茅山道士 かんざし2
「麟、薬の時間ですよ。」
そう言いながら自称母親は薬湯の入った碗を持ち部屋に入って来た。ちょうど麟は寝台に腰掛けて左手で文字を書く練習をしていた。西王母の姿を眼中に認めて、麒麟たちは退出した。
「これが文字ですか? 麟。」
「左手で書くのは難しいですよ。お母さん。」
「どうして、こんなことを?」
「しばらく右手は使い物に成らないでしょう。だから、修行に戻った時に困らないように。」
左手に持っていた筆を置き、麟は西王母のほうを向いた。もう、戻ることを考えているのかと西王母は寂しい気持ちになったが、それをおくびにも見せずに横に座り薬湯を飲ませてやろうとした。
「いえ、自分で飲みます。」
「だめです。左手だけでは不安定でしょう。」
差し出した息子の手をどけて、母親は薬湯を飲ませた。麟が口をつけた苦そうな顔をしたが、西王母がどんどん碗を傾けるので飲まずにはおれない。前に、人狐の家で世話になった時にも苦い薬湯を飲まされたが、それといい勝負だと思いながら我慢して飲み干した。「苦いでしょう。でも、これで痛みはひくはずですからね。」
息子の歪んだ顔を見て、母親は甘い砂糖菓子をその口にほおりこんだ。
「その傷……後が残るかもしれませんね。」
「構いません。私が悪いのです。それより、お母さん。お聞きしたいことがあります。」
帰してほしいというのなら絶対受付けないと西王母は軽くあしらったが、息子の問いは別のものだった。
「いえ、それもありますが、私は傷を負ってから随分お世話になっているように思うのですが、どのくらい経っているのでしょう? 自分では皆目見当がつかないのです。」
ほら、やっぱりと言いながら、母親は麟がここへ来て六日が経過していることを教えた。
「傷はもう二三日でふさがると思いますよ。でも、右手が以前と同じ様に使えるには一月はかかるでしょうね。」
使っても痛みが残らなくなるには、さらに二か月は必要だろうと付け足した。フーッと息子は溜め息をついて、母親の肩に寄りかかった。
「ここにいると夢のようで本当に楽しいのです。でも、私には見習い道士としての修行の旅があって、そちらに戻らなければなりません。こんなふうに、お母さんといるとそれを忘れそうになります。」「よいではありませんか。修行中に休息をとっても悪いことではありませんよ。よくなったら、気分を入れ替えて修行にはげめばよいのです。」
遠からずやってくる別れを予感しながら、西王母は寄りかかった息子を愛しいと思った。けっして転生前の息子の代わりとは思っていないが、自分が手放したものの大きさを改めて思うのである。でも、無理に止めていれば、あの子は狂ってしまったかもしれない。その気持ちが息子の願いを許した理由だろうと自分でも考えている。 自称母親の肩に寄りかかった麟は自分の負った怪我の程度に今更ながら驚く。緑青のもとへ戻って、はたして自分はこの傷を緑青に隠し通せるかが疑問である。しかし、傷の原因を考えれば隠し通すしかないだろうな、とも思うのである。黙り込んだ自分を心配そうに覗き込む母親に、麟は、「そうですね。お母さんからそう言っていただけると私も安心します。」 と、笑いかけた。
「少し横になりなさい。そのままゆっくりと頭を私の膝まで下げてらっしゃい。いつも、うつぶせでは疲れるでしょう。母の膝を貸してあげますよ。」
西王母は麟の頭を膝に乗せ、肩の傷に負担がかからないようにしてやった。怪我人は実の母に膝枕してもらったのは子供の頃だけだったのに恥ずかしそうにしているが、その心地好さから逃げ出す気はない。
「気にしない、気にしない。さあ、少し眠りなさい。」
ふたりの時間はゆっくりと流れ、まるで止まっているように静かである。
「母親は子供がいつまでも子供でいてほしいと思うのです。でも、あなたが人界に戻って、次に逢う時には、もうこんなことをさせてもらえないでしょうね。」
「お母さんが嫌がりますよ。」
「私は嫌ではありませんよ。」
「でも、私が今度お逢いすることができたら、あなたより見かけは年寄りになっているかもしれませんよ。」
「たまに逢いに来てくれればよいではありませんか。麟は薄情者ですか。」
「うーん、ここはきっと私にとっては遠い所でしょう? 簡単にひとりで来れるところではありません。」
「まあ、これからは“薄情者の麟”と呼ぶことにしましょうね。」 とりとめのない会話のうちに、麟は眠ってしまった。その昔も西王母は、かの仙人とこうやって暮らしていた。西王母の願い通り、麟より少し年上くらいの年齢で成長を止め、若い姿のまま三百年を過ごした。最後の百年は、麟のように穏やかな微笑みを浮かべることもなく、ただただ悲しそうに微笑む養い子をどんなに胸を痛めて黙って見ていたことだろう。今の麟は本当に感情豊かである。かの仙人の望みは叶ったのだ。人間としての生を全うし、笑うこともなくことも仙人と比べて短い時間の内にすべてを押し込んで生きるという望みは、麟という形で西王母の前に現れた。
