遠くで暮らす母を訪ねる息子とその恋人
『遠くで暮らす母を訪ねる息子とその恋人』
その町は北の国の海沿いにあり、町は海と山に囲まれている。冬になると、海は荒れて狂った獣のように吼える。日本のどこにもある町と同じく、寂れ、賑わいがなく、町のあちこちで空き家が目立つ。
冬子はその町の外れで暮らしている。
三十歳のときに結婚し、夫の実家に入った。二十年前に夫に死なれた。それから女手一つで、一人息子のアキラを育ててきた。アキラは高校を卒業すると、音楽家になりたいといって東京の音楽大に進学した。それから十二年が経ったが、未だにプロになれない。が、その夢を捨てきれず、アルバイトをしながら、音楽活動をしている。
冬子は畑を耕しながら、一人暮らしをしている。
幸い夫の遺産や教師時代の蓄えもあって、生活には困らない。ミィーという虎猫を飼っている。小さい頃から冬子に育ててきた。もう四歳になる。
ある日の夜のことである。
あたりはしんと静まりかえっている。
ミィーは眠たそうな顔で冬子を見た。ミィーが小さな声で「ニャー」と鳴いても応えない。どうやら寝てしまったようだ。
柱時計がボーン、ボーンと鳴った。八時になったことを知らせたのだ。
冬子は目覚めた。「こんなところで寝たら、風邪でも引くね」とミィーに語りかけるように言った。ミィーは小さな声で「ニャー」と鳴いた。
冬子が寝床に入ると、ミィーも一緒に入ってきた。
眠ろうと思ったが、なかなか眠れない。
ふと、東京で暮す息子のアキラことを思い出した。
夜になると、寂しくて、つい思い出してしまうが、今は、女と一緒に暮らしていると聞いて、電話もしなくなった。二年前の夏、アキラが帰省したときに、同棲していることを聞いた。そのときのことを思い出し涙がこぼれた。
――二年前の夏のことである。
アキラが帰省した。三日後にアキラが帰ることにした。
帰り支度をしているアキラに向かって、冬子は「この町に帰ってくる気はないのかい?」と聞いた。
「戻ったって、仕事がないだろ?」
「農業だって、運転手だって、猟師だって、探せば、あるよ」
「そんな仕事は嫌だ」
小さいとき、母親思いの子だった。いつから心が離れたのか。つい最近のことか。それとも前のことか。
「一人で寂しいのか?」とアキラは聞いた。
「寂しくはないよ。知り合いもいるし、ミィーもいるし」と冬子は微笑んだ。
しかし、笑みの中に寂しそうにしている顔をあることをアキラは知っていた。知っているからこそ、目をそらした。
「いつか、ミュージシャンとして成功したら、東京に呼んでやるよ」
「東京には行かないよ。ここで三十年暮らした。もう離れられないよ」
アキラは応えなかった。しばらくして、
「俺、女と一緒に暮らしている。同じ夢がある」
「結婚するの? 名前は? どこの人?」と矢継ぎ早に聞いた。
「結婚は考えたことがない。名前はユウ、生まれは分からない。関西のどこか……。俺、そろそろ帰る」と言って家を出た。
「駅まで見送るよ」
「いいよ」と言ったが、冬子はついていった。
歩きながら会話らしい会話はなかった。ただ、息子の大きな背中を見て、あらためて、もう自分の目の中に入れても痛くなかった小さい頃は、遠い昔であることを思い知らされた。
小さな駅舎に着いた。
「もう帰れよ」とアキラが言った。
「列車がもうじき来るから」
駅舎の中は誰もいなかった。
待つ時間の長さをアキラは気にしていた。冬子もそのことが分かった。
待合室の時計が秒針を打つ音が妙に耳に響いた。
アキラは時計を見た。後、数分で列車が来る。
「体、どこも悪くないのか?」とアキラは言った。
「悪くはないよ」と冬子は応えた。
本当は嘘だった。耳が遠くなった。そして眼が霞む。何より、膝が時折痛む。医者は膝に水が溜まっているといった。それに高血圧で、ときおり頭が痛くなって横になることもある。しかし、変に心配させたくなかったから、そんなことは言わなかった。
「どこも悪くはないよ。それより、お前はちゃんとご飯食べているの?」
“子どもじゃあるまいし、そんなことを聞くなよ”と言わんばかりの顔をしたが、「食べている」とぶっきらぼうに答えた。
列車が来た。
アキラは乗り込んだ。
アキラが振り返ると、冬子は手を振っている。
列車が発車した。冬子は列車が見えなくなるまで手を振った。
――あれから二年が経った。
冬子は自分の衰えを感じている。歳をとるごとに、眼に見える形で老いが深まっていく。知り合いも、櫛の歯が一つ二つと落ちていくように、この世を去っていく。いつか自分の番がくる。それも遠くない時に。ずっと前はそれが怖くてたまらなかったが、今はどうでもいいような気がする。
ふと、月明かりが差しているのに、気づいた。カーテンを閉めるのを忘れていたのである。
