ふたりの世界
心臓がばくばく鳴っている。強く打った背中が心音と呼応するようにじんじん痛んだ。他人を必要がるのがいつぶりだったかもすぐに思い出せない。同性であることはさしたる問題ではない。こういうことは、男女関係ないと思っている。そういう考えだからこそ問題だった。
結婚もせず特定の相手もなしに三十五歳になった。そろそろ、そんなものは放棄してやろうという心持ちだったのである。それが、姿を探し求め暇さえあれば劇場に通い、写真まで撮って叱咤し、大嫌いな環境で数時間眠るのも我慢して、挙句衝撃のあまりソファから転落する恋心に気づいてしまった。
嘆息し、正座して深呼吸をしてみる。たんに暴走する心臓に重なっただけだった。一目惚れだったのだろう。舞台や客席から誰もいなくなり、二人きりになったあの瞬間。
脳裏に克明に蘇り、寿晶は手探りに引き寄せた煙草に火をつけた。甘みがすーっと肺に沁み込んできて、少しずつ少しずつ落ち着いてくる。開いた状態のまま落下した携帯を膝の上に救出してやる。手がどことなくおぼつかない。こういう感情を一人で抱えてしまっておくのは昔からどうにも苦手だった。
自覚したものは伝えてしまいたい。子どもっぽいと自分でもやっかいにしている。あとさきのことなど、どうでもよくなってしまう性質だった。
連絡先は当然わからず、預かりものをしているからと同僚らしき警備員にシフトを尋ねておいた。町田はほぼ毎日入っているらしいが、持ち場が違うらしい。どおりで以来会わなかったわけである。そもそもどこに警備員が立っているかなんてつい最近まで気にかけたこともなかった。
今日は、この前と同じくエントランス付近に町田はいるという。定期を拾ってもらわなければ今ごろまだ劇場通いを続けていただろう。行かないうちに町田が出演したらという懸念はあったものの、ひとまず確実な方法を選ぶのが先だ。
きょろきょろフロアを見渡していると、出入り口に立っていた男がちょうど寿晶を振り返った。ぱっと表情を明るくした町田は、寿晶が近づくよりも先に駆け寄ってきた。
「市川さん! 決まりました! 次の! 遠慮しないでいろいろできたの、自信持てって言ってもらったおかげです!」
「はっ? ああ、だから言っただろ……」
「でも、まだ……ちょっと不安なんですけど……」
至近距離からにこにこ覗き込まれ、いきなりいつものペースを崩されてしまう。しかししゅんとトーンを下げた、うしろ向きな声を聞いてそうも言ってられなくなる。尻すぼまりの言葉に動揺が吹き飛んだ。
「だからそれがだめなんだって言っただろ! 俺の見込んだ男なんだぞおまえは。売れないはずがない」
背中を音を立てて叩き、きっと睨みつける。町田のことは好きだが、うしろ向きさだけは許せない。舞台上と同じとまでは言わないが、もっとはつらつとした男でいてもらいたい。
「あの……それってどういう意味ですか」
「期待してる。応援もしてる。あと」
しばらく押し黙ったあと、おずおず訊いてきた町田に両腕を掴まれた。大きな手は先を促すように時おり腕を軽く引っぱってくる。落ち着きなく動く町田の瞳は、じっと見つめると思っていたよりも幼い形をしていて、吸い込まれそうになる。瞬きをすると睫毛で目の色がわからなくなるのが惜しい。
唇を噛みしめ、せっつくのを堪えているらしい町田を初めてかわいいと思った。
「好きだ」
「それは……、深読みして、いいんですか」
「そうだろ。自信持て」
「どっちですか。実尋ですかすばるですか」
恋愛ですかファンですか。改めて確認をしてくる町田の表情は硬い。寿晶のほうが訊き返してやりたかった。そういう質問をしてくるということは、どういうことかわかってるのか。
額と額がこつんと軽くぶつかった。人気のない電気もろくに着いていない空間で見つめ合うのは、なにかのセットの中にいるようだった。
「両方に決まってるだろ」
「……市川さん、やっぱりいい匂いがします」
ほがらかに笑ったかと思えば、ぐいっ、と強引に腰を抱き寄せられた。煙草は、つい十数分前に吸っていた。警備員の制服の、厚めの生地が顎をかすめる。体格はさして変わらないが、上背があるせいか自分よりも町田が逞しく感じる。二度目の彼の腕の中は年甲斐もなくやけに緊張して、言葉に詰まった。
「市川さんのと煙草の匂いが混じって、甘い匂い、大好きです」
耳のつけ根を鼻先で探られ、脚に力が入った。唇がゆっくり重なる。誰か来たら、なんて心配はまったくしなかった。
ここは二人きりの舞台で、幕が上がったばかりだ。