海竜王 霆雷9
少し前に、遠方へ意識を跳ばすことはやめていた。どうにか落ち着いた様子だったから、それ以上に余計なことをしてもいけないだろうと判断したからだ。そこからは、あれが独自にやればいい。そして、人間界に滞在している娘の様子を、のんびりと眺めていた。自分には見せない表情が、娘が決めたことを教えてくれる。
「父上に、ちゃんとお聞きしておけばよかった。」
公宮の廊下で、欄干に腰掛けて、そう呟いた。まさか、自分が、自分のような子供を育てることになるなんて想像していなかったのだ。妻の両親は、本当の親として、自分を養育してくれた。あの時、両親は、自分のことを、どう思っていたのか、本当のところはわからない。すでに、妻の両親は引退して、竜族の拠点のひとつへ隠遁している。自分は動けないから、尋ねるとなれば呼び出すしかないのだが、両親も、そろそろ老齢になっていて、そんな些細な用件で呼び出すのは気が退けた。次の新年の年賀に訪れてくれた時にでも、尋ねてみよう。
「衛将軍、あなたは、私の太子衛になられて、いかがでしたか? 」
傍に控えている衛将軍に、何気無く尋ねたら、「かなり驚愕させていただきました、主人殿。」 と、軽く頷きつつ答えてくれる。実体と噂が乖離していたから、自分に従ってくれたものは、大抵が、そういう感想だ。太子すなわち次期主人として、次の世代の水晶宮の管理運営をしていく人材を集め、実務を学びながら、即位するまでの準備をする機関として、太子府というものがある。そこで、現在、水晶宮の実際の大司馬、大司徒、大司空という三機関の主要なものは徐々に集められ、主人夫婦の補佐をする実務と、主人夫婦との信頼関係を築きつつ即位までを過ごすこととなる。衛将軍は、その太子府が組織される以前から、主人の護衛となった、古株のものだ。
「元人間の子供というものについて、何か思うことはありましたか? 」
「それは、ありません。あなた様は、人間ではありましたが、些か特殊事例だったと、お聞きしております故、元人間の子供というものについて考えたことはございません。・・・・まあ、元人間ゆえの能力というものには、かなり驚かされました。」
なにせ、幼少時の竜というものは、基本的に飛ぶ以外に神通力は使えない。それが、まだ、よちよちしていた小竜のくせに、私宮のひとつを崩壊させるほどの騒ぎを起していたのだ。誰だって驚くというものだ。
「では、次の養育係や太子衛たちも驚くのでしょうね。」
「は? 」
次は、もっと凄まじいに違いない。自分は虚弱体質だったから暴れたら寝込んでいた。しかし、次代の主人は健康で、寝込むことはないだろう。次から次へと行動すれば、自分の時以上の騒ぎになるに違いない。それを想像したら、おかしくて笑えた。自分ですら、「水晶宮の小竜」というふたつ名を冠せられていた。次は、その名前に相応しい元気者のはずだ。
「主人殿? それは・・・」
「もうすぐ、次代の主人殿が挨拶にいらっしゃる様子です。・・・ですが、まだ、竜におなりあそばす必要はない。挨拶していただいたら、お返ししたいと、私は思います。」
まもなく、娘は、娘の背の君と、こちらにやってくるだろう。だが、慌てて選択する必要はない。もう少し、人間でいればいいだろうと思う。無闇に竜になってしまったら、後悔するのは、娘の背の君だ。
「皆は、私の執務室におりますでしょうか? 」
勧めてはならないと、釘は刺しておかねばならないだろう、と、欄干から立ち上がった。傍に控えている文官が、「はい、皆様、執務室におられます。」 と、教えてくれる。では、参りましょう、と、そちらへ向けて歩き出す。ぞろぞろと女官や文官が付き従っているので、飛ばずに歩く。水晶宮の主人として、公に姿を晒している限り、そのようにしているのが、決まりだからだ。
執務室には、接見が終った妻も揃っていた。ぞろぞろと、お付きを従えた主人殿が入ると、先触れされていて、全員が叩頭する。
「大司空、人払いをしてください。それから、左右の将軍。これより、門と、その周辺の警戒を厳しくしていただきたい。黄龍が戻ります。黄龍が、どういう状態であろうと、そのまま門へ誘導するように徹底させてください。それから、黄龍の帰還については、触れ回らなくてよろしい。」
そう命じると、「承知いたしました。」 と、三人が、執務室から出て行く。付き従っていた女官や文官、武官たち、それから、仕事をしていたものたちも、部屋の外へ追い出された。各機関の主要なものだけが部屋に残っている状態になると、やれやれと、主人殿は、机に腰をかける。それを見て、妻もいそいそと、その横に腰掛ける。
