雪のつぶて19
沙織のゴールドのブレスレットが、店内のあかりに反射した。
「お肉が、焦げるわ」
トングを手にした沙織は、眉一つ動かさず、それぞれの小皿へ分け終えた後で空のグラスを掴んだ。
「わたしも、焼酎いただいてもいいかしら」
目の前にあるボトルに沙織が手を伸すたびに、ブレスレットが触れ合って金属音をたてる。白くて透き通った手は、忠彦が何度も握り締めた手だった。指には初めて会ったときと同じペリドットの指輪が付けられていた。
「どうぞ」
ありがとう、と沙織は両方の目尻を垂らす。
ロックの焼酎を口にした途端、沙織の顔から笑みが消えた。
「驚いたわ。家に帰ることもあるのね」
「たまたまだよ」
「昨夜はどこに泊まったの。それとも奥さんに頭を下げた、とか」
沙織の唇が斜めに傾き、指先でぶら下げたグラスを回した。
「どこだって、いいだろ。それより、あいつが石ころか」
「そう。石ころよ。どこにでも転がってる石ころ」
忠彦の煙草に、沙織は手を伸ばしていく。頂戴、とも言わず、当たり前の顔をして煙草をくわえた。
確かに石ころかもしれない。二人の兄のように派手なところはなかった。少しばかり人の道からそれてしまったところもある。だが今は、史子ですら茂はかわいいと言って手離さない。一番の頼りにしている。忠彦よりも、東京に行ったきり、盆と正月にも帰ってこない一番上の兄よりも。
「そうか。あいつが石ころか」
口をすぼめて、沙織は白い煙を吐き出していく。
「そうよ。忠彦くんとは似ても似つかない、石ころ。……話してもかまわないわよ。痛くも痒くもないから、わたし」
片手にグラス、片手に煙草、沙織の表情は変わらない。
「いいさ。真美なんかの話しを茂がして、悪かった」
「何故あなたが謝るの。彼はなんにも知らないから、当然のことじゃないの。それよりも、傑作だわ。あなたがお嬢様好みだったって、初耳」
グラスを手の平で包み込んだ沙織が、両方の肘をついて身をのり出してくる。
「自分じゃ、意識したことないけどな」
「でも、わかるわあ。わたし、何ヶ月しか一緒に働いたことないけど、あの人、確かにのんびりしてたわよ。妹のほうがしゃかしゃかしてるわね。妹が看護婦で、姉が事務員っていうの、なんかわかるわ」
「そうかな」
「そうよ。誰も彼も看護婦になれるわけじゃないもの。向き不向きって、やっぱりあるのよ。この場合の向いている人ってね、仕事を正確にこなすことができるとか、責任感があるとか、そういうことじゃないの。どこまで性格も根性も悪くなっていくか、これよ。仕事していくうちに性格が歪んでいって、なんとなく看護婦になっていく人もいるけどね。あの妹は根性悪いと思うわ。言い方は悪いけど、看護婦向き」
「根性悪いかなあ」
「根性悪くならないと看護婦できないから。全員が全員ってわけじゃないけどね。根性悪いといえば、薬局に飛ばされたヘルパーの、美野里とか言う人もそうよね。仕事はいい加減だし、あることないことしゃべっちゃうし。忠彦くんの奥さんがよくあんな人と友達やってるって、不思議でならないわ。わたしなら友達にならないな、絶対。病院てさ、閉塞された特殊な空間だから、みんな根性捻じ曲がっていって、性格もおかしくなっちゃうのよね。だからできるだけ、おかしくない連中を捜して、付き合うようにしてる。まあ、蓼食う虫も好き好きっていうから、なんとも言えないけど」
右肩だけを上げて沙織は、少なくなったグラスに焼酎を注いでは飲み干していく。
「わたしを見ててわからない? 根性捻じ曲がってて、性格が歪んでなきゃ、知り合いの旦那と付き合おうなんてしないと思わないわよ。普通ならね」
「確かに。そう言われれば、そんな気もするな」
「だから忠彦くんは、わたしのことなんかなんにも気にしなくていいの。わたしも気にしないから」
片目を閉じた沙織は、咽を鳴らして焼酎を飲んでいく。上下するその咽元に、何度唇を当てただろう。この先、沙織はほかの誰でもない、たった一人の弟のものになっていく。水滴が滴るグラスを握りしめると、忠彦は一息に焼酎を飲み下した。
「了解。おれも君が幸せになるならそれでいい。余計なことは言わないさ。お互いのためにもそのほうがいい」
手の平を見せてホールドアップする。沙織の変わり身の早さに舌を巻きながら。
「ありがと。わたしも忠彦くんが幸せなら、それでいいわ。わたしといて、忠彦くんが幸せになれるならいてあげるけど、それじゃ、わたしは幸せにはなれないもんね。仕方、ないわよね」
グラスの中の焼酎を、沙織は一気に胃の中に収めていく。酒の強い沙織は、顔色一つ変わらない。代わりに瞳を潤ませて、目の高さにグラスを合わせていく。グラスの中では氷達がくらげのように漂っている。
