海竜王 霆雷9
対外的な交渉や儀礼について司っている大司徒のナンバーツーである太常ともなると、きっちりと、各宮の主だったものの顔も記憶している。だから、うっかりと忘れた場合は、その太常の記憶を覗かせてもらって、主人殿は対応している。これも、竜にはない主人殿の特殊能力というものだ。
「別に、背の君は笑っていらっしゃればよいのです。私くしが、ちゃんとご挨拶しますから、心配されなくてもよろしいですよ。」
もちろん、妻のほうは、覚えているし、表に立つのは、妻のほうだから、そう言ってくる。基本的に水晶宮の主人は、夫婦ふたりだが、黄龍である妻が、前に出るようにしているからだ。昔、大人しく虚弱な婿殿という肩書きが必要だったから、そういうことになっている。今では、誰も、そんなことは思わないが、それでも、夫のほうは妻に従うように背後に立つ。竜族の頂点に並ぶのは、黄龍が相応しいと思っているからだ。
「そうやって甘やかすから、俺は覚えないんだけどな、華梨。」
「うふふふ・・・甘えてくださればよろしいのです。あなた様に、文句を吐くような輩は、私が排除いたします。」
「こらこら、相手は、四兄のとこの人なんだからさ。穏便にすませてくれ。」
「わかっておりますよ、背の君。」
で、実際は、逆転している。妻は、夫に逆らわない。夫に無条件に従っている夫婦だ。ただ、夫が、妻を目立つようにしているから、見た目には、そう見えない。はい、と、蓮貴妃から渡されたお茶を妻が差し出している。人目がなければ、そのまま手ずから飲ませてしまうほどの熱愛ぶりだ。
「廉から報告は受けているんだがな、深雪。あちらは収まったのか? 」
相国は、一気に飲み干した主人の茶器を取り上げて、そう尋ねる。気がかりだった懸念事項が、ひとつ解消したと思っているが、当人から、ちゃんと報告は受けていなかったから、確認だ。
「終った。でも、忙しそうだ。・・・そのうち、挨拶に来るんじゃないかな。あいつ、律儀な性格してるからさ。」
「あーまた、頭を悩まされる訪問者か。」
儀礼と対外折衝が担当の相国となると、訪問者の格や一族との繋がりで、対応を考えなくてはならない。決まった相手なら、典礼書に則っていればいいのだが、それ以外のものとなれば、どこまでの接遇が妥当か頭を悩ますことになる。
「俺の親友が、訪問ぐらいのとこでいいと思う。」
「だが、公式に現れたら、そうもいかないぞ。」
「あー、そうか。えーっと、朱雀ぐらいのとこかなあ。」
「え? それは、ちょっとなあ。・・もう少し格下にしないとまずいだろう。」
現長の妻が、朱雀一族だから、対応は最高ランクになる。それに、朱雀の現長は、主人殿とも仲がいい相手だから、余計に対応は派手になる。そこまでの対応は、まずいというのが、相国の意見だ。
「適当でいいけど、対等の立場で俺は対応するよ。あれは、そのつもりでくるだろうからな。」
「珍しいこと、深雪が前に出るのですか? 」
いつもと違う言葉に、蓮貴妃は苦笑する。滅多なことでは、言葉すら発しない大人しい主人を演じているのに、やはり親友の訪問となると違うらしい。
「だって、華梨は、喧嘩売るだろ? 」
「もちろんです。あのバカのお陰で、背の君が、どれほど苦労されたか・・・・私には、それを責める権利がございます。」
仲が悪いというより言いたい放題な間柄なので、妻のほうも自分の意見をきっちりと吐き出す。もちろん、公式の対面が終ったら、それでいいが、さすがに、公式の席で罵るのはまずいだろう。おそらく、前代未聞の訪問となる。その場で、自分と親友が対等であることを、知らしめておきたい。上段から挨拶の口上を受けるのではなく、同じ位置に立ちたい。接見の間は、いくつかの段が設けられた造りになっている。基本的には、主人夫婦が、段の一番上に立ち、一番低い位置に訪問客が立って挨拶の口上を述べる。対等というのは、深雪も、その一番低い段に降りて、相手の口上を受けるという意味だ。
「それは、非公式の場で頼むよ、華梨。俺、降りて、同じ立ち位置で口上を受けるつもりだからね、孤雲さん。それは、絶対譲らない。」
「・・・わかった。確かに、神仙界での立場としては、対等で問題ないだろう。それに、あちらから訪問してくれるのであれば、こちらとしても、同じ立ち位置でもいいはずだ。」
たぶん、そう先ではない。この主人が断言するからには、近々、訪問するだろう。それに、竜族の歴史に残りそうな訪問だから、相国としても、きちりとした対応をしたい。立場としては、対等。そして、あちらからの訪問となれば、主人が言うようにしても問題はない。たぶん、お歴々の面々からは、嫌味は出るだろうが、それは、こっそりと対処すればいい。
「お歴々が、文句を吐くなら、俺に寄越せって言えばいい。」
「こらっっ、おまえ、またっっ。人の心を、そう簡単に読むのは失礼だぞっっ、深雪。」
内心で考えていたことを、すげすげと言われて、相国は、書類の束で、ぼかっと一発、主人殿の頭を殴る。公式の場で、こんなことをすれば、即刻、相国の首が刎ねられるが、非公式では日常だ。「おまえ、バカだよ、それ。」 と、太常の起東も大笑いしている。
そんなところへ、バタバタと出て行った三人が戻ってきた。ようやく、話が始められると、主人も机から立ち上がった。
「じゃあ、本題だ。もうすぐ、美愛が婿を連れて戻ってくる。ただ、婿殿は、とてもお若いので、できれば、今少し、人間界で過ごしてもらおうと思うんだ。」
生まれて十数年という人間の青年だという説明を、丞相が間にいれる。確かに、そんなに若くては、人間として未練もあるだろう、と、誰もが頷く。
「こちらで少し滞在するのはいい。だが、その間、『竜になれ』 とか 『次代の主人殿』とか言わないこと。慌てて選択させてしまったら、元も子もない。後悔することは、できるだけ排除して、ゆっくりと竜になればいいと、俺は思うんだ。幸い、俺たちは、まだ若いし、竜王も代替りするまで、まだ数百年はある。水晶宮の主人は、竜王が、次代に引き継がれてから、代替りするほうがいい。・・・そうだろ? 華梨。」
「御意にございます、背の君。」
「できるだけ、ゆっくりと、美愛の婿殿が辛い思いをしなくてもいいように、お願いしたいんだ。何年かかってもいい。人間であることに満足してから、竜になればいい。だから、皆、急がせることはしないように徹底させて欲しい。」
一度、竜になれば、二度と人間に戻れない。人型で、人間界に出て行けるまでに二百年の時間を要する。二百年という時間は、竜にとっては、大した時間ではないが、人間にとっては、何世代か通り過ぎる時間だ。だからこそ、後悔しないように、人間としての時間を満足して欲しい、と、主人は思っていた。自分には、できなかったことだ。そして、その時間を、何の障害もなく持てる婿殿だから、そうしてやりたいと願う。
「相変わらず、我らが主人殿は心優しい。」