明るくて、眠れない。
仕方なしに起きて閉めることにした。
傍らに眠るミィーを起こさぬように、そっと起きた。
隙間から空を眺めた。満月だった。
「綺麗」と思わず呟いた。
アキラとユウは板橋のアパートで暮らしていた。
愛というよりも同じ夢を抱く同士だった。二人、同じ大学に入って、夢を語り合っているうちに愛し合い、そして同棲した。
昼はどこかでバイトをして、夜、どこかのクラブで歌う。そして、深夜に戻り、倒れるように眠る。そんな貧しい生活の繰り返しであるが、いつか夢が実現するという夢があった。
しかし、この頃、アキラは夢を追うことに不安を覚えている。いつ、夢が実現するのか、皆目見当がつかない。ひょっとしたら、その日は訪れないのではないかという不安を覚えずにはいられないのである。
満月を見ながら、二人帰り道を歩いた。公園の近くでアキラは足を止めた。
「ユウ、お前の田舎はどこだった?」
「島根」
「島根って?」
「広島の先」
「遠いな」
「山形だって一緒でしょ?」
「確かに」と二人顔を見合わせて笑った。
「俺たち、もう一緒に暮らして三年になるけど、お互いの田舎を訪ねてないよね」
「そうね」
「お前、田舎帰ったことある?」
ユウは首を振った。
「もう帰るところはないよ。父も母も死んで、実家は兄貴夫婦が住んでいる。兄貴の嫁さんと仲が悪いから、帰りたくないの。それに子どもが出来たから、帰ると、嫌な顔をする」
「そうか、……でも墓参りはしたりしないのか」
「歌手として成功したら、ちゃんとする」と言って突然泣いた。
ユウが勝気で泣いたことはなかったので、アキラはびっくりした。しばらくして、ユウは泣き止んだ。
「アキラは?」
「俺か、田舎にお袋がいる」
「お母さん、寂しい思いしているんじゃないの?」
「そんなことはないよ。猫もいるし、近所にたくさんの知り合いもいるし、親戚もいるし、農作業しながら、楽しんでいる」
アキラは言った後で、本当にそうだろうかと思った。
「東京って、不思議な街ね。たくさんの人があまりにもいる。数え切れないほどのビルがある。電車に乗るでしょ。たくさんの人が乗っている。この中に、自分と似たような人間がいったいどれだけいるのか? なんて思ったりすることがあるの。アキラはない?」
「ないよ。そんなこと」とアキラは笑った。
その町は北の国の海沿いにあり、町は海と山に囲まれている。冬になると、海は荒れて狂った獣のように吼える。日本のどこにもある町と同じく、寂れ、賑わいがなく、町のあちこちで空き家が目立つ。
冬子はその町の外れで暮らしている。
三十歳のときに結婚し、夫の実家に入った。二十年前に夫に死なれた。それから女手一つで、一人息子のアキラを育ててきた。アキラは高校を卒業すると、音楽家になりたいといって東京の音楽大に進学した。それから十二年が経ったが、未だにプロになれない。が、その夢を捨てきれず、アルバイトをしながら、音楽活動をしている。
冬子は畑を耕しながら、一人暮らしをしている。
幸い夫の遺産や教師時代の蓄えもあって、生活には困らない。ミィーという虎猫を飼っている。小さい頃から冬子に育ててきた。もう四歳になる。
ある日の夜のことである。
あたりはしんと静まりかえっている。
ミィーは眠たそうな顔で冬子を見た。ミィーが小さな声で「ニャー」と鳴いても応えない。どうやら寝てしまったようだ。
柱時計がボーン、ボーンと鳴った。八時になったことを知らせたのだ。
冬子は目覚めた。「こんなところで寝たら、風邪でも引くね」とミィーに語りかけるように言った。ミィーは小さな声で「ニャー」と鳴いた。
冬子が寝床に入ると、ミィーも一緒に入ってきた。
眠ろうと思ったが、なかなか眠れない。
ふと、東京で暮す息子のアキラことを思い出した。
夜になると、寂しくて、つい思い出してしまうが、今は、女と一緒に暮らしていると聞いて、電話もしなくなった。二年前の夏、アキラが帰省したときに、同棲していることを聞いた。そのときのことを思い出し涙がこぼれた。
――二年前の夏のことである。
アキラが帰省した。三日後にアキラが帰ることにした。
帰り支度をしているアキラに向かって、冬子は「この町に帰ってくる気はないのかい?」と聞いた。
「戻ったって、仕事がないだろ?」
「農業だって、運転手だって、猟師だって、探せば、あるよ」
「そんな仕事は嫌だ」
小さいとき、母親思いの子だった。いつから心が離れたのか。つい最近のことか。それとも前のことか。
「一人で寂しいのか?」とアキラは聞いた。
「寂しくはないよ。知り合いもいるし、ミィーもいるし」と冬子は微笑んだ。
しかし、笑みの中に寂しそうにしている顔をあることをアキラは知っていた。知っているからこそ、目をそらした。
