風鈴
ある年の初夏のことである。
北野俊介は古い港を旅した。
海岸沿いを歩いていたとき、どこからもなく、チリン、チリンと風鈴の音がした。思わず足を止めた。懐かしく切ない思い出が走馬灯のように蘇ったからである。それは今から遡ること、十二年前のことである。
当時、俊介は一流大学を卒業しながら定職にもつかずぶらぶらと暮らしていた。それはたった一人の肉親であり、最愛の人でもあった母を亡くし、生きる目的が失ったためである。その頃、死ばかりを夢想していた。どんなふうに死んだらいいのか。どこで死ねばいいのか。けれども、死ぬ勇気がなかった。それにまだ女というものを知らなかった。女を知らぬま死ねないとも思っていた。てっとり早く女を知るには、金がかかるが、その金もなかった。低俗ではあったが、彼は生きるべきかどうかという問題とセックスへの憧れがごちゃ混ぜになっていた。
春、桜の花の咲く頃であったであろうか。
俊介が公園でぶらぶらとしていた。ベンチを離れかたとき、髪の長い女が声かけた。
俊介が「何か用ですか?」と聞くと、
「忘れ物しているよ」と鞄を差し出した。
俊介は鞄をとり、女を見た。女は不思議な笑みを浮かべていた。
俊介が「どこから来たの?」と問いかけると、
「新潟から来た。敦子というの。よろしく」と女は素直に答えた。
「俺は俊介、奇遇だな。僕も新潟から来た」
「新潟のどこ? 俺は新潟市内だ」
「私は水原」
「隣の市だ。昔、水原に友達がいた」
同郷ということが二人の心を妙に打ち解けた気分にさせた。
何度かデートをした後、ちょうど桜が盛りの頃である。
川沿いの桜並木を寄り沿いながら歩いていた。すると、どこからもなく花が散ってきて敦子の髪に落ちた。敦子は気づく様子がなった。俊介の手が自然と伸びた。花びらを取り、敦子に示すと、彼女は微笑んだ。
「ありがとう」と敦子は言った。
俊介は思いきって「部屋に遊びに来いよ」と誘った。すると、敦子は素直に来た。それが二人の恋の始まりだった。互いの部屋を訪れるようになった。何をするわけでもなく喋って時間を過ごすだけだった。
季節が春から夏に変わっていた。
俊介の部屋には、扇風機しかなかった。
昼過ぎだろうか、突然、敦子が来た。そのとき、俊介は寝ていた。ノックする音に気付いて、ドア開けると、夏らしい白いワンピースを着た敦子の姿があった。花のような香りがした。どこからもなく鈴の音がした。
不思議な顔で俊介があたりを見ると、敦子が風鈴を差し出し、
「買ってきたの、とてもいい音でしょ」と言った。
彼はまだ眠かった。
「上がれよ」
敦子は部屋に入ると、窓を開け、洗濯物を干す竿に風鈴をつるした。
「どうした?」と俊介は聞いたが、
「海に行かない?」と微笑んだ。
「海に?」
近くに川がある。その川風であろうか。時折、チリン、チリンと気まぐれに鳴る。
敦子は俊介の隣に腰を下ろした。
「いい音だね」と微笑んだ。
その時、俊介は敦子の胸を見ていた。服の上からも、たわわに実った果実のような乳房が分かった。そっと手を伸ばした。触れた瞬間、驚いた魚のように身をよじらせ逃げた。
風鈴の音が頻繁に鳴り始めた。
敦子は俊介を見た。俊介の顔から汗が流れているのに気づいた。その汗を拭ってあげたいと思いハンカチでハンドバックから取り出して、そっと俊介の額に手をやった。優しい手の感触がした。
俊介は何も言わなかったが、何か射るような目をして敦子を見ていた。そのことに気づいた敦子の胸に何か熱いものが貫いた。獣ようで、子供のようで、不思議な何かが敦子に近づこうとしている。きっとその場を離れたなら、何でもなかったであろう。しかし、敦子は離れなかった。これから起こることを受け入れるかのように敦子は動かなかった。
風が少し強くなり、さっきよりも風鈴の夥しく鳴った。敦子の耳に風鈴の音が心地良く耳に響いてきた。俊介はどうだろうと思った。俊介は熱い視線を向けたままだった。
敦子は故郷の海を思い出した。夏の海を。青い海を。砂浜に砕ける波を。そして、小さい時に怖くて泣いたことを思い出した。敦子はもう少女ではなかった。男たちがときに狂気に駆られたかのように示す熱情を知っていた。
夏の日の波のように、ゆっくりと俊介が覆いかぶさってきた。敦子はゆっくりと目を閉じた。おずおずとした俊介の手が敦子の胸に触れた。俊介の唇が敦子の唇に触れ、拙速に体を重ねてきた。俊介にとって初めての経験だった。愛を確かめった後、俊介はゆっくりと体を離した。言い訳をしなかった。敦子も黙ったままだったが、俊介に近寄り、彼の髪を撫ぜた。
「汗をかいているね」と微笑んだ。
俊介は返答に窮した。
彼女はタオルで滴る汗を拭いた。
「話し方がゆっくりだから、みんな馬鹿だと思うみたい」と敦子は服を着ながら言った。
「そんなことはない」というと、敦子は微笑んだ。
知性も教養もない女だった。美しいというわけでもない。それでも何か惹かれるものがあった。その何かが分からないまま、俊介は同棲した。
俊介は敦子と体を重ねるときだけ、孤独感から癒された。敦子の体の中は、柔らかくて、温もりがあって、そして潤いに満ちていた。全てを包み込んでくれる優しさがあった。
俊介は敦子のおかげで、生きる張り合いが少しずつ生まれた。彼は大学に戻った。
ある日の夜、暗い部屋で敦子がしくしくと泣いていた。
俊介は「どうした?」と寝ぼけたふりをして尋ねた。
敦子は小声で「何でもないの」と答えた。
「泣いていただろ? 何で泣いていた?」
「何でもないの」と声は少し震えている。
敦子を抱き寄せると、泣くのをやめた。
「いつか別れる日がくると思ったら、悲しくなったの」
俊介は心の中を見透かされたようで、一瞬、たじろいでしまった。暗闇がなければ、その青ざめた顔を明らかに分かったに違いない。
同棲をして四年目の夏のことである。彼は故郷に戻って就職先を見つけた。敦子には言った。彼は卒業と同時に敦子と別れる決意を密かに固めていたのでいた。
冬が来た。風もない穏やかな夜、敦子がぼんやりと外を眺めていた。
「何を見ている?」と俊介が聞くと、
「故郷を見ていたの」と答えた。
変なことを言うなと俊介が思っていたら、
「私も一緒に帰ろうかなって思ったの」と敦子は答えた。
その切なそうな雰囲気が堪らなくいとおしくなり、後ろから抱きしめた。出会った頃、敦子の乳房はもっと張りがあったような気がした。彼女はもう三十になろうとした。
「嘘よ。私はこの東京で生きて行く。あなたは故郷に帰って。でも、さようならは私が先に言う」と微笑んだ。
俊介は内心ほっとした。
あれから十二年が過ぎた。敦子が今どこで何をしているかは知る由もなかった。ただ今は幸せであってほしいと俊介は願うしかなかった。