「何か緊急の要件ですか? 主人殿。」
「もういいだろ? 頤さん。蓮貴妃、俺、喉が渇いたよ。」
先程とは、まったく違う砕けた様子で、蓮貴妃に茶を所望する主人殿に、他のものも、口調を変える。公式ではない場合は、相変わらず、乱暴な物言いだ。
「深雪、お茶が飲みたいのなら、椅子にちゃんと座りなさい。」
「まったくだ。それは、机というもので、座るものじゃないと、そろそろ気付いたら、どうかと思うぞ。」
作法に厳しい蓮貴妃と、相国は、いちいち小言をのたまうが、当人は聞いている様子はない。ついでに、小言を言いつつも、蓮貴妃は茶の用意をしている。
「それで? 」
いちいち、説教する気の皆無な丞相あたりは、気にしないで、話しを続ける。人払いをしたということは、内密の話だということだ。
「美愛が、婿と戻ってくる。だが、とりあえず、元礼さんたちが戻るまで待ってくれ。二度、同じ事を説明するのは面倒だ。」
「あら、もう戻ってまいりますの? 早急なこと。」
妻のほうは、おやおやと嬉しそうに手を叩いている。一応、妻には、自分が眺めていたものを報告していたが、時間はかかるのだろうと言っておいた。
「深雪、叙玉さんはいいのか? 」
主人の隣りに、これまた無作法に座り込む太常も、暢気に書類を目にしつつ尋ねる。水晶宮の主だったものとなると、医師も外せない。
「先生はいいや。今、留守なんだ。」
「じゃあ、待ってる時間に、確認したいことがあるんだが、いいか? 」
「ああ、来月の接見のこと? 」
「いいや、そっちは、蓮貴妃だ。俺のほうは、黒竜王の使節の話。」
はいはい、と、そちらの書類を見せられて、説明される。各竜王の宮と水晶宮の官吏たちは、独立した機構に属しているが、年に一度は、交流のために、どちらかの宮を訪れることになっている。今回は、黒竜王の宮の官吏たちが、こちらを訪問することになっていて、その人数や訪問者の顔ぶれについての説明だ。さすがに、各宮の幕僚たちとなると、数も相当なもので、一々、顔まで覚えていられない。失礼のないように対応するには、顔ぶれを覚えておくことが必要だ。
「・・・げっっ、こんなに来るのか? ・・ま、いいけどさ。」
「おまえ、また、俺を辞書代わりにするつもりだろ? とりあえず、目を通しておけよ。」
「父上に、ちゃんとお聞きしておけばよかった。」
公宮の廊下で、欄干に腰掛けて、そう呟いた。まさか、自分が、自分のような子供を育てることになるなんて想像していなかったのだ。妻の両親は、本当の親として、自分を養育してくれた。あの時、両親は、自分のことを、どう思っていたのか、本当のところはわからない。すでに、妻の両親は引退して、竜族の拠点のひとつへ隠遁している。自分は動けないから、尋ねるとなれば呼び出すしかないのだが、両親も、そろそろ老齢になっていて、そんな些細な用件で呼び出すのは気が退けた。次の新年の年賀に訪れてくれた時にでも、尋ねてみよう。
「衛将軍、あなたは、私の太子衛になられて、いかがでしたか? 」
傍に控えている衛将軍に、何気無く尋ねたら、「かなり驚愕させていただきました、主人殿。」 と、軽く頷きつつ答えてくれる。実体と噂が乖離していたから、自分に従ってくれたものは、大抵が、そういう感想だ。太子すなわち次期主人として、次の世代の水晶宮の管理運営をしていく人材を集め、実務を学びながら、即位するまでの準備をする機関として、太子府というものがある。そこで、現在、水晶宮の実際の大司馬、大司徒、大司空という三機関の主要なものは徐々に集められ、主人夫婦の補佐をする実務と、主人夫婦との信頼関係を築きつつ即位までを過ごすこととなる。衛将軍は、その太子府が組織される以前から、主人の護衛となった、古株のものだ。
「元人間の子供というものについて、何か思うことはありましたか? 」
「それは、ありません。あなた様は、人間ではありましたが、些か特殊事例だったと、お聞きしております故、元人間の子供というものについて考えたことはございません。・・・・まあ、元人間ゆえの能力というものには、かなり驚かされました。」
なにせ、幼少時の竜というものは、基本的に飛ぶ以外に神通力は使えない。それが、まだ、よちよちしていた小竜のくせに、私宮のひとつを崩壊させるほどの騒ぎを起していたのだ。誰だって驚くというものだ。
