雪のつぶて20
酔い覚ましに買ったウーロン茶のペットボトルを飲みながら、家の駐車場まで歩いた。五分と離れていないその距離が遠く、足が浮腫んでしまったのか妙に気だるい。
やっとのことで辿り着いた車のシートに、背中をもたれさせた。鈍い音がして自分がどれほどの勢いで、倒れたのかを知る。
上着のポケットに手を入れると、煙草の箱と昨日沙織から貰ったお守りに指先が触れた。引っ張り出したお守りを、忠彦は強く握り締めていく。
資格試験は、明日だった。
残っていたウーロン茶を一息で飲み干すと、空になったペットボトルを助手席のシートに放り投げた。
「行く、か」
誰に言うともなく呟いた後、忠彦は車のエンジンをかけていた。
儚く降り続ける雪を蹴散らすように車を走らせ、由美子が住んでいる病院の寮へと急いだ。
途中で渋滞に巻き込まれ、着いたときには時計が八時前を示していた。病院に隣接して建つ寮の手前で車を止めると、寮の建物から出てきた見覚えのあるコートを着た女が、電話ボックスに入っていく。毛玉までは見えないが、バレットでとめただけの髪型は美野里に違いなかった。彼女も長いこと寮に住んでいるが、誰とも付き合いらしいものはないと、いつだったが由美子が言っていた。
とにかく変な人なのよ。随分前だけど、わたしの友達がね、事務所から荷物を預かったから届けに行ったの。そしたらさ、こう、十センチくらいしか扉を開けないんだって。でも、彼女は見ちゃったのよ。荷物は渡すときには、大きく開かなきゃならないでしょう。それに何しろあの人、誰もそれまで人を誘ったことがないから。つまり誰も彼女の部屋を見た人がいないの。もう五年も六年も住んでるのによ。興味津々で覗いたっていうの。その隙間から見えたものって、何だと思う? なんにもないんだって。家具とかそういうの。おまけに壁に誰かの結婚式の写真が引き伸ばしていくつか張ってあったらしいんだけど、その写真に画鋲で刺したみたいな穴が無数に空いてて、女の顔なんかぐしゃぐしゃだったって言うのよ。神経病んでる人みたいじゃない。わたしさ、こう言っちゃなんだけど、あの人と友達やってるお姉ちゃんも信じられない。わたしだったら、絶対に友達なんかやらない。とにかくおかしな人でさ、寮に住んでても、いつもハブよ、ハブ。変でしょ。おかしいでしょ。
美野里のことを、身振り手振りを添えて由美子が話していた。おかしいでしょ、変でしょ、を繰り返しながら。
そう語られていることを知っているのか知らないのか、美野里は公衆電話の受話器を肩にのせ、どこかに電話をかけている。相手に繋がらないのか、何度も受話器を置き、持ち上げてはダイヤルを繰返す。相手が出ないにしても、あまりにも執拗なかけ方だった。
電話が鳴りっぱなしなのよ、ずっと。忠彦、なんとかして。
ハンドルを握り締めていた手の平に、じっとり汗が浮かび、口の中がからからに渇き始める。
ドアを開けて飛び出していこうかどうしようか迷いながら、ロックを外したときだった。後ろからやってきた車が、寮の前にぴたりと車体をつける。色まではよくわからないが、それは確かにアウディだった。
ロックに指を置き、中から降りてくる人を待ち構えるように見据えた。
暖かそうなスウェードのロングブーツを履いた女の足が見えた。黒いコートの裾をはためかせながら車から降りてきた女は、間違いなく、由美子。表情まではわからないが、由美子は車にいるであろう男に手を振り、寮の中へと消えていく。
由美子の姿が見えなくなると同時に、アウディもその場から立ち去っていった。
あの子、ばかなのよ。寮の前まで送って貰うんだもの、丸見えなのに。
信じたくはなかった沙織の一言が、鮮やかに蘇る。
はっ、と短く息を吐き出した後、お守りをポケットの中に押しやって、車を走らせていた。走り出した途端、助手席で震え出した携帯電話には、沙織の名前が表示されている。
『今、どこにいるのよ』
尖っている沙織の声。酒のにおいは感じられない。
「家に帰ろうかと思ってね。沙織がそう言ったんだろ」
折りよく赤になった信号に、車を左端に寄せて、ハザードを出した。
『そうね。その前にちょっと、うちに寄って行ってよ』
「沙織が呼ぶなら行くさ」
サイドブレーキを降ろすと、忠彦の口元が弛緩していった。家に帰らなくてもいい、かっこうの隠れ家が向こうからやってきた。スピード違反だとわかっていても、アクセルを強く踏まずにはいられない。
昂揚する心が、拍車をかけていく。
