うそつきピエロ
「ばっかじゃねえの、おまえ。本気にすんなよ」
固まった仁を目にして、俺はそう言って笑った。そうするしかなかった。
投げやりに低く笑って、冗談だよ冗談、と仁の肩を平手でぽんとたたく。
「おまえがあんまり深刻な顔するから」
腰を落として散らばった台本を拾い集める。綴じとくんだったな、と仁に背を向けてぼやく。
「…冗談…?」
背中を仁の声がつついた。これは彼の中でどの感情を表した声なのだろう。長く隣に居続けてきた自信はあったけれど、声色から思考を見抜く術までは身につかなかったようだ。いや、身についてはいる。「今この時の」彼の思考がわからないだけだ。
手が震えているのが自分でもわかる。
散乱した紙切れがうまく拾えない。
仁に悟られないように、一度大きく息をついた。静かに。
半分くらいまで集めた台本を手に、立ち上がって仁に向き直った。
「まあ、冗談にしてはちょっと悪ノリしすぎたかもな。謝るよ。悪かった」
一息に言った。
仁はまだよくわからない顔をしている。
今までさんざんシミュレーションしてきたのに、そのどれにも仁の反応は当てはまらなかった。
こうやっていつも俺の期待を裏切ってくれる男だ。良くも悪くも。
だから俺はこの男に、片桐仁という人間に、惹かれたのだけど。
ステージを創るパートナーとして。
そして、一人の人間としても。
************
大学で出会った彼は、すでに俺の羨む領域にいる男だった。
今でこそその奇人ぶりを主張する頭だが、当時は見事な坊主頭で、ごつい黒縁眼鏡が一癖ありそうな印象を除けば、それほど目立つ外見というわけではなかった。
それでも、彼は強烈だった。
『片桐?今日まだ見てないけど、どっかにはいるんじゃね』
『また中庭のうさぎ小屋かもな』
『小学生かよっての』
『だって片桐だもん』
大学内をひとりで勝手に歩かせているのを構内の窓から見物しているだけでも、充分見応えがあったくらいに。
自分の中にあるものをただまっすぐに外に出しているだけなのに、それに周囲は惹きつけられる。
彼の魅力、というより、彼自身が「魅力」そのものだった。
『小林のってさ、あーこいつ頭いいんだろうなっての、わかるよな』
『そうそう、凝ってて』
『片桐とかにはまず無理だよな』
そう言って仲間は笑っていた。
『片桐には無理』。
片桐にはできない。
でも、それでも彼はおもしろい。
俺は彼に対してどうにもならない感情を持て余していた。
自分と正反対の人間を嫌う心理には、自分にないものを持つ人間に嫉妬や羨望を感じるからだという話はよく耳にするが、俺の場合は嫌悪の感情すらなかったように思う。
ただひたすらに彼が羨ましくて、妬ましかった。
自分が100の努力で積み上げたものを、彼は1の天性で表現する。
とても自然に。とてもきれいに。
俺が積み上げた土台を見られないよう必死に取り繕っている間も、彼は自然に笑っているのだ。
まさに「天性」だった。
どうあっても彼にはかなわない。
彼と組めば、俺は絶対にくわれて終わる。
そう思った。
だけど、彼以上に魅力を感じる人間はいなかった。
個性の強いやつならいくらでもいる。
俺と同じように、頭で考えて創ったものを表現するやつだって大勢いる。
舞台を見て大笑いしてしまうものもたくさんあった。
でも、彼のように存在そのものに惹きつけられる人間はいない。
彼以外には。
それくらい、俺は「片桐仁」という男に魅入られてしまっていたのだ。
部室とは離れた校舎の屋上に呼び出して、俺は一世一代の告白でもするかのような面持ちで、彼に相方になってほしいと頼んだ。
すると、いつもはおちゃらけて騒がしい彼もまた、照れながら「うん」と言った。
それを見て、俺もなんだか照れてしまったのを覚えている。
―――でもさ、俺でいいの?
―――え?
