茅山道士 お試し版
『養鬼術』とは死者を操る秘術である。人を呪い殺す『呪殺術 』と共に茅山秘術のなかのひとつで最も重要とされる術である。これ故に茅山秘術は口伝によって密かに伝授されるのであるが、伝授されてから或いはそれ以前より隠していた人格が現れて悪用するものが出てくる。これが今の男のような"悪意をもつ茅山道士"である。このような者を退治するのは正義の茅山道士しかいない。緑青は、まだ茅山の称号を与えられていないので、麟が退治しなければならない。桃の枝を剣の代りに前にかざし、男の突っ込みに備えた。後ろに吹き飛ばされた男は勢いをつけて麟に向かって来た。口は裂け、恨みを残したる鬼の顔になった。男は死す時に未練を残してしまった為、陰陽道の陰に属する怨鬼になってしまったので道士でありながら退仙も出来ずにいたのだった。元来、道士は道術に優れたる者であるから死ぬことは神仙の世界へ移るだけのことで、これを退仙というが、精神の消滅では無く、身体のみの消滅で精神は神仙の世界で生き続けるのである。しかし、道士として人間として道から外れたことをすれば、これは冥府の長官に裁判に於いて告発されて出来なくなり、鬼として人間界と冥界の幽明境の狭間に取り残される。このような怨鬼が人間界に再び戻るには誰かを自分のいる世界へ引きずり込み自分の身代わりにしなければならない。だから、男は必死になっている。もし、麟を倒せなければ精神を消滅させるしかないのだ。男が襲いかかって来るのに剣ではない桃の枝はうまくタイミングが合わず、なかなか倒せない。しかし、ここで麟が焦ると彼が男に隙を与えることになり、危険である。どうすればいいのか、麟の心が先代の道士の記憶の中を飛び答えを探した。その間、彼の身体のほうは男が襲って来るのを桃の枝と餅米で避けているが、心がそこにない麟の身体が男に引き裂かれ傷つけられるのは時間の問題であった。ようやく心が戻り考え通りの答えをなんとか探して来た。向かって来た男を上手に避けて桃の枝を前にかざした。麟は精神を集中し右手の人指指と中指を左手で握り、左手の人指指と中指をのばして"九字"（左手はさや、右手は手刀）の形をつくり、「臨兵闘者皆陣列前行」と一字ずつとな誦えながら、横、縦、横と空中を斬った。方向変換して突っ込んで来た男が、この悪鬼を避ける術に一瞬たじろいだ。その時を見逃さず麟はすかさず桃の枝を男の体に刺した。男は断末魔の悲鳴を上げ、一瞬輝いてまるで火薬が爆発するように弾け飛び、完全に精神が消滅した。消滅した魂は神仙界にも人間界、鬼界にも生まれ変わることはない。永遠に男は消えたのである。
桃の枝をキョンシーの心臓辺りに深く突き刺して、ばったりと倒れた。息があがって立っていられなくなったのだ。しつこい男だったな、麟が夜空を見上げながら男を思い返した。自分の眼鏡に適った身体を持つ人間を待っていたなど、麟には信じられない生への執着であった。麟が先代から無差別に譲渡された茅山道士の能力は本来、先代の鵬道士の弟子である緑青に口伝されるべきものだった。しかし、鵬道士が逝こうとしている時に緑青はまだ、修業と経験が足りなかったので、先代は躊躇していたのである。はたして口伝して緑青が正義の茅山道士となるか、悪意の茅山道士となるかを推し量るのが微妙なところだった。ちょうどその頃、江で入水自殺しょうとした麟を緑青が助けた。が、時すでに遅く事切れていた。鵬道士は道士の勘で麟の元来から持つ素質を見抜き、自らの生命を賭けて麟を助けた。その際に麟に自分の茅山道士としての術の全ても与えたのである。ただひとつ、能力を他人にそっくり伝授する術を除いて。緑青が自分の能力を高め、自分の能力で麟から茅山の称号を取り得たならば良し、という考えからの措置だった。しかし、鵬道士はおそらく緑青はそこまで能力を伸ばせぬであろう、と踏んでいた。先代の道士が麟に生命を与えたことで緑青も自分が先代を継ぐにふさわしい人物ではなかったことに気がつき、今では麟の能力が先代以上に伸び、次に継がれるように補佐するような形を取っている。全ては脈々と流れる系譜のためである。
・・・・残念だったな、あんた。俺はもともと死んだ筈の人間で、先代の道士が五十年の生命をくれたせいで今の俺がある。だから・・・俺は自棄になって死ぬなんてこと屁ともおもっちゃいないのさ。たかが 桃の枝一本で悪意のある茅山道士と闘うなんて無茶してもね・・・・。
あがった息が落ち着いた頃、宴が終わったらしく行方不明の弟子を探しに緑青が駆けて来た。足音で気付いて起き上がって 手を振った。立ち並ぶキョンシーを見て緑青が何事が起きたのかとあやしんだ素振りである。宴を抜け出てからのいきさつ経緯を細かに説明し終わると、緑青が驚きの声を上げた。悪意をもつ茅山道士を餅米と桃の枝一本で相手にしたという麟の大胆さにである。確かに仙桃木剣は桃の木から成る剣ではあるが、あれは剣にしてから道士自身が術を唱え神仏に加護を頼み、清められたものである。それを使ってさえ大変な対決だと思えるのに神仏の加護もない、ただの桃の木の枝で立ち向かうなど自殺行為もいいところだと思った。師匠様はなんていう奴に徳を授けたんだろう。緑青は麟の修業の難しさを改めて知った訳である。また、それとは逆に確かに師匠が選んだだけのことはあると感心もしていた。やはり生まれながらの資質の差をまざまざとみせつけるのである。緑青にはそんなことはどう考えてみても出来そうにないのだ。
「しかし、どうして制した時点で私を呼ばないんだ。そうすれば、もっとたやすく事は運んだだろうに。もし、おまえが死すことになれば師匠の残した術が系譜を辿れなくなる。」
その緑青の言葉に麟は悲しそうな顔になる。彼の言い方では麟が存命する理由はただ、鵬道士の持っていた茅山秘術を次の者に届けてやる為だけであるように取れるからである。緑青は麟の顔が変わったので、自分が言い過ぎたことに気付き慌てて言い換えた。
「いや、何もそれだけではない。せっかく助かった生命を粗末にすることはないと、私は言いたいんだ。さっきのは言い過ぎだ、勘弁してくれ。麟、」
この慌てた様子に麟は少し微笑んだ。緑青は道士にしては人の情けが深すぎる、だから逆にその情けに流され翻弄されてしまう。優しすぎるというか、バカ正直というのか、気の良い人物である。謝る緑青に自分の勝手な行動が原因なのだから、と麟のほうが謝り、ことは治まった。
翌日 キョンシーを火葬にして骨は村の墓に納められた。本来はこれらのそれぞれの故郷へ帰してやるのがしきたりだが、どこの誰ともわからぬので仕方がなかった。しかし、火葬にしてやれば一度、冥界に下り城隍神によって裁判されて再び生まれ変わることが出来る。故郷で子孫からの助けが無い分、少し地獄で苦労するくらいのことで済む筈だった。村がもとの静かな村に戻ると道士のふたりは村人からわずかの御礼を貰い、また旅立った。何処へと決めることも無く、ただ神が薦める道へと歩を進める。
「長江へと足を向けてみようか？麟」
「いえ、どうか江の川岸へ私を連れて行くのだけは勘弁して下さい。」