海星の流した白い涙
砂浜はぬかるんでいた。びちゃりびちゃりと泥は跳ね、ヒールが浅くのめり込むので、あまり歩きたくはなかった。空はまだぐずついて、灰色の分厚い雲に守られている。雨上がりの空気だけが瑞々しかった。
「海はなんで塩っぱいんだと思う」
カイムは人差し指で海を掬って、舐めて言った。彼の軍靴は寄せては返す波にすっかり濡れてしまっているのに、それには気にも留めずしゃがんで潮騒を聴いている。私は一歩離れたところで、波に当たらぬよう、海星の亡骸を靴先でつついていた。
「塩化ナトリウム」
「何だい、それは」
彼はものを知らない。
「生き物には必要不可欠な……」
と説明しかけて、馬鹿馬鹿しくなったから止めた。要するに塩だ、と言い直しても良かったけど、そうすると「だから、何で塩なんだと思う」と訊かれるだろうと分かっていたから、結局は「わからない」で終わらせた。
「ローザは言ってたよ。それは海がお日様の涙でできているからだ、って」
「言い得て妙ね」
「ずばり正解、でいいんじゃないの」
「まあ……でも、些か詩的すぎるわ」
その涙は循環して枯れることがない、というわけだ。
雨が降ったあとの海はどこをどう見ても美しくない。上がったあとカラリと晴れるような雨だったならまだ良いのだが、今日のような日は駄目だった。泣きはらした顔が腫れぼったく薄ら赤いのと同じように、海はどんよりとして黄土色に濁っていた。それはたぶん、空が灰色で、陽のひかりが海まで届いていないからだ。海が青いのは陽にあたっているから、空が朱くなるのも陽にあたっているから。
この世界の色という色は、なにもかも、すべてが光に委ねられている。
「それだと、海はお日様の鼻水ってことにもなるわね」
「どうして?」
それを舐めたばかりのカイムはちょっと嫌そうだった。
「涙と鼻水は、元を辿れば同じものなんだって。どっちも塩っぱいでしょ」
カイムは苦笑して、「夢がないなあ」とだけ言った。夢だけを見て生きていられるような時代はとうの昔に通り過ぎてしまっていた。
黒のハイヒールで踏んだり蹴ったりしていた、白骨化した海星が、ぱきっと割れた。
「たくさん砂糖を流したら、甘くなるのかな」
「本気でそう思うの?」
甘いものが好きな彼は、だが、大人の顔で、首を横に振った。そりゃあ、無理だってわかっているけど、
「でも本当に甘くなったら、みんな海を好きになると思うよ」
「それはどうかしら」
「マリナは甘いものが、嫌い?」
「……嫌いではない、けど」
私の返答に、カイムは満足そうに破顔した。嬉しそうなひとの顔をみると自分も嬉しくなるけれど、同じものを見て同じように感じて一緒に笑うことは、たぶん出来ないのだとわかっているから、嬉しいのに胸が空く。私は曖昧に笑った。
「ニホンは不思議だね。ぜんぶが海に囲まれていて。何処へ向かって走ったとしても、最後には海に辿り着いてしまうんだ」
彼の中では、日本イコール海だった。私からすれば、アメリカだってほとんど海に囲まれてるじゃない、と思うのだけれど、それは私が世界地図でしかアメリカを知らないからだ。実感として、やはり日本は海の国なんだろう。特に彼の場合は、私が地図で見るアメリカしか知らないように、オキナワという日本しか知らないから。カイムは時々こうやって、恋しそうに太平洋の向こうを見つめる。
「でも、海の向こうには行けない。でしょう?」
「行けるよ、行こうと思えば」
彼はすっくと立ち上がり、ちょっと、という私の制止も無視して、色のない海の中へと走っていった。初めての水遊びにはしゃぐ子供のように、大きな水音を立てて、楽しげに。とても気持ちよさそうだった。肩のあたりの深さまできたところでようやく振り返って、私を手招きした。
「おいでよマリナ! すごく気持ちが良いから!」
いまの海の色は――とてもきたない。
「君は、きらきら輝くものがこわいんだろう?」
でもいまなら大丈夫だと、そう言いたいのだろうか。
「悪いけど、それはちょっと違うわ」
私がそう言ったとき、たまたま大波が来て、カイムを頭からずぶ濡れにした。「うわー」と言いながら慌てて前へ前へ泳いできて、腰の辺りの深さまで引き返した彼を見て「それに、私は溺れたくないしね」と付け足して言った。彼は不服そうだった。
「溺れたりしないよ」