帰り道、彼は不安そうな、怪訝な表情で俺に訊いてきた。
―――賢太郎とは仲良しだと思ってたけど、その、こういうの、俺でいいのかなって…
言葉はつたないが、彼の言いたいことはなんとなくわかった。
俺が最初に感じていたことと、似たようなことを彼も思っているのだろう。
―――大丈夫だよ。
俺はその時、自分と一緒に舞台に立つ彼を、初めて想像した。
このとき、俺はまだ彼に対する自分の感情の正体を知らなかった。
嫉妬と羨望を抱き続けた男を、自分の手でプロデュースする。
そう思った瞬間の何にも勝る激しい感情は、興奮か、優越感か、とにかく俺のこの先の原動力となりうる力だった。
それはつまり作品を創る原動力で、必要な感情だった。
このおもしろい男を、自分が創る。デザインする。
寝不足が続いても、稽古がうまくいかずに苛立っても、自分の創った彼が舞台の上で輝くのを見ると、俺は楽しくてしかたなかった。
俺が台本を創る間、彼は役者としてひとりで仕事をすることもあった。
もちろん観に行った。
でも、やっぱり彼の取扱説明書を持っているのは俺しかいないと思うことばかりで、それがいっそう優越感を高めていく。
そして台本ができあがれば、彼は必ず俺のところへ帰って来た。
―――賢太郎の台本、やっぱり落ち着く。
俺の隣に戻ってきた彼は、無邪気に破顔して、そんなことを言う。
やっぱり、強烈な彼を完全体で輝かせられるのは、俺だけなのだと、自惚れた。
そして、事件が起こる。
忘れもしない、2003年の暮れ。
都内のスタジオを借りて公演の反省をしているのに、彼はなんだか落ち着かなかった。
クリスマスも近いのに雪が降らないと、女みたいなことを呟く。
彼が集中力散漫になるのは珍しいことではなかった。
特に心配事があったわけではないが、何かあったのかと、形だけ尋ねた。
すると、意外にも彼は落ち着いた表情で俺を見つめてきた。
―――結婚、する。
はっきりと、その口はそう言った。
―――…え?
彼は黒縁の眼鏡の奥で、へへっと笑った。
彼が何を言っているのか、一瞬わからなかった。
こんなに身近な男の口から出た言葉なのに、「結婚」の二文字がひどくよそよそしく感じられた。
まず頭に浮かんだのは、「どうして」というわかりやすい形の疑問だった。
―――そんなにびっくりしなくても。
彼はいつもの調子で笑いながら俺のまわりを、文字通りうろうろした。
―――賢太郎だって、結婚してもう3年経つじゃん。
確かにそうだけれど。
でも、違う。それとは違う。
―――でも、こういうときに言う話じゃないよね。ごめん。
こういうとき、というのは、公演の中日という意味か、稽古中という意味か。
人間は動揺すると、そんなどうでもいいことに気を回すのかもしれない。
―――俺さ。
仁がわからない。
聞きたくない。
―――7月に、パパになるんだ―――
聞きたくない―――
一番聞きたくない、それは――――
その後のことは、よく覚えていない。
入籍も挙式も、公演がすべて終わってからだから、とか、こんなときにごめん、とか、仁はいろいろ言っていたけど。
どうやってそのときの動揺を取り繕ったのか、思い出せない。
仁もきっと、はしゃいで俺の状態なんて気づいてなかったと思う。
固まった仁を目にして、俺はそう言って笑った。そうするしかなかった。
投げやりに低く笑って、冗談だよ冗談、と仁の肩を平手でぽんとたたく。
「おまえがあんまり深刻な顔するから」
腰を落として散らばった台本を拾い集める。綴じとくんだったな、と仁に背を向けてぼやく。
「…冗談…?」
背中を仁の声がつついた。これは彼の中でどの感情を表した声なのだろう。長く隣に居続けてきた自信はあったけれど、声色から思考を見抜く術までは身につかなかったようだ。いや、身についてはいる。「今この時の」彼の思考がわからないだけだ。
手が震えているのが自分でもわかる。
散乱した紙切れがうまく拾えない。
仁に悟られないように、一度大きく息をついた。静かに。
半分くらいまで集めた台本を手に、立ち上がって仁に向き直った。
「まあ、冗談にしてはちょっと悪ノリしすぎたかもな。謝るよ。悪かった」
一息に言った。
仁はまだよくわからない顔をしている。
今までさんざんシミュレーションしてきたのに、そのどれにも仁の反応は当てはまらなかった。
こうやっていつも俺の期待を裏切ってくれる男だ。良くも悪くも。
だから俺はこの男に、片桐仁という人間に、惹かれたのだけど。
ステージを創るパートナーとして。
そして、一人の人間としても。
************
大学で出会った彼は、すでに俺の羨む領域にいる男だった。
今でこそその奇人ぶりを主張する頭だが、当時は見事な坊主頭で、ごつい黒縁眼鏡が一癖ありそうな印象を除けば、それほど目立つ外見というわけではなかった。
それでも、彼は強烈だった。
『片桐?今日まだ見てないけど、どっかにはいるんじゃね』
『また中庭のうさぎ小屋かもな』
『小学生かよっての』
『だって片桐だもん』
大学内をひとりで勝手に歩かせているのを構内の窓から見物しているだけでも、充分見応えがあったくらいに。