「では、次の養育係や太子衛たちも驚くのでしょうね。」
「は? 」
次は、もっと凄まじいに違いない。自分は虚弱体質だったから暴れたら寝込んでいた。しかし、次代の主人は健康で、寝込むことはないだろう。次から次へと行動すれば、自分の時以上の騒ぎになるに違いない。それを想像したら、おかしくて笑えた。自分ですら、「水晶宮の小竜」というふたつ名を冠せられていた。次は、その名前に相応しい元気者のはずだ。
「主人殿? それは・・・」
「もうすぐ、次代の主人殿が挨拶にいらっしゃる様子です。・・・ですが、まだ、竜におなりあそばす必要はない。挨拶していただいたら、お返ししたいと、私は思います。」
まもなく、娘は、娘の背の君と、こちらにやってくるだろう。だが、慌てて選択する必要はない。もう少し、人間でいればいいだろうと思う。無闇に竜になってしまったら、後悔するのは、娘の背の君だ。
「皆は、私の執務室におりますでしょうか? 」
勧めてはならないと、釘は刺しておかねばならないだろう、と、欄干から立ち上がった。傍に控えている文官が、「はい、皆様、執務室におられます。」 と、教えてくれる。では、参りましょう、と、そちらへ向けて歩き出す。ぞろぞろと女官や文官が付き従っているので、飛ばずに歩く。水晶宮の主人として、公に姿を晒している限り、そのようにしているのが、決まりだからだ。
執務室には、接見が終った妻も揃っていた。ぞろぞろと、お付きを従えた主人殿が入ると、先触れされていて、全員が叩頭する。
「大司空、人払いをしてください。それから、左右の将軍。これより、門と、その周辺の警戒を厳しくしていただきたい。黄龍が戻ります。黄龍が、どういう状態であろうと、そのまま門へ誘導するように徹底させてください。それから、黄龍の帰還については、触れ回らなくてよろしい。」
そう命じると、「承知いたしました。」 と、三人が、執務室から出て行く。付き従っていた女官や文官、武官たち、それから、仕事をしていたものたちも、部屋の外へ追い出された。各機関の主要なものだけが部屋に残っている状態になると、やれやれと、主人殿は、机に腰をかける。それを見て、妻もいそいそと、その横に腰掛ける。
「何か緊急の要件ですか? 主人殿。」
「もういいだろ? 頤さん。蓮貴妃、俺、喉が渇いたよ。」
先程とは、まったく違う砕けた様子で、蓮貴妃に茶を所望する主人殿に、他のものも、口調を変える。公式ではない場合は、相変わらず、乱暴な物言いだ。
「深雪、お茶が飲みたいのなら、椅子にちゃんと座りなさい。」
「まったくだ。それは、机というもので、座るものじゃないと、そろそろ気付いたら、どうかと思うぞ。」
作法に厳しい蓮貴妃と、相国は、いちいち小言をのたまうが、当人は聞いている様子はない。ついでに、小言を言いつつも、蓮貴妃は茶の用意をしている。
「それで? 」
いちいち、説教する気の皆無な丞相あたりは、気にしないで、話しを続ける。人払いをしたということは、内密の話だということだ。
「美愛が、婿と戻ってくる。だが、とりあえず、元礼さんたちが戻るまで待ってくれ。二度、同じ事を説明するのは面倒だ。」
「あら、もう戻ってまいりますの? 早急なこと。」
妻のほうは、おやおやと嬉しそうに手を叩いている。一応、妻には、自分が眺めていたものを報告していたが、時間はかかるのだろうと言っておいた。
「深雪、叙玉さんはいいのか? 」
主人の隣りに、これまた無作法に座り込む太常も、暢気に書類を目にしつつ尋ねる。水晶宮の主だったものとなると、医師も外せない。
「先生はいいや。今、留守なんだ。」
「じゃあ、待ってる時間に、確認したいことがあるんだが、いいか? 」
「ああ、来月の接見のこと? 」
「いいや、そっちは、蓮貴妃だ。俺のほうは、黒竜王の使節の話。」
はいはい、と、そちらの書類を見せられて、説明される。各竜王の宮と水晶宮の官吏たちは、独立した機構に属しているが、年に一度は、交流のために、どちらかの宮を訪れることになっている。今回は、黒竜王の宮の官吏たちが、こちらを訪問することになっていて、その人数や訪問者の顔ぶれについての説明だ。さすがに、各宮の幕僚たちとなると、数も相当なもので、一々、顔まで覚えていられない。失礼のないように対応するには、顔ぶれを覚えておくことが必要だ。
「・・・げっっ、こんなに来るのか? ・・ま、いいけどさ。」
「おまえ、また、俺を辞書代わりにするつもりだろ? とりあえず、目を通しておけよ。」