「あなたは誰かの夢でしかないのに、あなたは現実の世界で生きている。不思議なものですね。麟。」
西王母は眠った息子に語りかける。
「私くしがかりそめにもあなたの母親になれたのも、きっとあの子の気持ちなのでしょうね。いつまでも側に置いておきたいけれど、おまえはすぐに人界へ帰ってしまう。でも、今度はまた逢えますもの。私くしちっともさみしくありませんよ。」
母親の膝は心地好く、深い眠りに陥った麟ではあるが、自分に語りかける言葉は脳の奥に響いていた。それは暖かく甘く麟に纏いついている。
その部屋の前に白い麒麟と黒い麒麟が、まるで門神のように座っていた。自分が内に居る時は誰も近付けないようにという西王母からの命令で番をしているのだ。さほど重要というわけでもないので、ふたりは居眠りなどしながら、のんびりと構えている。こういう時は人型より麒麟の姿のほうが寝転んでいてもだらしなく写らない。布ずれの音がしたので、麒麟たちが頭をあげると、前方から上元夫人がやって来た。
「ふたりともご苦労ですね。中へ入れてもらえないのですか。」
「はい、西王母様から麟に昼寝をさせるので誰も入れてはならぬと命じられております。」
「残念ですこと。お役目が片付いたので寄ってみたのですが、それでは仕方ありません。出直してまいりましょう。」
本当に残念といった風情で上元夫人は引き返して行った。
「結局、皆、麟に逢いたいのだな。一番冷静と思われた上元夫人様でさえもこの様子では、他の仙人が知ったら大事だ。八仙あたりは特にうるさそうだ。」
白麒麟はニヤニヤと黒麒麟のほうを向いたが、興味がないという様子で居眠りの態勢である。かの仙人が転生したという話は仙界の一部では有名なことだが、転生後どうなったかを知るものは意外に少ない。その少ないものは転生前かの仙人と親交の厚かったものばかりで誰も彼も皆、かの仙人を慈しんでいた。だから、青麒麟のように確かめに来てしまうのだ。麟が本当にそうなのかを、そして逢えば、ますます麟を大切に思ってしまうのだ。
「困ったことではあるのだろうな。角端。」
そう言いながら自称母親は薬湯の入った碗を持ち部屋に入って来た。ちょうど麟は寝台に腰掛けて左手で文字を書く練習をしていた。西王母の姿を眼中に認めて、麒麟たちは退出した。
「これが文字ですか? 麟。」
「左手で書くのは難しいですよ。お母さん。」
「どうして、こんなことを?」
「しばらく右手は使い物に成らないでしょう。だから、修行に戻った時に困らないように。」
左手に持っていた筆を置き、麟は西王母のほうを向いた。もう、戻ることを考えているのかと西王母は寂しい気持ちになったが、それをおくびにも見せずに横に座り薬湯を飲ませてやろうとした。
「いえ、自分で飲みます。」
「だめです。左手だけでは不安定でしょう。」
差し出した息子の手をどけて、母親は薬湯を飲ませた。麟が口をつけた苦そうな顔をしたが、西王母がどんどん碗を傾けるので飲まずにはおれない。前に、人狐の家で世話になった時にも苦い薬湯を飲まされたが、それといい勝負だと思いながら我慢して飲み干した。「苦いでしょう。でも、これで痛みはひくはずですからね。」
息子の歪んだ顔を見て、母親は甘い砂糖菓子をその口にほおりこんだ。
「その傷……後が残るかもしれませんね。」
「構いません。私が悪いのです。それより、お母さん。お聞きしたいことがあります。」
帰してほしいというのなら絶対受付けないと西王母は軽くあしらったが、息子の問いは別のものだった。
「いえ、それもありますが、私は傷を負ってから随分お世話になっているように思うのですが、どのくらい経っているのでしょう? 自分では皆目見当がつかないのです。」
ほら、やっぱりと言いながら、母親は麟がここへ来て六日が経過していることを教えた。
「傷はもう二三日でふさがると思いますよ。でも、右手が以前と同じ様に使えるには一月はかかるでしょうね。」
使っても痛みが残らなくなるには、さらに二か月は必要だろうと付け足した。フーッと息子は溜め息をついて、母親の肩に寄りかかった。
「ここにいると夢のようで本当に楽しいのです。でも、私には見習い道士としての修行の旅があって、そちらに戻らなければなりません。こんなふうに、お母さんといるとそれを忘れそうになります。」「よいではありませんか。修行中に休息をとっても悪いことではありませんよ。よくなったら、気分を入れ替えて修行にはげめばよいのです。」
