雪のつぶて19
たっぷりとレモンをかけた牛タンを、沙織は箸で掴み、ゆっくりと咀嚼していく。
「真美のほうにその気はなくても、柿崎は別かもしれない。女の噂が耐えないんだろう?」
「気に入った女の子の尻を追いかけて、ことごとく玉砕してる話しでしょ。ばかよね。別れた奥さんが気の毒。奥さんの目の前でそんなことするんだもの。誰も本気にするわけがないじゃないの」
「そういう話しも耳にしたからさ」
「ばかじゃないの。だからって本気にすることないじゃない。誰から聞いたの。もしかしてあの美野里って子?」
「誰だっていいじゃないか」
揃えた箸で、忠彦の鼻を指し示す。
「ずばり的中ね。あんな子の言うこと、話し半分で聞き流しなさいよ。仕事はできない、性格は悪い。所詮薬局に飛ばされちゃうような子よ」
「おれが二人でいるところを見たとしたら」
グラスを掴んだ沙織が、手を止める。ゆっくりと首を左右に振っていく。
「何かの間違いよ。幻でも見たんじゃないの。仮に本当に見たとしても、見なかったことにして、信じてやるのが夫婦ってもんじゃないの。わたしはまだ夫婦になったことがないからわからないけど。忠彦くんのやってることはね、あまりにも卑怯でずるいわ。自分のしていることを棚の上にあげてるだけよ。気分がよくなる内容じゃない。そんな話しをするなんてどうかしてる」
グラスに残っていた焼酎を、沙織は一息に飲み干し、空になったグラスに、焼酎をついでいく。
「なんだか、真美さんが可哀相。わたしなんかと浮気されちゃったり、薬局長と浮気していることにされちゃったり。なんか、本当に可哀相」
両肘をついた沙織は首を項垂れていく。短く息を吐き出した沙織は、しばらくの間その姿勢を崩さなかった。網の上にもう焼かれた肉はなく、隣のテーブルから流れてくる白い煙が、二人の間を漂っている。
顔をあげた沙織が、髪を掻き上げていく。その指先が、少しだけ震えていた。けれどその震えも、茂の姿を見つけた途端、ぴたりと止まった。沙織はまた笑い始める。忠彦ではなく、茂に向かって。
「悪いけど、帰るよ。またゆっくり話をしよう。明日、早いってこと、忘れてたんだ。悪いね」
入れ替わるように立ち上がった忠彦を、茂だけが止めた。沙織は何も見ないふりをして、焼酎を飲んでいる。
いつになっても止まない雪が続いている。見上げると鉛色の空から落ちる雪が、鼻の頭を濡らした。
「兄貴、何怒ってんだよ」
肩を掴まれ、足の裏が滑る。茂は顔を強張らせていた。
「怒ってないさ。何言ってんだよ」
掴まれた肩に、指先が食い込んでいく。
「怒ってるじゃないか。兄貴はいつもそうなんだよ。気に入らないことがあると、黙っていなくなるじゃないか。逃げればいいと思ってるじゃないか」
真っ直ぐな瞳が、寒さに固まる忠彦を貫いていく。奥歯を噛み締めた。茂の後ろに、真美がいる。
「沙織、なんか気に触ることを言った? それならおれが謝るよ」
「そんなんじゃないよ」
鼻から息を吐き出し、うすっぺらく笑う。
「じゃ、なんなんだよ」
窓を通して見える沙織は小さく、一人で飲んでいる。
「あの女はやめておけよ」
「どうしてさ。兄貴にそんなことを言われる筋合いはないね。沙織の何を知ってんだよ。なんにも知らないくせに」
「知ってるさ。あいつは俺と付き合ってたんだから」
雪を孕んだ風が、茂の体にまとわりついていく。口を半開きにした茂が、何かを言おうと戸惑っていた。
「そういうことさ」
「なんだよ、それ。現在進行形の話し? 兄貴、浮気してたってこと? 沙織は兄貴が結婚してるの知ってて、付き合ってたってこと?」
「そうだよ。そういう女だから、やめておけって言ったんだよ。じゃあな」
背中を見せて、手を振る。
そんなわけないだろっ!
風に紛れて、茂の声が聞こえてくる。