紅色の夜の下で
同じ煙草の匂いを感じ、アルベールは緩やかに覚醒した。
黒一色の寝具の上で裸体を起こしたアルベールは寝具の淵に腰かけた影の化身を見つけた。岩石を彷彿させる身体のライン、屈強な後ろ姿にアルベールは身を寄せた。
「グレンデル兄様」
「起きたのか」
低音の声にうっとりを耳を傾けながら、既に着こまれた上質の革ベストを引っ張る。
「冷たいこと。もう出かけられるつもりなのですか」
開かれたテラスのカーテンが僅かに吹く夜風に揺れていた。
濃紺の夜空には、猫の引っ掻き傷のような三日月が浮かんでいる。
交じり合い、身体を求めあったのは日が落ちてすぐだった。
今は真夜中。まだまだ兄の、いや二人の時間なのだ。
拗ねたようにアルベールが言うとグレンデルは僅かに肩を揺らした。
手袋を付けた手が雪のように白いアルベールの下腹部を悪戯に撫ぜる。
「まだ我に付き合えるというのか。それは結構なことだが」
兄の言葉にうっとアルベールは言葉に詰まる。
元来からの脆弱体質は人外のものになっても大きな変化はなかった。
無理をすれば身体はいうことを聞かずに寝込むことになる。愛する人の愛を注ぎこまれても、疲労することは変わりない。
ましてや、未だに少年のような外見のアルベールと岩石に例えられるグレンデルでは体力のありようが違う。手加減というものがなければ、アルベールは睦事の度に寝込む羽目になる。
それは仕方がないことだと片づけられるかもしれない。しかしアルベールは歯がゆくて堪らなかった。
きちりと留められた釦に手を這わせアルベールは上目づかいに見上げた。
「では出かけられる前に」
アルベールは色のない薄い唇を開けた。両顎から覗く、鋭く光を帯びる犬歯。獲物を捕らえるために進化した刃。唾液にぬめる赤い舌が物欲しそうに突き出される。
「もう一度、ここに注いで貰えませんか。舌で手で唇で。出来る術全てで愛しますから」
鉄のような強靭な意思を宿すグレンデルの瞳がひたりとアルベールを見下ろす。
上気した頬に、劣情に濡れた幼き眼差し。何も知らない身体を支配し、調教し、育て上げた1人の少年。
空気を震わす低い笑い声が、グレンデルの喉奥から漏れ出る。
手袋をはめた手が少年の頬を愛撫する。
「アベル。愛おしい我の片割れ。可愛い奴だ」
大きく開かれた唇からナイフほどもある牙が突き出され、引き寄せたアルベールの細い首元に深々と突き刺さる。
大きく身体を痙攣させ、唇から震えるような吐息が漏れる。
薄い皮膚は突き破られ、毀れた血液がてらてらとグレンデルの唇を、アルベールの肌を濡らした。
唇から洩れる嬌声を止めることもせず、アルベールは同じ悦楽を与えられた夜のことを思い出していた。
薄暗いテラスの傍で幼いアルベールは影のような大男から身をひいた。
「貴方は、なんなのですか」
「答えるなら、闇より生まれたもの。人を喰うもの。そして未だに正体が見えぬもの。好きに解釈するがいい」
いつの間にかアルベールの視界は暗く染まっていた。広げられた大きな外套の内へと招かれていたのだ。
「おまえは我に捕食される。それは変わらぬのだから」
鋭く磨かれた冷たい指先がアルベールの喉を伝う。少しでも力を込められれば、血管は破壊され赤い血が噴き出す。
そんな空想がアルベールの頭に浮かび、身を震わせた。
震えた小さな手が、大きな手にそっと添えられる。
ぎこちない微笑を、アルベールは浮かべた。
「食べるのなら、美味しく食べて下さいね」
大きな闇の蟠りに身を寄せて目を閉じると、アルベールは不思議と安らぎを感じた。
まるで夜に抱かれているようだった。
赤く濡れた獣の瞳に射抜かれた瞬間、背筋が凍り身体が震え始めた。
身の内から名の知らない感情が溢れ出し、身動きがとれなくなった。
このまま、連れ去られてしまいたかった。
この身に刻まれた刺青のように消えない出生。
変わらない劣等感、誰からも愛されぬ立場。
もし。少しでも求められるものがあるならば、喜んで差し出したかった。
闇は僅かに驚きながらも、伸ばした掌でアルベールの頬に触れた。
大きく開かれた唇が首元を愛撫し、アルベールは夜の祝福を受けることになった。
身が溶け出しそうな恍惚。胸中に広がる狂喜と恐怖。
様々な感情の渦に飲まれながら、少年は暗い深淵の底へと沈んだ。