クロスロード
自分は世間から浮いている。いつ頃からそんな認識が生まれたのかはわからないが、常にそう感じていた。狭い四畳半のアパートの部屋で、『浦澤馨』と自分の名前が記されたスケッチブックに手を伸ばす。風景画が何枚も続いている。すべて、自分が描いてきたものだ。一ヵ月前から始めたこの習慣、ついに最後のページに到達した。明日からのために行きがけに新しくスケッチブックを買わなければ。いつもより少しだけ余分に小銭を持って家を出た。
自分は世間から浮いている。いつ頃からそんな認識が生まれたのかはわからないが、常にそう感じていた。シューズボックスから、学生時代より使っているランニングシューズを取り出す。消えかかってはいるが靴の底に『小野康次』と自分の名前が記されている。消えかかってしまっているところは帰ったら書き直そう。仕事はおろかバイトですら長続きしなかったが、この習慣だけは学生時代から続いている。これだけは続けることができて良かった。玄関扉を勢いよく開いた。
年が変わって十日ほどになる。が、早くも世間はピンク色に染まりつつある。つい二、三日前までは新年一色だったのに。一ヵ月も先のイベントを先取りして何になるというのだろう。世間と思考がかみ合わない自分が悲しい。スケッチブックを無事購入し、駅前の人通りの多い通りを抜け、寂れた路地に入る。そこはプレハブの家が立ち並び、錆付いた看板といつも人がいない商店が点在している。毎日、ここの風景ばかりを描いていた。建物は同じなのに、毎日違う景色を見せてくれる。ハイスピードに暮れていく陽。だが、ここではゆったりと時間が流れていく。その空気感がひどく心地よかった。
自宅を出発し、駅前の大通りを避け、横に続く小さな路地に入る。普段は通らないコースだが、今日はなんとなくそんな気分だった。ランニングシューズに記された自分の名前をまじまじと見つめたせいか、なんともいえずノスタルジックな気分だったのだ。寂れた看板と、寂れた店。住宅街風ではあるが、どの家も屋根は低くプレハブ風。駅前とのギャップを感じ、本当にここはあの駅から歩いて数分というところに位置しているのだろうかと思わされる。しかし、雰囲気は決して悪くない。ここもコースの一つにしよう。そう思った。
道端で、ダンボールに包まれた老人が死んだように眠っている。初めてみる顔だった。こういうふうに、毎日違う顔を見せてくれるこの路地が、やはり好きだった。鉛筆を握る右手は、今日も快調に滑る。
初めて見る町並み。家の中から聞こえる赤ん坊の泣き声。それをあやしているのか叱りつけているのかもはや判別のつかない母親のヒステリックな怒声。始めて聞く音に一瞬驚くが、走るリズムは崩さない。たまにはこういうのも悪くない。心なしか、いつもより走るのが楽しい。
一心に鉛筆を動かしているうちに、完全に日がくれてしまった。だが、慌てず携帯電話のライトを頼りに絵を描き続ける。スケッチブックを買いに行った時間の分、日暮れまでの計算がずれてしまったのだ。仕方がない。自分の失敗だ。とにかく、絵を完成させなければ。目の前を、男性が走って通り過ぎた。同じリズムで、テンポを崩さず、視界から消えていく。心地よい風を残して。あの人、とても楽しそうだ。ああ、彼の姿も絵に収めたい。今日はなかなかこの場を離れることができないようだ。
路地を走り回っているうちにいよいよ楽しくなってきてしまい、気がついてみればもうこの付近を一周していた。顔が緩んでいるのがわかった。こんなに楽しいランニングは久し振りだ。角を曲がると、不思議な少女を見つけた。携帯電話のライトでスケッチブックを照らしながら懸命に絵を描いている。そばには、ダンボールにくるまれた老人が眠っている。死んでしまっているのではないか、と不安に思ったが、立ち止まるわけにもいかず、少女に声をかけるわけにもいかず、その場を通り過ぎた。もう一周したときにまだ彼女が居たら、声をかけてみようと思った。
走り去っていった男性も描き入れ、一息ついてから立ち上がる。ようやく絵が完成したのだ。今回のこの絵はこの一ヵ月の中で一番上手く描けたと思う。眠っている老人が風邪を引かないか、死んでしまわないか心配だったが、むやみに手を出してはいけない。この姿は神聖なものだから。身体に気をつけて。心の中でつぶやき、路地を離れた。
再び戻ってきたとき、もう少女はそこにいなかった。帰ってしまったのだろう。老人も、もうそこにはいなかった。すっかり日も暮れたところだし、寒さを感じて駅の方へ向かったのだろうか。それにしても、少女が帰ってしまったのは残念だ。そこでようやく、自宅のほうへ脚を向けた。
