海竜王 霆雷6
空は徐々に白んで、ゆっくりと茜色から青空へと変化していく。断崖の上から鳥の賑やかな声が聞こえている。足だけでなくて、頬も、腕もあちこち痛い。たぶん、突き飛ばされた時に、あちこちぶつけたらしかった。腕がぬるっとするので、目の前に動かしたら、結構、血が出ていた。止まってはいるから、傷自体は大したことはないだろう。
「なあ、美愛。おまえ、怪我は? 」
自分が、こうなのだから下敷きになった美愛も、かなり怪我しているのではないかと、そちらに目を遣った。水色のTシャツの背中部分を見てやろうと、四つんばいで、背後に廻った。だが、汚れてはいるが傷はない。打撲はあるだろうな、と、思ったが、さすがに触れるのはやめた。腕も足も、汚れているだけで、血が染みている箇所はなかった。
「痛いとこないのか? 」
まだ、黙秘だ。さすが、ドラゴンと嘯いて、その場に伸びた。眠くて眠くて、起きていられない。力を使うと、こうなる。
「・・ごめん・・・限界・・・」
そのまま、すうっと睡魔に従った。美愛は、ただ呆然としている様子だから、起きたら、連れて帰って、風呂にいれてやろうと思った。
殺したくない、それしか頭に浮かばなかった。そんなに、人間でいるのが苦しいなら、竜になればいい、と、美愛は思っていた。
ふと、気付いたら、彰哉は、眠っていた。規則正しい寝息が聞こえるから、疲れたのだと気付いた。それに、腕に大きな血の染みがあって、あっちこっちにも、小さな染みがある。頬に、何筋かの引っかき傷もあった。これは、たぶん、平手打ちした、自分の爪が掠ったのだろう。月夜に浮かぶ彰哉の姿は綺麗だった。そして、うっすらと微笑んだ姿が忘れられない。何度も何度も、謝らせて、降参させた。そんなことしたかったわけではない。だが、あの時、混乱していて、それしか思い浮かばなかったのだ。叩いても、揺すっても、彰哉は、されるがままになってくれた。
「・・ごめんなさい・・・あなたに負けました・・・」
たぶん、自分が言わねばならないほうだ。あんな無茶なことをしたのに、彰哉は、怒鳴りもせずに、謝ってくれた。本気で平伏したいと思ったのは、たぶん、そうしたい自分の気持ちの裏返しだ。この人に、従っていたいと思ったのだと気付いた。消えてもらっては困る。消えたら、二度と、黄龍の婿選びはできなくなる。直感で、そう感じた。
・・・・たぶん、これが一目惚れ・・・・・彰哉が私の背の君・・・・
厭世観を撒き散らしていても、美愛には優しい彰哉は、自分の時間を美愛にくれた。散歩したり、テレビを見たり、食事を作ってくれたり、そんな些細なことだけど、それでも、時間をくれたのだ。
・・・バカな私は、そんな彰哉を殺そうとした・・・・
煽られただけで、我を忘れた、あの瞬間が痛恨の瞬間だ。下手をすれば、彰哉は消えていた。ちゃんと頭ではわかっていて、煽られても冷静でいようとしていたのに、忘れたのだ。光球を受け入れるように手を差し出した彰哉の顔が忘れられない。まだ、十六年しか生きていないくせに、二百年以上生きている自分より、大人びていた。人間の寿命と、竜のそれと比べても、彰哉は、自分より年下になるはずなのに、自分に謝ってくれた。どちらが大人に近いのかと言われたら、彰哉のほうに違いない。
「・・・ごめんなさい・・・彰哉・・・」
ぽろぽろと涙が零れる。止まったはずなのに、また流れてくる。とりあえず、家に運んでしまおうと思ったら、海から、するりと人型が現れた。三叔父上だ。
「おまえらは、こんなところで戦うなんて、なんて無謀なことをしているんだ? 人間に見咎められたら、どうするつもりだ? 美愛。」
あの光球は大きすぎた。すぐに、西海白竜王の許へ報告されて、慌てて、周囲に気付かれていないか、確認させて、当人は、姪の許へ飛んできたのだ。叱りつけながら、海面から上がったら、姪は、目が腫れて泣いていた。
「まさか、殺したのか? 」
「・・違います・・・」
気丈で自尊心の高い姪が、そんな様子で泣いていれば、心配もする。確かに、人間の青年は息はしている。こちらは、怪我をしているのが、服についた血の染みでわかる。力比べをしたのだから、疲れ果てて寝ているというところだろう。だが、息が荒いのが気になって、額に手を置いたら熱かった。
「熱があるな。」
「え? 」
「傷からの発熱か、それとも、疲れからくるのか、まではわからないが、とりあえず、発熱しているぞ、美愛。どうする? 」
ここからなら、西海竜王の宮に運ぶことも出来る。しかし、婿ではないなら、人間の医師に任せるほうがいいだろう。それは、美愛の気持ちひとつで決まることだ。
「西海の宮へ運びます。」
「ほおう、婿は決まったのだな? 」
「決まりました。彰哉が、私の背の君です。」
きっぱりと、美愛は、そう言って立ち上がる。龍の身体というものは丈夫にできているから、あれぐらいのことなら怪我はしない。何度も、彰哉は、怪我や打撲の心配をしてくれたのだが、ある意味、無用のものだった。