大好きな祖母の死を乗り越えて
『大好きな祖母の死を乗り越えて』
杏子が着物教室を開いたのは二十九歳のときである。一人で何とか生活できることを考えた末、開いたのである。教室を開いて三年目に、経営がようやく軌道に乗った。
その年の九月、半ば過ぎのこと。その日は朝から曇り空だった。午後から始まる教室に一番乗りしたのは美智子だった。教室に花を飾っている杏子を見つけると、「先生はいつも着物が似合いますね」
杏子は髪を後ろに束ね、水色の和服を着ている。品と色気が実に見事に調和している。
「あら、あなただって似合うわよ」
「そうですか」と美智子は嬉しそうに言う。おだてれば、美智子はすぐに木に登る。もっとも、おだてに弱いのは杏子も一緒である。
「女には崇拝者が必要だ。崇拝されることによって、女神が生まれ育つ。杏子、君は僕の女神だ。僕が崇拝する」と言った美術の教師であった諸橋の言葉を今も杏子は覚えている。
諸橋は教師である立場を忘れ、教え子の杏子と恋に落ちた。どちらかが強引に誘ったわけではない。自然に、あたかも互いに惹かれあうように恋に落ちた。いろんな愛しの形を杏子に教えた。ヒンズー寺院の彫像のような愛の形も。二人の恋は誰にも知られなかった。少なくとも人目についたりするところで愛しているそぶりは見せなかったから。しかし、二人の関係を杏子の母親に知られてしまった。杏子の日記を盗み見したからのである。そこには禁断の恋が事細かに書かれていた。杏子が十八のときだ。
杏子の母親は「あなたは教師を続けるつもり。それとも杏子との関係を続けるの。でも杏子との関係を続けようと思っても。母親である私が許さない。教え子に手を出す最低の男に娘をやるつもりは毛頭ない。娘はこの呉服店の跡取りですから。さあ、約束して頂戴、二度と会わないと」と迫る母親の前に、諸橋は黙って身を引いた。
それから十年の歳月が過ぎた。まるで忽然と消えた。なぜ消えたか分からず、そのときはどれほど諸橋を恨んだものか。だが、後で母親から真相を聞かされて、何もかもを納得した。そして愛おしさだけが残った。杏子が三十二になっても、結婚しなかったのは、諸橋への思いがいまだに消えていないからである。
「美智子さんは来月、結婚だったわね」
美智子は嬉しそうにうなずいた。
「先生は結婚しないの?」
「良い人がいないから」と杏子は微笑んだ。
杏子の前にいろんな男が現れた。優しい男。格好いい男。背の高い男。賢い男。いろんな男が次々と前を現れて、愛を囁いては消えた。杏子には、みな薄っぺらな男のように見えた。戯れに抱かれたこともあった。けれど、燃えなかった。まるで自分の性欲を吐き出すためのように扱ったから。
「いないのよ。いたら紹介してよ」と杏子は微笑んだ。
もう諸橋のような男にめぐり合えないような気がした。何か美しい美術品を扱うような指使い。諸橋は愛するときは薄明かりを好んだ。
「人は動物じゃないんだ。暗闇の中で愛するのは間違っている」と抱きながらよく言った。
諸橋が愛してくれたときのことを思い出し、つい我を忘れてしまっていた。
そのとき、電話が鳴った。
杏子は気づかなかった。
「先生、電話よ」という美智子の声で我に返った。
杏子は何か恥ずかしいものでも見られたように顔を少し赤らめ、慌てて電話に出た。しばらくすると、杏子は電話を落とした。そして放心したようにしゃがみこんでしまった。
ただならぬ光景に、美智子は駆け寄り、今にも倒れそうな杏子を支えた。
「おばあちゃんが、おばあちゃんが」と泣き出した。
電話は母親からだった。祖母が危篤状態だということを電話で伝えたのだ。
杏子はすぐに祖母がいる長野に向かった。九十歳になる祖母は昨年から病気を繰り返していた。
今年の春も倒れ、病院に運ばれた。そのとき、病態が落ち着いたとき、祖母は杏子を枕元に呼んだ。
「杏子は幾つになった?」と聞いた。
「三十二よ」
祖母が布団の手を出した。皺だらけの手である。まるで古木のようにでこぼこしていた。その手を杏子は握り締めた。温もりが伝わってきた。小さい頃を思い出し、杏子は涙がこぼれた。
「もう三十二かい、ずいぶん年をとったね。小さくてかわいい手をしたのはついこの間のような気がするのに。まだ一人なの?」
「なかなか良い人に巡り合えないの」
「そうかい。えり好みばかりしたら、良い人なんかいなくなるよ」
「えり好みはしていないけど」
「元気なうちに杏子の花嫁姿を見られると思っていたのに。それだけが心残りだね」
「何を言っているの、おばあちゃん、弱気なことは言わないで、杏子の花嫁姿を見るまで生きていて、おばあちゃん、約束よ」
祖母は微笑んだ。
「そうしたいけど、こればっかりは神様の決めることだから」