「一度で、よかったわ。嘘で、かまわなかった。でもあなたは一度も、奥さんと離婚するとは言わなかった。だからわたしも、何も言わなかった。そのくせ自分の都合のいいときだけ、わたしを利用する。だからわたしも利用した。でもね、知ってる?」
目の高に合わされたグラスの奥で、沙織の顔が歪む。
「うん?」
「女はね、どんなに強がってても、意気がってても、寂しがり屋なの。男の都合のいいように振り回されるなんて、これ以上の屈辱はないわけ。それでも黙ってわたしが忠彦くんと一緒にいたのは、アクセサリーとしてのあなたの価値を認めていたからよ。でも、それももう用なし。アクセサリーはもういらないの。だってわたし、結婚するんだもん。自分だけを愛してくれて、都合よく扱わない人とね」
「飽きたおもちゃは捨てるってことか」
端っこが焦げたカルビを、忠彦は口に放った。
「同じことをしただけよ。あなたと。文句を言われる筋合いはないから。それにね、わたしはチャンスをあげてるの。頭下げて、奥さんとこに帰りなさい。紙切れ一枚でも、夫婦は夫婦。結局忠彦くんはそこに帰るしか方法がないの。夫婦である以上、逃げ回るなんて最低なことよ。奥さんの気持ち、ちゃんと聞いて、よく話しをしたほうがいいと思う。わたしが言えた義理じゃないけどね」
肉を飲み込み、残りが少なくなった焼酎を煽っていく。グラスの中で、角が取れた氷が、丸みを帯び始めている。忠彦はそこにまた焼酎を注ぎ足した。グラスの中で泳いだ氷が触れ合った。
好き勝手に泳ぐ氷を、忠彦は睨む。
「なあ。ちょっと聞くけど、薬局の柿崎ってどう思う?」
牛タンにレモン汁をかけていた沙織が、顔をあげた。
「薬局長のこと?」
「そう」
「どうって。どういう意味なの」
「真美のことがお気に入りだったんだろ。今でも会っていたりしてると思うか」
「真美さんと薬局長が?」
視線を窓に走らせて、まだ電話を続けている茂を確認してから、沙織は大きく首を振った。
「どうしたらそういうことを考え付くのかわからないわ。ありえないわね。さっきも言ったけど、真美さんとは少ししか一緒に仕事をしてないけど、でも、そんな器用なことをできる人じゃないことだけは確かね。彼女は不器用な人よ。あなたやわたしとは、違う次元に住んでる。そんなふうに考えてもいいくらい。真美さんのことを疑うなんて、どうかしてるわよ。あまりにも失礼だわ。自分の奥さんを疑うなんて」
「お肉が、焦げるわ」
トングを手にした沙織は、眉一つ動かさず、それぞれの小皿へ分け終えた後で空のグラスを掴んだ。
「わたしも、焼酎いただいてもいいかしら」
目の前にあるボトルに沙織が手を伸すたびに、ブレスレットが触れ合って金属音をたてる。白くて透き通った手は、忠彦が何度も握り締めた手だった。指には初めて会ったときと同じペリドットの指輪が付けられていた。
「どうぞ」
ありがとう、と沙織は両方の目尻を垂らす。
ロックの焼酎を口にした途端、沙織の顔から笑みが消えた。
「驚いたわ。家に帰ることもあるのね」
「たまたまだよ」
「昨夜はどこに泊まったの。それとも奥さんに頭を下げた、とか」
沙織の唇が斜めに傾き、指先でぶら下げたグラスを回した。
「どこだって、いいだろ。それより、あいつが石ころか」
「そう。石ころよ。どこにでも転がってる石ころ」
忠彦の煙草に、沙織は手を伸ばしていく。頂戴、とも言わず、当たり前の顔をして煙草をくわえた。
確かに石ころかもしれない。二人の兄のように派手なところはなかった。少しばかり人の道からそれてしまったところもある。だが今は、史子ですら茂はかわいいと言って手離さない。一番の頼りにしている。忠彦よりも、東京に行ったきり、盆と正月にも帰ってこない一番上の兄よりも。
「そうか。あいつが石ころか」
口をすぼめて、沙織は白い煙を吐き出していく。
「そうよ。忠彦くんとは似ても似つかない、石ころ。……話してもかまわないわよ。痛くも痒くもないから、わたし」
片手にグラス、片手に煙草、沙織の表情は変わらない。
「いいさ。真美なんかの話しを茂がして、悪かった」
「何故あなたが謝るの。彼はなんにも知らないから、当然のことじゃないの。それよりも、傑作だわ。あなたがお嬢様好みだったって、初耳」
グラスを手の平で包み込んだ沙織が、両方の肘をついて身をのり出してくる。
「自分じゃ、意識したことないけどな」
「でも、わかるわあ。わたし、何ヶ月しか一緒に働いたことないけど、あの人、確かにのんびりしてたわよ。妹のほうがしゃかしゃかしてるわね。妹が看護婦で、姉が事務員っていうの、なんかわかるわ」
「そうかな」