しかし言ってしまってから、この台詞は少し失敗だったかという風な顔をして、ううん、と唸った。それから少し逡巡して、
「一緒だったら、溺れてもこわくないよ」
と言った。だからおいで、マリナ。そう、私を誘う彼の肩幅の広さと両腕の強さとが、全力で私を安心させようとしてくるから、泣きたくなってしまうのだということを、彼はわかっていない。
「この海が甘くなったら、溺れてやってもいいよ」
そんなことは起こりえないと私だけが知っていた。彼は「ワガママだなあ」と仕方なさそうに笑って海から上がった。有り得ないことを望むのはやはり我が儘なのだろうか。あんたが砂糖をたくさん流したらいいのよ、とは、言えなかった。
海から上がったカイムはびちょびちょなのに、ちっとも不自然じゃなかった。軍服はきれいなままよりも、水に濡れたり泥に塗れたりしている方が、よく似合った。六十年ほど前なら敵だったひとの眼を、私はきれいだと思ってしまった。今まさに敵地に上陸した兵士のような厳しい面持ちで、彼は近づいてきた。あなたは私を侵略しにきたの? その結果だけ、私はよく知っている。
彼は私の足下を見た。海星が粉々に砕けて砂浜と同化しかけていた。が、水に濡れた砂は濃い茶色をしているのに、亡骸の粉末は白々と寂しげに海風に晒されている。無意識のうちに踏みつけて粉砕したのは私なのだ。そう意識しはじめると、急にむなしくなってくる。
カイムが顔を上げたので、私も彼を見た。きれいな金髪もぐちゃぐちゃに濡れていて、潮が香った。私があんまり熱心にそれを見つめるので、彼はにやついて言った。
「水の滴るいい男?」
「自分で言うか」
呆れて嘆息すると、カイムは愉快そうに笑い、それから私の手を握った。握る力の度合いや、その触れ方から、なにか大事なことを言うんだと感じ取った。
「でも、ごめんね。僕からはまだ何も言えない」
まだ言えない、だなんて。
そんな希望を持たせる言い方、もうやめればいいのに。
彼は、黙って頷く私の頬に、親愛のキスをした。頬と、唇。距離にしてみると僅か数センチの違いなのに、こんなにも意味が違う。彼が愛する彼女の唇はきっと、とても瑞々しくて柔らかい。
嘘つき、と心の中で呟いた。嘘つき、嘘つき。そう繰り返して絶望的な気持ちになるのに、その一方で、頬に触れた感触だけで幸せになってしまう、自分が悲しい。
「海はなんで塩っぱいんだと思う」
カイムは人差し指で海を掬って、舐めて言った。彼の軍靴は寄せては返す波にすっかり濡れてしまっているのに、それには気にも留めずしゃがんで潮騒を聴いている。私は一歩離れたところで、波に当たらぬよう、海星の亡骸を靴先でつついていた。
「塩化ナトリウム」
「何だい、それは」
彼はものを知らない。
「生き物には必要不可欠な……」
と説明しかけて、馬鹿馬鹿しくなったから止めた。要するに塩だ、と言い直しても良かったけど、そうすると「だから、何で塩なんだと思う」と訊かれるだろうと分かっていたから、結局は「わからない」で終わらせた。
「ローザは言ってたよ。それは海がお日様の涙でできているからだ、って」
「言い得て妙ね」
「ずばり正解、でいいんじゃないの」
「まあ……でも、些か詩的すぎるわ」
その涙は循環して枯れることがない、というわけだ。
雨が降ったあとの海はどこをどう見ても美しくない。上がったあとカラリと晴れるような雨だったならまだ良いのだが、今日のような日は駄目だった。泣きはらした顔が腫れぼったく薄ら赤いのと同じように、海はどんよりとして黄土色に濁っていた。それはたぶん、空が灰色で、陽のひかりが海まで届いていないからだ。海が青いのは陽にあたっているから、空が朱くなるのも陽にあたっているから。
この世界の色という色は、なにもかも、すべてが光に委ねられている。
「それだと、海はお日様の鼻水ってことにもなるわね」
「どうして?」
それを舐めたばかりのカイムはちょっと嫌そうだった。
「涙と鼻水は、元を辿れば同じものなんだって。どっちも塩っぱいでしょ」
カイムは苦笑して、「夢がないなあ」とだけ言った。夢だけを見て生きていられるような時代はとうの昔に通り過ぎてしまっていた。
黒のハイヒールで踏んだり蹴ったりしていた、白骨化した海星が、ぱきっと割れた。
「たくさん砂糖を流したら、甘くなるのかな」
「本気でそう思うの?」
甘いものが好きな彼は、だが、大人の顔で、首を横に振った。そりゃあ、無理だってわかっているけど、
