淋しい花束
*
店を早く閉め、久し振りに妻の墓を詣でた。
これまでは、何かと理由をつけては行かなかった――いや、行けなかった場所だ。
墓に行けば、妻の死に、否が応でも向かい合わなければならなくなる。そのことが、
怖かった。
――でも、もう大丈夫だ、と。
心の内で妻にそう語りかけ、帰ろうかと首をめぐらした時。
視界の隅に、薄黒の制服が、一瞬、小さく映った。
――まさか――。
薄黒の制服を着た軍人など、珍しくもない。なのに。なのに――。
足が、自然、かの人物が去っていった方向へと向く。
一体何をしているのかと、内心で自分に舌打ちしつつも、一定の距離を保ちつつ、その
姿を追いかけていた。
茂みの隙間越しに横顔が、少しだけ、見えた。
――足が、止まる。声が出そうになるのを抑えられたことが、自分でも不思議だった。
あの顔は。
間違いなく、あの青年だった。
――どうして。
去っていく後姿を呆然と見送りながら、その言葉だけが頭の中を反芻する。
どうして、彼が墓地(ここ)に。
何故か、嫌な予感が、した。
再び、足が動き始める。
青年がいた付近へと。
心臓の音がドクドクと喧しい。
口の中がからからに乾いている。
――関係のないことではないか。彼が、此処にいた理由など。余計な詮索など、しない
方がいい。野次馬根性というものだ。
――わかっている。十分に。
なのに、一体自分は、何を――。
「――……ああ……――」
茂みの先にあった光景に、絶句する。
其処は妻が眠る場所の相似形。墓石の群れが、痛いほどの沈黙で生者を迎える空間。
その中で、見つけてしまった。
一つの墓前に供えられた、かすみ草の花束を。
共に渡した、百合の花を。
驚きと、絶望に似た思いが去来する。
眩暈を起こしそうになるのを必死で堪えながら、よろよろと近付く。
間違いはなかった。
紛れもなくこれは、青年が買い求めた――そして自分が渡した花たち。
墓石に目をやる。まだ新しいらしく、風雨に曝された形跡は見られない。
その表面に刻まれていたのは、女性の名前。
『えぇ、妻に』
『きっと妻も喜ぶでしょう』
そう答えた青年の声が、花束を見る表情が、甦る。
――ああ。
だからあんなにもいとおしげだったのか。
失くしてしまった大切な何かを、其処に見出すから。
手にしていたであろう幸福なひと時を、束の間垣間見るから。
彼がやって来るあの日は、愛した女性の命日なのかもしれない。
おそらく彼は、彼女が好きだった花を、これからも手向け続けるのだろう。
その疵痕が癒えるまで。
温かなぬくもりを、再び思い起こせる、その日まで。
風が強く吹いた。
かすみ草たちは、物言わぬまま、ただ静かに、揺れていた。