祖母は恋多き女だった。そんな祖母を杏子の父親である竜彦はひそかに軽蔑していた。堅物で、同じように身持ちの堅い女を妻にした。杏子の母である。そんな二人から生まれた杏子は父親にも母親にも似ず、祖母に似た。顔立ちも、恋にかける情熱も。だから杏子は諸橋と恋に落ちたとき、親には言わなかったが、祖母には打ち明けた。
「学校の先生かい?」
「いけないね」と祖母は笑った。
「でも、好きになったものは仕方がないね」と言った。
「良く考えることだよ。そして自分の気持ちに素直に生きることだね。何よりも自分の気持ちに素直じゃないといけない。後悔しないためにね」
春に見舞ったばかりなに、九月に再び倒れた。杏子は事の重大さをすぐに悟り、家に戻らず、そのまま東京駅に行き、新幹線に飛び乗った。
列車の中で車窓の外ばかりを見ていた。見えるはずもない外を。その方が都合よかった。自分の気持ちを整理するには――。祖母との思い出が頭の中を次々とよぎってきた。
大きな手をしていると思った幼い頃。泣き虫だった小さい頃、よく手で涙を拭いてくれた。そんな祖母が危篤状態になったのだ。悲しくて、泣きたくて、切ない気持ちがこみ上げてきて止まらなかった。
傍らに諸橋がいたなら――どうして、あのとき、母親の言いなりになって、消えた諸橋を探さなかったのか。どこまでも彼と一緒にいれば、今のように寂しい思いをせずにいたのに。何よりも今の悲しみを支えてくれるような気がした。寄り添う相手が本当に必要とするのは、喜びを分かち合うためではない。悲しみを支えあうためなのだと気づいた。
春、見舞ったとき、祖母とこんな会話をしたことを思い出した。
「この頃、死ぬ夢をよく見る」と祖母が言った。
「変なことを言わないでよ」
「ちっとも変じゃないよ、生きるものはみな死ぬんだよ。おじいちゃんが死んで、もう十年経つのよ。ときどき夢の中で、おじいちゃんがいつまでぐずぐずしているんだと叱るんだよ」
「そんな夢は嘘よ。天国にいるおじいちゃんだって、長生きしてほしいと、願っているはずよ」
祖母は首を振った。
「おじいちゃんは寂しがり屋だから、そんなことはないよ」
「おじいちゃんが死んだとき、おじいちゃんがかわいがっていた、ポチがよく夜空に向かって吼えていた。そのポチも去年死んでいった。みんな天国に行ってしまった。もうそろそろ自分も行く番なんだよ」
杏子が着物教室を開いたのは二十九歳のときである。一人で何とか生活できることを考えた末、開いたのである。教室を開いて三年目に、経営がようやく軌道に乗った。
その年の九月、半ば過ぎのこと。その日は朝から曇り空だった。午後から始まる教室に一番乗りしたのは美智子だった。教室に花を飾っている杏子を見つけると、「先生はいつも着物が似合いますね」
杏子は髪を後ろに束ね、水色の和服を着ている。品と色気が実に見事に調和している。
「あら、あなただって似合うわよ」
「そうですか」と美智子は嬉しそうに言う。おだてれば、美智子はすぐに木に登る。もっとも、おだてに弱いのは杏子も一緒である。
「女には崇拝者が必要だ。崇拝されることによって、女神が生まれ育つ。杏子、君は僕の女神だ。僕が崇拝する」と言った美術の教師であった諸橋の言葉を今も杏子は覚えている。
諸橋は教師である立場を忘れ、教え子の杏子と恋に落ちた。どちらかが強引に誘ったわけではない。自然に、あたかも互いに惹かれあうように恋に落ちた。いろんな愛しの形を杏子に教えた。ヒンズー寺院の彫像のような愛の形も。二人の恋は誰にも知られなかった。少なくとも人目についたりするところで愛しているそぶりは見せなかったから。しかし、二人の関係を杏子の母親に知られてしまった。杏子の日記を盗み見したからのである。そこには禁断の恋が事細かに書かれていた。杏子が十八のときだ。
杏子の母親は「あなたは教師を続けるつもり。それとも杏子との関係を続けるの。でも杏子との関係を続けようと思っても。母親である私が許さない。教え子に手を出す最低の男に娘をやるつもりは毛頭ない。娘はこの呉服店の跡取りですから。さあ、約束して頂戴、二度と会わないと」と迫る母親の前に、諸橋は黙って身を引いた。
それから十年の歳月が過ぎた。まるで忽然と消えた。なぜ消えたか分からず、そのときはどれほど諸橋を恨んだものか。だが、後で母親から真相を聞かされて、何もかもを納得した。そして愛おしさだけが残った。杏子が三十二になっても、結婚しなかったのは、諸橋への思いがいまだに消えていないからである。
「美智子さんは来月、結婚だったわね」
美智子は嬉しそうにうなずいた。
「先生は結婚しないの?」
「良い人がいないから」と杏子は微笑んだ。