アパートに戻ってきた。外よりはいくらかましだが、家の中も寒い。ストーブを点け、パソコンの電源を入れる。今日は絵が上手く描けたから、パソコンに取り込んでしまおうと思ったのだ。真新しいスケッチブックにも『浦澤馨』と名前を書き、使い果たしたスケッチブックと並べ、思いをめぐらせる。新しいスケッチブックにはどんな景色が刻まれるのだろう、とか、どんな人が住んでくれるのだろう、とか、そんなことを、とりとめもなく。自然と笑いが零れる。これからが、楽しみで仕方がなかった。
家まで帰る距離を含めたら、結局、いつもの二倍走っていることになっていた。玄関扉を開けた瞬間、とてつもない疲労感が襲ってきた。楽しいという感情ばかりが先行し、疲れたなどということはすっかり忘れていたのだ。嬉しい疲労だった。消えかかっていた『小野康二』という文字を、上から黒マジックでなぞる。そして、ここで考える。なぜ自分は走り続けているのだろう、と。確かに学生時代から陸上部で、長距離を専門としていた。しかし、学生時代は一度も楽しいと感じたことがなかった。記録を出すことが主体となってしまっていたせいだろうか。しかし、今はどうだろう。こんなにも楽しい。あんなにも毎日辞めたいと願っていたことを、毎日進んで続けている。毎日辞めたいと願っていたのに、結局辞めることもできなかった。自分はきっと、走るという行為が好きなのだ。くく、喉から洩れていた笑いが、やがて、身体全体に広がった。大声をあげて、笑った。こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。
パソコンが立ち上がった。スキャナーにスケッチブックをセットし、読み込む。自然と鼻歌が洩れてくる。そして、はっとする。こんなに自然と鼻歌を歌ってしまうことなんてなかなかない。毎日続けてきたことでも、無意識下で今日は本当に満足しているのだと実感する。今日は、いい日だ。
ひとしきり笑った後、なんだか、この気持ちを誰かに伝えたくて仕方がなくなった。しかし、自分には友達らしい友達もいない。そうだ、パソコンがあるじゃないか。いそいでパソコンの電源ボタンに手を伸ばす。
取り込み終わって、いつものようにネットサーフィンを開始する。知り合いのブログを廻っているうちに、どうせならこの絵も自分のブログにアップしてしまおうという気になった。自分のブログを開く。『屋根裏部屋』と名付けたその空間に、初めて自分の描いたものが並べられた。初めて、このブログが本当に自分のものになった気がした。
自分は世間から浮いている。いつ頃からそんな認識が生まれたのかはわからないが、常にそう感じていた。シューズボックスから、学生時代より使っているランニングシューズを取り出す。消えかかってはいるが靴の底に『小野康次』と自分の名前が記されている。消えかかってしまっているところは帰ったら書き直そう。仕事はおろかバイトですら長続きしなかったが、この習慣だけは学生時代から続いている。これだけは続けることができて良かった。玄関扉を勢いよく開いた。
年が変わって十日ほどになる。が、早くも世間はピンク色に染まりつつある。つい二、三日前までは新年一色だったのに。一ヵ月も先のイベントを先取りして何になるというのだろう。世間と思考がかみ合わない自分が悲しい。スケッチブックを無事購入し、駅前の人通りの多い通りを抜け、寂れた路地に入る。そこはプレハブの家が立ち並び、錆付いた看板といつも人がいない商店が点在している。毎日、ここの風景ばかりを描いていた。建物は同じなのに、毎日違う景色を見せてくれる。ハイスピードに暮れていく陽。だが、ここではゆったりと時間が流れていく。その空気感がひどく心地よかった。
自宅を出発し、駅前の大通りを避け、横に続く小さな路地に入る。普段は通らないコースだが、今日はなんとなくそんな気分だった。ランニングシューズに記された自分の名前をまじまじと見つめたせいか、なんともいえずノスタルジックな気分だったのだ。寂れた看板と、寂れた店。住宅街風ではあるが、どの家も屋根は低くプレハブ風。駅前とのギャップを感じ、本当にここはあの駅から歩いて数分というところに位置しているのだろうかと思わされる。しかし、雰囲気は決して悪くない。ここもコースの一つにしよう。そう思った。
道端で、ダンボールに包まれた老人が死んだように眠っている。初めてみる顔だった。こういうふうに、毎日違う顔を見せてくれるこの路地が、やはり好きだった。鉛筆を握る右手は、今日も快調に滑る。