「そうよ。誰も彼も看護婦になれるわけじゃないもの。向き不向きって、やっぱりあるのよ。この場合の向いている人ってね、仕事を正確にこなすことができるとか、責任感があるとか、そういうことじゃないの。どこまで性格も根性も悪くなっていくか、これよ。仕事していくうちに性格が歪んでいって、なんとなく看護婦になっていく人もいるけどね。あの妹は根性悪いと思うわ。言い方は悪いけど、看護婦向き」
「根性悪いかなあ」
「根性悪くならないと看護婦できないから。全員が全員ってわけじゃないけどね。根性悪いといえば、薬局に飛ばされたヘルパーの、美野里とか言う人もそうよね。仕事はいい加減だし、あることないことしゃべっちゃうし。忠彦くんの奥さんがよくあんな人と友達やってるって、不思議でならないわ。わたしなら友達にならないな、絶対。病院てさ、閉塞された特殊な空間だから、みんな根性捻じ曲がっていって、性格もおかしくなっちゃうのよね。だからできるだけ、おかしくない連中を捜して、付き合うようにしてる。まあ、蓼食う虫も好き好きっていうから、なんとも言えないけど」
右肩だけを上げて沙織は、少なくなったグラスに焼酎を注いでは飲み干していく。
「わたしを見ててわからない? 根性捻じ曲がってて、性格が歪んでなきゃ、知り合いの旦那と付き合おうなんてしないと思わないわよ。普通ならね」
「確かに。そう言われれば、そんな気もするな」
「だから忠彦くんは、わたしのことなんかなんにも気にしなくていいの。わたしも気にしないから」
片目を閉じた沙織は、咽を鳴らして焼酎を飲んでいく。上下するその咽元に、何度唇を当てただろう。この先、沙織はほかの誰でもない、たった一人の弟のものになっていく。水滴が滴るグラスを握りしめると、忠彦は一息に焼酎を飲み下した。
「了解。おれも君が幸せになるならそれでいい。余計なことは言わないさ。お互いのためにもそのほうがいい」
手の平を見せてホールドアップする。沙織の変わり身の早さに舌を巻きながら。
「ありがと。わたしも忠彦くんが幸せなら、それでいいわ。わたしといて、忠彦くんが幸せになれるならいてあげるけど、それじゃ、わたしは幸せにはなれないもんね。仕方、ないわよね」
グラスの中の焼酎を、沙織は一気に胃の中に収めていく。酒の強い沙織は、顔色一つ変わらない。代わりに瞳を潤ませて、目の高さにグラスを合わせていく。グラスの中では氷達がくらげのように漂っている。
「一度で、よかったわ。嘘で、かまわなかった。でもあなたは一度も、奥さんと離婚するとは言わなかった。だからわたしも、何も言わなかった。そのくせ自分の都合のいいときだけ、わたしを利用する。だからわたしも利用した。でもね、知ってる?」
目の高に合わされたグラスの奥で、沙織の顔が歪む。
「うん?」
「女はね、どんなに強がってても、意気がってても、寂しがり屋なの。男の都合のいいように振り回されるなんて、これ以上の屈辱はないわけ。それでも黙ってわたしが忠彦くんと一緒にいたのは、アクセサリーとしてのあなたの価値を認めていたからよ。でも、それももう用なし。アクセサリーはもういらないの。だってわたし、結婚するんだもん。自分だけを愛してくれて、都合よく扱わない人とね」
「飽きたおもちゃは捨てるってことか」
端っこが焦げたカルビを、忠彦は口に放った。
「同じことをしただけよ。あなたと。文句を言われる筋合いはないから。それにね、わたしはチャンスをあげてるの。頭下げて、奥さんとこに帰りなさい。紙切れ一枚でも、夫婦は夫婦。結局忠彦くんはそこに帰るしか方法がないの。夫婦である以上、逃げ回るなんて最低なことよ。奥さんの気持ち、ちゃんと聞いて、よく話しをしたほうがいいと思う。わたしが言えた義理じゃないけどね」
肉を飲み込み、残りが少なくなった焼酎を煽っていく。グラスの中で、角が取れた氷が、丸みを帯び始めている。忠彦はそこにまた焼酎を注ぎ足した。グラスの中で泳いだ氷が触れ合った。
好き勝手に泳ぐ氷を、忠彦は睨む。
「なあ。ちょっと聞くけど、薬局の柿崎ってどう思う?」
牛タンにレモン汁をかけていた沙織が、顔をあげた。
「薬局長のこと?」
「そう」
「どうって。どういう意味なの」
「真美のことがお気に入りだったんだろ。今でも会っていたりしてると思うか」
「真美さんと薬局長が?」
視線を窓に走らせて、まだ電話を続けている茂を確認してから、沙織は大きく首を振った。
「どうしたらそういうことを考え付くのかわからないわ。ありえないわね。さっきも言ったけど、真美さんとは少ししか一緒に仕事をしてないけど、でも、そんな器用なことをできる人じゃないことだけは確かね。彼女は不器用な人よ。あなたやわたしとは、違う次元に住んでる。そんなふうに考えてもいいくらい。真美さんのことを疑うなんて、どうかしてるわよ。あまりにも失礼だわ。自分の奥さんを疑うなんて」