杏子の前にいろんな男が現れた。優しい男。格好いい男。背の高い男。賢い男。いろんな男が次々と前を現れて、愛を囁いては消えた。杏子には、みな薄っぺらな男のように見えた。戯れに抱かれたこともあった。けれど、燃えなかった。まるで自分の性欲を吐き出すためのように扱ったから。
「いないのよ。いたら紹介してよ」と杏子は微笑んだ。
もう諸橋のような男にめぐり合えないような気がした。何か美しい美術品を扱うような指使い。諸橋は愛するときは薄明かりを好んだ。
「人は動物じゃないんだ。暗闇の中で愛するのは間違っている」と抱きながらよく言った。
諸橋が愛してくれたときのことを思い出し、つい我を忘れてしまっていた。
そのとき、電話が鳴った。
杏子は気づかなかった。
「先生、電話よ」という美智子の声で我に返った。
杏子は何か恥ずかしいものでも見られたように顔を少し赤らめ、慌てて電話に出た。しばらくすると、杏子は電話を落とした。そして放心したようにしゃがみこんでしまった。
ただならぬ光景に、美智子は駆け寄り、今にも倒れそうな杏子を支えた。
「おばあちゃんが、おばあちゃんが」と泣き出した。
電話は母親からだった。祖母が危篤状態だということを電話で伝えたのだ。
杏子はすぐに祖母がいる長野に向かった。九十歳になる祖母は昨年から病気を繰り返していた。
今年の春も倒れ、病院に運ばれた。そのとき、病態が落ち着いたとき、祖母は杏子を枕元に呼んだ。
「杏子は幾つになった?」と聞いた。
「三十二よ」
祖母が布団の手を出した。皺だらけの手である。まるで古木のようにでこぼこしていた。その手を杏子は握り締めた。温もりが伝わってきた。小さい頃を思い出し、杏子は涙がこぼれた。
「もう三十二かい、ずいぶん年をとったね。小さくてかわいい手をしたのはついこの間のような気がするのに。まだ一人なの?」
「なかなか良い人に巡り合えないの」
「そうかい。えり好みばかりしたら、良い人なんかいなくなるよ」
「えり好みはしていないけど」
「元気なうちに杏子の花嫁姿を見られると思っていたのに。それだけが心残りだね」
「何を言っているの、おばあちゃん、弱気なことは言わないで、杏子の花嫁姿を見るまで生きていて、おばあちゃん、約束よ」
祖母は微笑んだ。
「そうしたいけど、こればっかりは神様の決めることだから」
祖母は恋多き女だった。そんな祖母を杏子の父親である竜彦はひそかに軽蔑していた。堅物で、同じように身持ちの堅い女を妻にした。杏子の母である。そんな二人から生まれた杏子は父親にも母親にも似ず、祖母に似た。顔立ちも、恋にかける情熱も。だから杏子は諸橋と恋に落ちたとき、親には言わなかったが、祖母には打ち明けた。
「学校の先生かい?」
「いけないね」と祖母は笑った。
「でも、好きになったものは仕方がないね」と言った。
「良く考えることだよ。そして自分の気持ちに素直に生きることだね。何よりも自分の気持ちに素直じゃないといけない。後悔しないためにね」
春に見舞ったばかりなに、九月に再び倒れた。杏子は事の重大さをすぐに悟り、家に戻らず、そのまま東京駅に行き、新幹線に飛び乗った。
列車の中で車窓の外ばかりを見ていた。見えるはずもない外を。その方が都合よかった。自分の気持ちを整理するには――。祖母との思い出が頭の中を次々とよぎってきた。
大きな手をしていると思った幼い頃。泣き虫だった小さい頃、よく手で涙を拭いてくれた。そんな祖母が危篤状態になったのだ。悲しくて、泣きたくて、切ない気持ちがこみ上げてきて止まらなかった。
傍らに諸橋がいたなら――どうして、あのとき、母親の言いなりになって、消えた諸橋を探さなかったのか。どこまでも彼と一緒にいれば、今のように寂しい思いをせずにいたのに。何よりも今の悲しみを支えてくれるような気がした。寄り添う相手が本当に必要とするのは、喜びを分かち合うためではない。悲しみを支えあうためなのだと気づいた。
春、見舞ったとき、祖母とこんな会話をしたことを思い出した。
「この頃、死ぬ夢をよく見る」と祖母が言った。
「変なことを言わないでよ」
「ちっとも変じゃないよ、生きるものはみな死ぬんだよ。おじいちゃんが死んで、もう十年経つのよ。ときどき夢の中で、おじいちゃんがいつまでぐずぐずしているんだと叱るんだよ」
「そんな夢は嘘よ。天国にいるおじいちゃんだって、長生きしてほしいと、願っているはずよ」
祖母は首を振った。
「おじいちゃんは寂しがり屋だから、そんなことはないよ」
「おじいちゃんが死んだとき、おじいちゃんがかわいがっていた、ポチがよく夜空に向かって吼えていた。そのポチも去年死んでいった。みんな天国に行ってしまった。もうそろそろ自分も行く番なんだよ」
作品名:大好きな祖母の死を乗り越えて 作家名:楡井英夫