初めて見る町並み。家の中から聞こえる赤ん坊の泣き声。それをあやしているのか叱りつけているのかもはや判別のつかない母親のヒステリックな怒声。始めて聞く音に一瞬驚くが、走るリズムは崩さない。たまにはこういうのも悪くない。心なしか、いつもより走るのが楽しい。
一心に鉛筆を動かしているうちに、完全に日がくれてしまった。だが、慌てず携帯電話のライトを頼りに絵を描き続ける。スケッチブックを買いに行った時間の分、日暮れまでの計算がずれてしまったのだ。仕方がない。自分の失敗だ。とにかく、絵を完成させなければ。目の前を、男性が走って通り過ぎた。同じリズムで、テンポを崩さず、視界から消えていく。心地よい風を残して。あの人、とても楽しそうだ。ああ、彼の姿も絵に収めたい。今日はなかなかこの場を離れることができないようだ。
路地を走り回っているうちにいよいよ楽しくなってきてしまい、気がついてみればもうこの付近を一周していた。顔が緩んでいるのがわかった。こんなに楽しいランニングは久し振りだ。角を曲がると、不思議な少女を見つけた。携帯電話のライトでスケッチブックを照らしながら懸命に絵を描いている。そばには、ダンボールにくるまれた老人が眠っている。死んでしまっているのではないか、と不安に思ったが、立ち止まるわけにもいかず、少女に声をかけるわけにもいかず、その場を通り過ぎた。もう一周したときにまだ彼女が居たら、声をかけてみようと思った。
走り去っていった男性も描き入れ、一息ついてから立ち上がる。ようやく絵が完成したのだ。今回のこの絵はこの一ヵ月の中で一番上手く描けたと思う。眠っている老人が風邪を引かないか、死んでしまわないか心配だったが、むやみに手を出してはいけない。この姿は神聖なものだから。身体に気をつけて。心の中でつぶやき、路地を離れた。
再び戻ってきたとき、もう少女はそこにいなかった。帰ってしまったのだろう。老人も、もうそこにはいなかった。すっかり日も暮れたところだし、寒さを感じて駅の方へ向かったのだろうか。それにしても、少女が帰ってしまったのは残念だ。そこでようやく、自宅のほうへ脚を向けた。
アパートに戻ってきた。外よりはいくらかましだが、家の中も寒い。ストーブを点け、パソコンの電源を入れる。今日は絵が上手く描けたから、パソコンに取り込んでしまおうと思ったのだ。真新しいスケッチブックにも『浦澤馨』と名前を書き、使い果たしたスケッチブックと並べ、思いをめぐらせる。新しいスケッチブックにはどんな景色が刻まれるのだろう、とか、どんな人が住んでくれるのだろう、とか、そんなことを、とりとめもなく。自然と笑いが零れる。これからが、楽しみで仕方がなかった。
家まで帰る距離を含めたら、結局、いつもの二倍走っていることになっていた。玄関扉を開けた瞬間、とてつもない疲労感が襲ってきた。楽しいという感情ばかりが先行し、疲れたなどということはすっかり忘れていたのだ。嬉しい疲労だった。消えかかっていた『小野康二』という文字を、上から黒マジックでなぞる。そして、ここで考える。なぜ自分は走り続けているのだろう、と。確かに学生時代から陸上部で、長距離を専門としていた。しかし、学生時代は一度も楽しいと感じたことがなかった。記録を出すことが主体となってしまっていたせいだろうか。しかし、今はどうだろう。こんなにも楽しい。あんなにも毎日辞めたいと願っていたことを、毎日進んで続けている。毎日辞めたいと願っていたのに、結局辞めることもできなかった。自分はきっと、走るという行為が好きなのだ。くく、喉から洩れていた笑いが、やがて、身体全体に広がった。大声をあげて、笑った。こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。
パソコンが立ち上がった。スキャナーにスケッチブックをセットし、読み込む。自然と鼻歌が洩れてくる。そして、はっとする。こんなに自然と鼻歌を歌ってしまうことなんてなかなかない。毎日続けてきたことでも、無意識下で今日は本当に満足しているのだと実感する。今日は、いい日だ。
ひとしきり笑った後、なんだか、この気持ちを誰かに伝えたくて仕方がなくなった。しかし、自分には友達らしい友達もいない。そうだ、パソコンがあるじゃないか。いそいでパソコンの電源ボタンに手を伸ばす。
取り込み終わって、いつものようにネットサーフィンを開始する。知り合いのブログを廻っているうちに、どうせならこの絵も自分のブログにアップしてしまおうという気になった。自分のブログを開く。『屋根裏部屋』と名付けたその空間に、初めて自分の描いたものが並べられた。初めて、このブログが本当に自分のものになった気がした。