沙織はマンションの前で待っていた。黒いコートを抱きしめて。その顔は白さを通りこして青ざめ、口紅が剥げかけた唇だけが妙に赤い。その赤さが微妙な色合いに変わったかと思うと、目の前が真っ白になっていく。
雪を投げつけられていた。烈しくむせこんでいく。
「なんだよ。一体」
頭や肩に積もった雪を払う間もなく、次から次へと投げつけられて、視界だけではなく、忠彦の体も真っ白に染まっていく。
「こっちの台詞よ。卑怯者。あんたみたいな最低な人、初めて見た」
マンションの前に置かれているプランターの植木に積もった雪を投げ、それがなくなると腰を二つに折って足元の雪をすくった。繰返された動作のせいで、沙織の指先は赤くなっていた。
「破談になったのか」
胸がすくような爽快感に包まれていく。唇を片側だけ持ち上げた。
「まさか。あの人はね、忠彦くんとは違うのよ。可哀相に、泣き出しそうな顔をしてた。あんたがおかしな嘘を言ったってね。そんなに人を傷付けて楽しいの。しかも彼はあなたのたった一人の弟じゃないの。どうせ傷付けて喜ぶなら、わたしを傷付ければいいじゃない。これまでだって散々傷付けてきたんだから」
「おれにそんなに怒っても仕方ないだろう。話してもいいって言ったのは、そっちじゃないか。それに本当のことだろ」
「本当に言うとは思わなかったのよ。そこまで根性が腐ってると思わなかった。だからわたしが怒ってるのはね、自分に対してよ」
沙織はまた足元から雪をすくって投げつけた。
「自分に怒ってるのよ。呆れてるのよ。忠彦くんを侮ってた自分にね。もう二度と、わたしの前に姿を見せないで。こんな最低な人だとは思わなかった」
顔を覆って、沙織は泣き出した。
自分の腕の中以外で沙織の涙を見るのは、初めてだった。
買い物袋をぶら下げたマンションの住人が、怪訝そうな顔をして、中へと吸い込まれていく。
顔を覆った指の間から、沙織の瞳だけが見えた。
「いつまでそこにいるのよ。早く帰りなさいよ。どうせあんたのことだから、これでわたしのところに居つくことができると考えていたんだろうけど、そんなにうまくいかないから」
手の平の下から現れた目のまわりには、涙が張り付いていた。
心が坂道を一気に下っていく。石ころが転がるみたいに。
唇を斜めにした沙織は、雪を丸めて投げつけてくる。固まりきらない雪は、届く前にばらばらになり、その形をもろく崩れさせていく。
やっとのことで辿り着いた車のシートに、背中をもたれさせた。鈍い音がして自分がどれほどの勢いで、倒れたのかを知る。
上着のポケットに手を入れると、煙草の箱と昨日沙織から貰ったお守りに指先が触れた。引っ張り出したお守りを、忠彦は強く握り締めていく。
資格試験は、明日だった。
残っていたウーロン茶を一息で飲み干すと、空になったペットボトルを助手席のシートに放り投げた。
「行く、か」
誰に言うともなく呟いた後、忠彦は車のエンジンをかけていた。
儚く降り続ける雪を蹴散らすように車を走らせ、由美子が住んでいる病院の寮へと急いだ。
途中で渋滞に巻き込まれ、着いたときには時計が八時前を示していた。病院に隣接して建つ寮の手前で車を止めると、寮の建物から出てきた見覚えのあるコートを着た女が、電話ボックスに入っていく。毛玉までは見えないが、バレットでとめただけの髪型は美野里に違いなかった。彼女も長いこと寮に住んでいるが、誰とも付き合いらしいものはないと、いつだったが由美子が言っていた。
とにかく変な人なのよ。随分前だけど、わたしの友達がね、事務所から荷物を預かったから届けに行ったの。そしたらさ、こう、十センチくらいしか扉を開けないんだって。でも、彼女は見ちゃったのよ。荷物は渡すときには、大きく開かなきゃならないでしょう。それに何しろあの人、誰もそれまで人を誘ったことがないから。つまり誰も彼女の部屋を見た人がいないの。もう五年も六年も住んでるのによ。興味津々で覗いたっていうの。その隙間から見えたものって、何だと思う? なんにもないんだって。家具とかそういうの。おまけに壁に誰かの結婚式の写真が引き伸ばしていくつか張ってあったらしいんだけど、その写真に画鋲で刺したみたいな穴が無数に空いてて、女の顔なんかぐしゃぐしゃだったって言うのよ。神経病んでる人みたいじゃない。わたしさ、こう言っちゃなんだけど、あの人と友達やってるお姉ちゃんも信じられない。わたしだったら、絶対に友達なんかやらない。とにかくおかしな人でさ、寮に住んでても、いつもハブよ、ハブ。変でしょ。おかしいでしょ。