「いつか、ミュージシャンとして成功したら、東京に呼んでやるよ」
「東京には行かないよ。ここで三十年暮らした。もう離れられないよ」
アキラは応えなかった。しばらくして、
「俺、女と一緒に暮らしている。同じ夢がある」
「結婚するの? 名前は? どこの人?」と矢継ぎ早に聞いた。
「結婚は考えたことがない。名前はユウ、生まれは分からない。関西のどこか……。俺、そろそろ帰る」と言って家を出た。
「駅まで見送るよ」
「いいよ」と言ったが、冬子はついていった。
歩きながら会話らしい会話はなかった。ただ、息子の大きな背中を見て、あらためて、もう自分の目の中に入れても痛くなかった小さい頃は、遠い昔であることを思い知らされた。
小さな駅舎に着いた。
「もう帰れよ」とアキラが言った。
「列車がもうじき来るから」
駅舎の中は誰もいなかった。
待つ時間の長さをアキラは気にしていた。冬子もそのことが分かった。
待合室の時計が秒針を打つ音が妙に耳に響いた。
アキラは時計を見た。後、数分で列車が来る。
「体、どこも悪くないのか?」とアキラは言った。
「悪くはないよ」と冬子は応えた。
本当は嘘だった。耳が遠くなった。そして眼が霞む。何より、膝が時折痛む。医者は膝に水が溜まっているといった。それに高血圧で、ときおり頭が痛くなって横になることもある。しかし、変に心配させたくなかったから、そんなことは言わなかった。
「どこも悪くはないよ。それより、お前はちゃんとご飯食べているの?」
“子どもじゃあるまいし、そんなことを聞くなよ”と言わんばかりの顔をしたが、「食べている」とぶっきらぼうに答えた。
列車が来た。
アキラは乗り込んだ。
アキラが振り返ると、冬子は手を振っている。
列車が発車した。冬子は列車が見えなくなるまで手を振った。
――あれから二年が経った。
冬子は自分の衰えを感じている。歳をとるごとに、眼に見える形で老いが深まっていく。知り合いも、櫛の歯が一つ二つと落ちていくように、この世を去っていく。いつか自分の番がくる。それも遠くない時に。ずっと前はそれが怖くてたまらなかったが、今はどうでもいいような気がする。
ふと、月明かりが差しているのに、気づいた。カーテンを閉めるのを忘れていたのである。
明るくて、眠れない。
仕方なしに起きて閉めることにした。
傍らに眠るミィーを起こさぬように、そっと起きた。
隙間から空を眺めた。満月だった。
「綺麗」と思わず呟いた。
アキラとユウは板橋のアパートで暮らしていた。
愛というよりも同じ夢を抱く同士だった。二人、同じ大学に入って、夢を語り合っているうちに愛し合い、そして同棲した。
昼はどこかでバイトをして、夜、どこかのクラブで歌う。そして、深夜に戻り、倒れるように眠る。そんな貧しい生活の繰り返しであるが、いつか夢が実現するという夢があった。
しかし、この頃、アキラは夢を追うことに不安を覚えている。いつ、夢が実現するのか、皆目見当がつかない。ひょっとしたら、その日は訪れないのではないかという不安を覚えずにはいられないのである。
満月を見ながら、二人帰り道を歩いた。公園の近くでアキラは足を止めた。
「ユウ、お前の田舎はどこだった?」
「島根」
「島根って?」
「広島の先」
「遠いな」
「山形だって一緒でしょ?」
「確かに」と二人顔を見合わせて笑った。
「俺たち、もう一緒に暮らして三年になるけど、お互いの田舎を訪ねてないよね」
「そうね」
「お前、田舎帰ったことある?」
ユウは首を振った。
「もう帰るところはないよ。父も母も死んで、実家は兄貴夫婦が住んでいる。兄貴の嫁さんと仲が悪いから、帰りたくないの。それに子どもが出来たから、帰ると、嫌な顔をする」
「そうか、……でも墓参りはしたりしないのか」
「歌手として成功したら、ちゃんとする」と言って突然泣いた。
ユウが勝気で泣いたことはなかったので、アキラはびっくりした。しばらくして、ユウは泣き止んだ。
「アキラは?」
「俺か、田舎にお袋がいる」
「お母さん、寂しい思いしているんじゃないの?」
「そんなことはないよ。猫もいるし、近所にたくさんの知り合いもいるし、親戚もいるし、農作業しながら、楽しんでいる」
アキラは言った後で、本当にそうだろうかと思った。
「東京って、不思議な街ね。たくさんの人があまりにもいる。数え切れないほどのビルがある。電車に乗るでしょ。たくさんの人が乗っている。この中に、自分と似たような人間がいったいどれだけいるのか? なんて思ったりすることがあるの。アキラはない?」
「ないよ。そんなこと」とアキラは笑った。
作品名:遠くで暮らす母を訪ねる息子とその恋人 作家名:楡井英夫