか、場の空気を変えるのが嫌だたとか―結局は口で注意できないことへの言い訳に過ぎない。
いっそ、友人に言ってやろうか。
「ご友人に、お電話をやめてくださるようにお願いしていただけませんか?」と。
だが、彼我の位置関係上それは不自然だ。
では降りる際に、わざと彼女の後ろをすり抜けて、すれ違いざまに耳打ちしてやろうか。
私のほうがドアに近いところに立っているのでそれも不自然だ。
そして、彼女のことにまた思い至った。
手の甲にペンでメモをしている学生を、私なら採用しないな、と。
まさかあの手のまま面接に行ったわけでもないであろう。
おそらくは説明会か面接が終わった後で書いたものだ。
そうであっても、わざわざ手の甲にメモしているということは、メモをとるのに適切な持ち物を携行していないか、重要なことは手に書いておかないと忘れてしまうような、よほどの粗忽者だと推測できる。
そんな管理の未熟な者を採用したいだろうか。
私が人事担当者なら遠慮したい。
きれいな字だったのは確かだが。
乗車から約7分の後、山手線は私の下車駅に到着した。
ホームに降り立ち、私はもう一度車内の彼女のほうを見た。
彼女はこちらを見てはいなかった。
降りた電車が去っていく。
出口に向かってゆっくり歩き出そうとしたところで私の3メートル後方に立ち止まっている女性2人組が彼女の友人であることに気づいた。
歩き出そうとした足を止め、私は2人が追いついてくるのを待った。
「あの、すみません。」
作品名:通話はご遠慮ください 作家名:春田 賀子