淋しい花束
=淋しい花束=
その風変わりな客は、ある日ふらりとやって来た。
「かすみ草の花束を」
薄黒の制服と帽子から、すぐに軍人なのだと分かった。まだ若い。20代後半くらいだろう
か。どこか憂いを含んだ涼しげな切れ長の目元が印象深い、なかなかの美青年だ。女性
たちからもてはやされるのだろうな、と、下世話ながら思う。
他には?と訊ねる。当然、主となる花がいるだろうと。そう、単純に思ったのだ。
だが青年は、一瞬、虚を付かれたような表情を浮かべた。考えもしなかったというように。
そしてゆっくり首を振り、「かすみ草だけで」と答えた。
店にあった、ありったけのかすみ草を集めてできた花束は、軽く、いかにも淋しげだった。
薄いレースを重ねただけのように。一瞬目を離したら、次の瞬間には解けて消えてしまって
いるのではないかと。そう思ったほどに。
本当に他の花を入れなくて良いのかと訊ねたが、青年は黙って首を横に振っただけだっ
た。そうして、ありがとう、と、代金と引き換えに花束を受け取ると、雑踏へと消えて
いった。
*
再び客が姿を見せたのは、こちらの記憶が少し薄れてきていた頃だった。しばらくぶりに
現れた青年は、静かな声でかすみ草の花束を所望した。他の花はいらない、かすみ草だ
けでいい、と。
ただ束ねただけではあまりに淋しかろうと、包みにリボンをかけようか、と提案した。
青年はちょっと考えてから、お願いします、と頷いた。何色が良い、と重ねて問うと、
何色がある、と逆に問う。淡いものから濃いものまで色々だと答えると、青年はしばらく
口を閉ざしていたが、ややあって、「では淡い桜色を」と言った。
淡い色を重ねては、いっそう儚くなるのでは。よぎった予感は的中し、可憐ではあるが、
ひときわ淋しげな花束がひとつ、出来上がった。
余計なお世話と知りつつも、他の色に変えることを勧めようとして――口を閉ざす。
花束を見る青年の瞳に差しこんだ、いとおしげな光に押されて。
その表情を見てしまっては、何も言えなかった。言っても、きっと野暮なだけだろう。
花束を受け取ると、青年は心なしか口元をほころばせ、律儀に一礼をして去っていった。
*
三度(みたび)、青年は現れた。やはり、かすみ草の花束を所望して。
手渡し際、どなたかへの贈り物ですか、と声をかける。三度目ということもあり、
こちらにも幾分か気安さが生まれていた。あるいは前回、青年の微笑を目にしていた
せいかもしれない。
青年の目元が少しだけ緩む。短く簡潔な答えが返ってきた。
「えぇ、妻に」
ああ、それでなのか、と、得心する。花束を見る青年の瞳が、あれほどまでにいとおし
そうなのは。きっとその向こうに、愛する女性の微笑を見ているのだろう。
会釈を残し去っていく青年の背を見送りながら、ふと思う。そういえば、前回青年が
やって来たのも、ちょうどひと月前の、同じ日ではなかったか。
帳簿を確認する。はたしてそうだった。もしやと思い更にページを繰る。
やはり――同じ日だった。青年が初めてここに来て、かすみ草の花束を買い求めたの
は、ちょうどふた月前の同じ日――。
…おそらくこの日は彼に、いや、『彼ら』にとって、特別な意味を持つのだろう。
かすみ草の花束は、ささやかな祝いの証なのかもしれない。
そんなことを考えていると、自然と笑みが零れていた。なんとも言えぬ温かさと共に。
それは自身にとっても、久し振りの感覚のような気がした。
(…ああ、そうだった)
忘れていた。こんなにも優しい温もりは。妻を亡くしてから――。
花束を抱えて微笑み合う、若い夫婦の姿が浮かぶ。それは何十年も昔、自分たちにも当
てはまった光景。
――きっと青年は、来月の同じ日、またやって来るだろう。かすみ草の花束を買うために。
その時のために、とっておきのものを用意しておこう。そう、思った。
*
薄黒の制服を目にした途端、何も訊かずにかすみ草を束ね始めた姿を見て、青年は小さ
く苦笑したようだった。
いつもより多めに仕入れておいたかすみ草を手際よく束ね、包みの上から淡い色のリボ
ンをかける。淡くまとめられた花束を見ても、もう淋しげだとは思わなかった。
いつもの通り花束を受け取り、踵を返そうとする青年を慌てて引き止め、用意しておいた
百合の花を渡す。驚きと不審が綯い交ぜになった空気を、一瞬、眉間の辺りに漂わせた青
年に、いつも贔屓にしてもらっている礼だ、と笑った。
今度ははっきりと、青年の顔に驚きと戸惑いが広がる。それは駄目だ、受け取れない、と
言う青年の手に、半ば押し付けるようにして百合の花を握らせる。貴方と奥様への、自分
からの感謝の気持ちだから、と。
しばらく押し問答が続いたが、頑固な態度に根負けしたのか。青年は一つ息を吐くと、
本当にありがとうございます、と頭を下げた。
「きっと妻も喜ぶでしょう」
再三礼を繰り返してから、青年は店を後にした。
少し強引過ぎたか、とも思ったが、いかにも真面目そうなあの青年のこと。あれぐらいで
なければ受け取ってもらえなかっただろう、と、一人頷く。
何より、青年に語った言葉は、間違いなく本心だった。自分は彼らに感謝している。
ただ贔屓にしてもらっているというだけではなく、穏やかな温もりの感覚を思い出させて
くれた存在として――。
あの青年は、どんな表情で細君に今日のことを話すのだろう。また細君は、どんな表情で
それに応じるのだろう。
願わくば、自分の勝手な想像通り、笑い合っていてほしかった。
幸せな姿が、あの青年にもその妻にも、似合っていると信じていたから。