遠からずやってくる別れを予感しながら、西王母は寄りかかった息子を愛しいと思った。けっして転生前の息子の代わりとは思っていないが、自分が手放したものの大きさを改めて思うのである。でも、無理に止めていれば、あの子は狂ってしまったかもしれない。その気持ちが息子の願いを許した理由だろうと自分でも考えている。 自称母親の肩に寄りかかった麟は自分の負った怪我の程度に今更ながら驚く。緑青のもとへ戻って、はたして自分はこの傷を緑青に隠し通せるかが疑問である。しかし、傷の原因を考えれば隠し通すしかないだろうな、とも思うのである。黙り込んだ自分を心配そうに覗き込む母親に、麟は、「そうですね。お母さんからそう言っていただけると私も安心します。」 と、笑いかけた。
「少し横になりなさい。そのままゆっくりと頭を私の膝まで下げてらっしゃい。いつも、うつぶせでは疲れるでしょう。母の膝を貸してあげますよ。」
西王母は麟の頭を膝に乗せ、肩の傷に負担がかからないようにしてやった。怪我人は実の母に膝枕してもらったのは子供の頃だけだったのに恥ずかしそうにしているが、その心地好さから逃げ出す気はない。
「気にしない、気にしない。さあ、少し眠りなさい。」
ふたりの時間はゆっくりと流れ、まるで止まっているように静かである。
「母親は子供がいつまでも子供でいてほしいと思うのです。でも、あなたが人界に戻って、次に逢う時には、もうこんなことをさせてもらえないでしょうね。」
「お母さんが嫌がりますよ。」
「私は嫌ではありませんよ。」
「でも、私が今度お逢いすることができたら、あなたより見かけは年寄りになっているかもしれませんよ。」
「たまに逢いに来てくれればよいではありませんか。麟は薄情者ですか。」
「うーん、ここはきっと私にとっては遠い所でしょう? 簡単にひとりで来れるところではありません。」
「まあ、これからは“薄情者の麟”と呼ぶことにしましょうね。」 とりとめのない会話のうちに、麟は眠ってしまった。その昔も西王母は、かの仙人とこうやって暮らしていた。西王母の願い通り、麟より少し年上くらいの年齢で成長を止め、若い姿のまま三百年を過ごした。最後の百年は、麟のように穏やかな微笑みを浮かべることもなく、ただただ悲しそうに微笑む養い子をどんなに胸を痛めて黙って見ていたことだろう。今の麟は本当に感情豊かである。かの仙人の望みは叶ったのだ。人間としての生を全うし、笑うこともなくことも仙人と比べて短い時間の内にすべてを押し込んで生きるという望みは、麟という形で西王母の前に現れた。
「あなたは誰かの夢でしかないのに、あなたは現実の世界で生きている。不思議なものですね。麟。」
西王母は眠った息子に語りかける。
「私くしがかりそめにもあなたの母親になれたのも、きっとあの子の気持ちなのでしょうね。いつまでも側に置いておきたいけれど、おまえはすぐに人界へ帰ってしまう。でも、今度はまた逢えますもの。私くしちっともさみしくありませんよ。」
母親の膝は心地好く、深い眠りに陥った麟ではあるが、自分に語りかける言葉は脳の奥に響いていた。それは暖かく甘く麟に纏いついている。
その部屋の前に白い麒麟と黒い麒麟が、まるで門神のように座っていた。自分が内に居る時は誰も近付けないようにという西王母からの命令で番をしているのだ。さほど重要というわけでもないので、ふたりは居眠りなどしながら、のんびりと構えている。こういう時は人型より麒麟の姿のほうが寝転んでいてもだらしなく写らない。布ずれの音がしたので、麒麟たちが頭をあげると、前方から上元夫人がやって来た。
「ふたりともご苦労ですね。中へ入れてもらえないのですか。」
「はい、西王母様から麟に昼寝をさせるので誰も入れてはならぬと命じられております。」
「残念ですこと。お役目が片付いたので寄ってみたのですが、それでは仕方ありません。出直してまいりましょう。」
本当に残念といった風情で上元夫人は引き返して行った。
「結局、皆、麟に逢いたいのだな。一番冷静と思われた上元夫人様でさえもこの様子では、他の仙人が知ったら大事だ。八仙あたりは特にうるさそうだ。」
白麒麟はニヤニヤと黒麒麟のほうを向いたが、興味がないという様子で居眠りの態勢である。かの仙人が転生したという話は仙界の一部では有名なことだが、転生後どうなったかを知るものは意外に少ない。その少ないものは転生前かの仙人と親交の厚かったものばかりで誰も彼も皆、かの仙人を慈しんでいた。だから、青麒麟のように確かめに来てしまうのだ。麟が本当にそうなのかを、そして逢えば、ますます麟を大切に思ってしまうのだ。
「困ったことではあるのだろうな。角端。」
作品名:茅山道士 かんざし2 作家名:篠義