「でも本当に甘くなったら、みんな海を好きになると思うよ」
「それはどうかしら」
「マリナは甘いものが、嫌い?」
「……嫌いではない、けど」
私の返答に、カイムは満足そうに破顔した。嬉しそうなひとの顔をみると自分も嬉しくなるけれど、同じものを見て同じように感じて一緒に笑うことは、たぶん出来ないのだとわかっているから、嬉しいのに胸が空く。私は曖昧に笑った。
「ニホンは不思議だね。ぜんぶが海に囲まれていて。何処へ向かって走ったとしても、最後には海に辿り着いてしまうんだ」
彼の中では、日本イコール海だった。私からすれば、アメリカだってほとんど海に囲まれてるじゃない、と思うのだけれど、それは私が世界地図でしかアメリカを知らないからだ。実感として、やはり日本は海の国なんだろう。特に彼の場合は、私が地図で見るアメリカしか知らないように、オキナワという日本しか知らないから。カイムは時々こうやって、恋しそうに太平洋の向こうを見つめる。
「でも、海の向こうには行けない。でしょう?」
「行けるよ、行こうと思えば」
彼はすっくと立ち上がり、ちょっと、という私の制止も無視して、色のない海の中へと走っていった。初めての水遊びにはしゃぐ子供のように、大きな水音を立てて、楽しげに。とても気持ちよさそうだった。肩のあたりの深さまできたところでようやく振り返って、私を手招きした。
「おいでよマリナ! すごく気持ちが良いから!」
いまの海の色は――とてもきたない。
「君は、きらきら輝くものがこわいんだろう?」
でもいまなら大丈夫だと、そう言いたいのだろうか。
「悪いけど、それはちょっと違うわ」
私がそう言ったとき、たまたま大波が来て、カイムを頭からずぶ濡れにした。「うわー」と言いながら慌てて前へ前へ泳いできて、腰の辺りの深さまで引き返した彼を見て「それに、私は溺れたくないしね」と付け足して言った。彼は不服そうだった。
「溺れたりしないよ」
しかし言ってしまってから、この台詞は少し失敗だったかという風な顔をして、ううん、と唸った。それから少し逡巡して、
「一緒だったら、溺れてもこわくないよ」
と言った。だからおいで、マリナ。そう、私を誘う彼の肩幅の広さと両腕の強さとが、全力で私を安心させようとしてくるから、泣きたくなってしまうのだということを、彼はわかっていない。
「この海が甘くなったら、溺れてやってもいいよ」
そんなことは起こりえないと私だけが知っていた。彼は「ワガママだなあ」と仕方なさそうに笑って海から上がった。有り得ないことを望むのはやはり我が儘なのだろうか。あんたが砂糖をたくさん流したらいいのよ、とは、言えなかった。
海から上がったカイムはびちょびちょなのに、ちっとも不自然じゃなかった。軍服はきれいなままよりも、水に濡れたり泥に塗れたりしている方が、よく似合った。六十年ほど前なら敵だったひとの眼を、私はきれいだと思ってしまった。今まさに敵地に上陸した兵士のような厳しい面持ちで、彼は近づいてきた。あなたは私を侵略しにきたの? その結果だけ、私はよく知っている。
彼は私の足下を見た。海星が粉々に砕けて砂浜と同化しかけていた。が、水に濡れた砂は濃い茶色をしているのに、亡骸の粉末は白々と寂しげに海風に晒されている。無意識のうちに踏みつけて粉砕したのは私なのだ。そう意識しはじめると、急にむなしくなってくる。
カイムが顔を上げたので、私も彼を見た。きれいな金髪もぐちゃぐちゃに濡れていて、潮が香った。私があんまり熱心にそれを見つめるので、彼はにやついて言った。
「水の滴るいい男?」
「自分で言うか」
呆れて嘆息すると、カイムは愉快そうに笑い、それから私の手を握った。握る力の度合いや、その触れ方から、なにか大事なことを言うんだと感じ取った。
「でも、ごめんね。僕からはまだ何も言えない」
まだ言えない、だなんて。
そんな希望を持たせる言い方、もうやめればいいのに。
彼は、黙って頷く私の頬に、親愛のキスをした。頬と、唇。距離にしてみると僅か数センチの違いなのに、こんなにも意味が違う。彼が愛する彼女の唇はきっと、とても瑞々しくて柔らかい。
嘘つき、と心の中で呟いた。嘘つき、嘘つき。そう繰り返して絶望的な気持ちになるのに、その一方で、頬に触れた感触だけで幸せになってしまう、自分が悲しい。