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珈琲日和 その9

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待ちわびた桜が咲く華やかな季節を迎えて、日に日にのんびりとした穏やかな暖かさが増してきたある日。僕は店に早めに来て、冬の間にすっかり曇ってしまった窓ガラスを拭いていました。扉や窓を開け放しているので、気持ちの良い清々しい風が吹き抜けます。それを体中で堪能しつつ、口笛を吹きながらの作業はなんとも愉快でした。春になったのだなぁ。建物の隙間に切り取られた浅葱色の薄いガラス空が広がりクラシックの小鳥のさえずり宜しく平和な朝の音が溢れる中、店の扉が切羽詰まった感じで開けられ、絹糸のような黒髪を波打たせて一人の華やかな女性が傾れ込んできました。マリさんです。
「いらっしゃいませ」
「おはようマスター。あら。もしかしてまだ開店してなかったかしら?」
「いいえ。今開けようと思っていた所なので大丈夫ですよ」
「そう。なら良かったわ。マキアートをお願い」
「かしこまりました」
 マリさんは何処か気怠そうに方肘をついてカウンターに座りました。いつもより雑なその仕草に、酔っぱらっているのだと気付きました。
「どうぞ」
 先に水をお出ししました。マリさんは少し頰を赤らめ、それよりももっと赤い瑪瑙のような艶やかな爪先の指をグラスに絡ませました。
「・・・バレちゃった?」
「楽しい気分で飲み過ぎてしまったのならいいのですが」
「ふふ。マスターには敵わないわ」
 そう言うとマリさんは一気に水を飲み干し、眩しそうに目を細めて扇のような睫毛の下からぼんやりと窓の外を眺めていました。
 僕は芳ばしい胡桃色をした薄青磁色のカップの表面に白い蔦の葉模様を描きマキアートを仕上げました。アールヌーヴォー調な感じが我ながら上出来だ。乱さないように注意してお出しすると、ぱっとマリさんの顔色が明るくなりました。
「今日の模様は今までで一番素敵だわ」
「ありがとうございます」
「ねぇマスター、このマキアートにはさくらんぼの実る頃が似合うと思わない?」
 にっこりと笑いかけるマリさんに言われて僕は音楽がない事にやっと気付き、お詫びをして急いでご要望の曲をおかけしました。まるで丸い水の雫が転がるような優しいピアノの音が店内に溢れ、次いで力強く静かな低い女性の声が青空を映し出すかのように流れ出しました。なんとも美しい曲です。こんなしっとりとした夕暮れ時のみならず、こんな平和な朝にもとても似合うのです。
「パリ市民の秘めた切ない思いを感じさせる曲です」
 聞き惚れているうちにふとピアノの音と一緒に思わず溢れてしまった僕の言葉に、マリさんがマキアートを口元に運ぶ手を止めて聞きました。
「あら。物知りなのね」
「ええ。この曲には色々と・・・」
 そう言って言葉を濁した僕をマリさんは何故か眩しそうに目を細め、再びマキアートに口をつけると微笑みながら優しく言いました。
「お互いにもう随分歳だものね。色々と思い出のある曲の30や40は当たり前よ」
 その言葉に僕も思わず笑ってしまいました。
「おっしゃる通りです」
「さくらんぼの実る頃は短い。人生も又然り。そして苦しんでも生きている分だけ心に溜っていくものが思い出なのよね」
 マリさんはその長くしっかりした睫毛を伏せ両手を組みその上に顎を乗せて物思いに耽っているように言葉を区切りました。視界の端で小太郎が早くも舞い始めた小蠅を素早く跳躍し捕えましたが、その到底お腹を満たしそうもないあまりの獲物の小ささに着地した窓枠で不服そうに一時静止していました。または麗らかな春の日差しにうっとりと浸っていたのかもしれません。これからの季節は小太郎の腕の見せ所です。
「なにが正しいかはわからないものよ」
 ぽつりと呟いたマリさんの投げやりさを感じる温度の言葉に、僕は視線を戻しました。
「正しいと思われる事はそれぞれの生き方や培ってきた思想や考えによって違いや差が生じると思います。特に対人関係は」
 遠慮しながらも紡いだ僕の言葉に、マリさんはふと薄く笑いました。
「正義だのが持ち出される場合って対人関係が多いんじゃないかしら?」
「そう言えばそうですね」
「相手に自分の正しいと思う主張を認めてもらう為に鷹揚にして人は常識や正義と言う手段を持ち出すわ。相手を服従させたり勝敗を決めたり。だけど、大体は相手に受け入れて欲しいっていう願望でもある。平たく言うと喧嘩の手法ね」
「喧嘩・・・ですか」
「そうよ。大体は大きくなって頭でっかちになった子どもが綺麗に喧嘩出来ると思っている手法よ。実際は綺麗どころか泥沼になる確立の方が高いけど。だから絶対的な正義の法を定めて裁判だとかで無関係な第三者を間に挟んでもらう。でも、それだって感情のある人間相手なんだから何処まで当てになるかなんてわかったもんじゃないわ」
「子どもの頃のようにお互いにただ猛烈に喧嘩した方がまだマシだと?」
「一概には言えないわ。だってあれはお互いを貶めてやろうなんて事を微塵も考えていないって言う事と、自分が何が何でも絶対的に正しいんだと言う確信を持ってない事が前提だから。頭の柔らかい子どもだからこそ相互理解を出来る余裕がまだ残されているのよ」
「大人になってしまうと難しいですね」
「自分達で難しくしているのよ。自分で壁を作って、自分でわからないと言い聞かせて、自分で受け入れを拒否して、自分の損得ばかり考えるから。模範的に子ども達に言い聞かせている事を、果たして大人達はちゃんと出来ているのかしら?」
 何処かしら苛立を覚えるようにマリさんの表情は少し強張って言葉を綴っています。
「・・・僕もあまり言えません。子ども達に言う事は大人の描く理想でしょうね」
「誰でも元々子どもだったのに、いつのまに人生で培ってきた経験や知識を自分の為に周りに色々な物を張り巡らす事にだけ使うようになってしまったのかしらね・・・」
「張り巡らされた中には入っていけないのを感じているんですか?」
「案外臆病なのよ」
 マリさんは今までとは打って変わり寂し気な眼差しをカップに落としたのです。
「傷つくのが怖いと?」
 いくら親しいからと言ってもうっかりと口にしてしまった自分の言葉に僕は後悔しましたが、それには構わずマリさんはふっと微笑みました。それはもしかしたら仕事用の笑顔だったのかもしれません。
「或いはそうかもしれないわ。でも、生憎わからない事だらけよ」
「同感です」
 店内にはまだピアノの雫が空気中を心地良く弾んでいました。けれど、それとは裏腹に人の気持ちのなんと複雑で重たい事でしょう。窓の外を白いモンシロチョウが頼りな気に横切っていくのが見えました。こんな薄暗い路地裏になにを思って迷い込んでしまったのでしょうか。まだ窓際にいた小太郎がモンシロチョウをじっと見ています。
 マリさんは残りのマキアートをゆっくりと飲み、今夜も仕事だから少し寝ないとと言って帰っていきました。心なしか別れ際の顔色が僅かに沈んで見えたように感じたのは僕の気のせいだったのでしょうか?
 入れ違いに渡部さんが入ってきました。時計を見ると、丁度お昼休みの時間でした。
「この店は美人がよく通うな。所謂穴場だな」
 カフェモカとカレーの辛口を注文して、文庫本を取り出しながら渡部さんはにやっとして言ってきました。
作品名:珈琲日和 その9 作家名:ぬゑ