美野里のことを、身振り手振りを添えて由美子が話していた。おかしいでしょ、変でしょ、を繰り返しながら。
そう語られていることを知っているのか知らないのか、美野里は公衆電話の受話器を肩にのせ、どこかに電話をかけている。相手に繋がらないのか、何度も受話器を置き、持ち上げてはダイヤルを繰返す。相手が出ないにしても、あまりにも執拗なかけ方だった。
電話が鳴りっぱなしなのよ、ずっと。忠彦、なんとかして。
ハンドルを握り締めていた手の平に、じっとり汗が浮かび、口の中がからからに渇き始める。
ドアを開けて飛び出していこうかどうしようか迷いながら、ロックを外したときだった。後ろからやってきた車が、寮の前にぴたりと車体をつける。色まではよくわからないが、それは確かにアウディだった。
ロックに指を置き、中から降りてくる人を待ち構えるように見据えた。
暖かそうなスウェードのロングブーツを履いた女の足が見えた。黒いコートの裾をはためかせながら車から降りてきた女は、間違いなく、由美子。表情まではわからないが、由美子は車にいるであろう男に手を振り、寮の中へと消えていく。
由美子の姿が見えなくなると同時に、アウディもその場から立ち去っていった。
あの子、ばかなのよ。寮の前まで送って貰うんだもの、丸見えなのに。
信じたくはなかった沙織の一言が、鮮やかに蘇る。
はっ、と短く息を吐き出した後、お守りをポケットの中に押しやって、車を走らせていた。走り出した途端、助手席で震え出した携帯電話には、沙織の名前が表示されている。
『今、どこにいるのよ』
尖っている沙織の声。酒のにおいは感じられない。
「家に帰ろうかと思ってね。沙織がそう言ったんだろ」
折りよく赤になった信号に、車を左端に寄せて、ハザードを出した。
『そうね。その前にちょっと、うちに寄って行ってよ』
「沙織が呼ぶなら行くさ」
サイドブレーキを降ろすと、忠彦の口元が弛緩していった。家に帰らなくてもいい、かっこうの隠れ家が向こうからやってきた。スピード違反だとわかっていても、アクセルを強く踏まずにはいられない。
昂揚する心が、拍車をかけていく。
沙織はマンションの前で待っていた。黒いコートを抱きしめて。その顔は白さを通りこして青ざめ、口紅が剥げかけた唇だけが妙に赤い。その赤さが微妙な色合いに変わったかと思うと、目の前が真っ白になっていく。
雪を投げつけられていた。烈しくむせこんでいく。
「なんだよ。一体」
頭や肩に積もった雪を払う間もなく、次から次へと投げつけられて、視界だけではなく、忠彦の体も真っ白に染まっていく。
「こっちの台詞よ。卑怯者。あんたみたいな最低な人、初めて見た」
マンションの前に置かれているプランターの植木に積もった雪を投げ、それがなくなると腰を二つに折って足元の雪をすくった。繰返された動作のせいで、沙織の指先は赤くなっていた。
「破談になったのか」
胸がすくような爽快感に包まれていく。唇を片側だけ持ち上げた。
「まさか。あの人はね、忠彦くんとは違うのよ。可哀相に、泣き出しそうな顔をしてた。あんたがおかしな嘘を言ったってね。そんなに人を傷付けて楽しいの。しかも彼はあなたのたった一人の弟じゃないの。どうせ傷付けて喜ぶなら、わたしを傷付ければいいじゃない。これまでだって散々傷付けてきたんだから」
「おれにそんなに怒っても仕方ないだろう。話してもいいって言ったのは、そっちじゃないか。それに本当のことだろ」
「本当に言うとは思わなかったのよ。そこまで根性が腐ってると思わなかった。だからわたしが怒ってるのはね、自分に対してよ」
沙織はまた足元から雪をすくって投げつけた。
「自分に怒ってるのよ。呆れてるのよ。忠彦くんを侮ってた自分にね。もう二度と、わたしの前に姿を見せないで。こんな最低な人だとは思わなかった」
顔を覆って、沙織は泣き出した。
自分の腕の中以外で沙織の涙を見るのは、初めてだった。
買い物袋をぶら下げたマンションの住人が、怪訝そうな顔をして、中へと吸い込まれていく。
顔を覆った指の間から、沙織の瞳だけが見えた。
「いつまでそこにいるのよ。早く帰りなさいよ。どうせあんたのことだから、これでわたしのところに居つくことができると考えていたんだろうけど、そんなにうまくいかないから」
手の平の下から現れた目のまわりには、涙が張り付いていた。
心が坂道を一気に下っていく。石ころが転がるみたいに。
唇を斜めにした沙織は、雪を丸めて投げつけてくる。固まりきらない雪は、届く前にばらばらになり、その形をもろく崩れさせていく。