自分の中にあるものをただまっすぐに外に出しているだけなのに、それに周囲は惹きつけられる。
彼の魅力、というより、彼自身が「魅力」そのものだった。
『小林のってさ、あーこいつ頭いいんだろうなっての、わかるよな』
『そうそう、凝ってて』
『片桐とかにはまず無理だよな』
そう言って仲間は笑っていた。
『片桐には無理』。
片桐にはできない。
でも、それでも彼はおもしろい。
俺は彼に対してどうにもならない感情を持て余していた。
自分と正反対の人間を嫌う心理には、自分にないものを持つ人間に嫉妬や羨望を感じるからだという話はよく耳にするが、俺の場合は嫌悪の感情すらなかったように思う。
ただひたすらに彼が羨ましくて、妬ましかった。
自分が100の努力で積み上げたものを、彼は1の天性で表現する。
とても自然に。とてもきれいに。
俺が積み上げた土台を見られないよう必死に取り繕っている間も、彼は自然に笑っているのだ。
まさに「天性」だった。
どうあっても彼にはかなわない。
彼と組めば、俺は絶対にくわれて終わる。
そう思った。
だけど、彼以上に魅力を感じる人間はいなかった。
個性の強いやつならいくらでもいる。
俺と同じように、頭で考えて創ったものを表現するやつだって大勢いる。
舞台を見て大笑いしてしまうものもたくさんあった。
でも、彼のように存在そのものに惹きつけられる人間はいない。
彼以外には。
それくらい、俺は「片桐仁」という男に魅入られてしまっていたのだ。
部室とは離れた校舎の屋上に呼び出して、俺は一世一代の告白でもするかのような面持ちで、彼に相方になってほしいと頼んだ。
すると、いつもはおちゃらけて騒がしい彼もまた、照れながら「うん」と言った。
それを見て、俺もなんだか照れてしまったのを覚えている。
―――でもさ、俺でいいの?
―――え?
帰り道、彼は不安そうな、怪訝な表情で俺に訊いてきた。
―――賢太郎とは仲良しだと思ってたけど、その、こういうの、俺でいいのかなって…
言葉はつたないが、彼の言いたいことはなんとなくわかった。
俺が最初に感じていたことと、似たようなことを彼も思っているのだろう。
―――大丈夫だよ。
俺はその時、自分と一緒に舞台に立つ彼を、初めて想像した。
このとき、俺はまだ彼に対する自分の感情の正体を知らなかった。
嫉妬と羨望を抱き続けた男を、自分の手でプロデュースする。
そう思った瞬間の何にも勝る激しい感情は、興奮か、優越感か、とにかく俺のこの先の原動力となりうる力だった。
それはつまり作品を創る原動力で、必要な感情だった。
このおもしろい男を、自分が創る。デザインする。
寝不足が続いても、稽古がうまくいかずに苛立っても、自分の創った彼が舞台の上で輝くのを見ると、俺は楽しくてしかたなかった。
俺が台本を創る間、彼は役者としてひとりで仕事をすることもあった。
もちろん観に行った。
でも、やっぱり彼の取扱説明書を持っているのは俺しかいないと思うことばかりで、それがいっそう優越感を高めていく。
そして台本ができあがれば、彼は必ず俺のところへ帰って来た。
―――賢太郎の台本、やっぱり落ち着く。
俺の隣に戻ってきた彼は、無邪気に破顔して、そんなことを言う。
やっぱり、強烈な彼を完全体で輝かせられるのは、俺だけなのだと、自惚れた。
そして、事件が起こる。
忘れもしない、2003年の暮れ。
都内のスタジオを借りて公演の反省をしているのに、彼はなんだか落ち着かなかった。
クリスマスも近いのに雪が降らないと、女みたいなことを呟く。
彼が集中力散漫になるのは珍しいことではなかった。
特に心配事があったわけではないが、何かあったのかと、形だけ尋ねた。
すると、意外にも彼は落ち着いた表情で俺を見つめてきた。
―――結婚、する。
はっきりと、その口はそう言った。
―――…え?
彼は黒縁の眼鏡の奥で、へへっと笑った。
彼が何を言っているのか、一瞬わからなかった。
こんなに身近な男の口から出た言葉なのに、「結婚」の二文字がひどくよそよそしく感じられた。
まず頭に浮かんだのは、「どうして」というわかりやすい形の疑問だった。
―――そんなにびっくりしなくても。
彼はいつもの調子で笑いながら俺のまわりを、文字通りうろうろした。
―――賢太郎だって、結婚してもう3年経つじゃん。
確かにそうだけれど。
でも、違う。それとは違う。
―――でも、こういうときに言う話じゃないよね。ごめん。
こういうとき、というのは、公演の中日という意味か、稽古中という意味か。
人間は動揺すると、そんなどうでもいいことに気を回すのかもしれない。
―――俺さ。
仁がわからない。
聞きたくない。
―――7月に、パパになるんだ―――
聞きたくない―――
一番聞きたくない、それは――――
その後のことは、よく覚えていない。
入籍も挙式も、公演がすべて終わってからだから、とか、こんなときにごめん、とか、仁はいろいろ言っていたけど。
どうやってそのときの動揺を取り繕ったのか、思い出せない。
仁もきっと、はしゃいで俺の状態なんて気づいてなかったと思う。