秘密主義者は今日も
河瀬 優雨
私は朝からヘマをした。昨日あれほど担任がしつこく言っていた事なのに忘れただなんて、きっと怒られるに決まっている。妙な焦りを感じながら私は周りに目を向けた。ぐるりと教室を見渡すが、誰とも目が合わない。いや、存在自体認識されていないのだろう。私の事など気にする事もなく、楽しげにお喋りをする者達しかここにはいないんだった。その事に思い出されたように気付くと、急に冷めたように冷静になった。自分は馬鹿な上にKYで、性格が悪いんだと誰かに言われたことがある。それが事実だとしたら、誰もこんな奴を助けようとは思わないだろう。だけど、そんなことも言っていられない。何も今回が初めてではないのだ。図々しいと感じられるかもしれないが、クラスメイトの好ということで助けてくれるだろうと、自分に勇気を奮い立たせ宿題として出されていたプリントを抱えれば、比較的答えがあってそうな子のもとへと駆け寄った。満円の笑みをしてその一声をかけようとしたときだった。突然、横から何かが私にぶつかった。かと思えば、いつのまにか教室の床に私は押し倒されていた。目も瞑らず状況を見ていたから、ふざけていた男子が自分にぶつかり馬乗りになってしまったと分かった。が、ぶつかってきただろう男子は、その拍子に打っただろう足を擦りながら顔を上げ、私を視界に捉え、自分が陥っている状況を悟れば目を丸くして急いで私の上から退いた。面倒なことになった。案の定周りから冷やかしの声が上がる。ぶつかってきた男子はいろいろと否定の言葉を並べていた。まぁ別に私は悪くないからいっか…と意識をそれから逸らし、それより宿題をどうにかしようとしたところで、有り得ないことに先ほどの男子が私を罵倒し始めた。私の性格の悪さや、周りからの嫌われようを。折角陰で言われているだけで済んでいたことを、こんな大勢の前で曝しだされるとは。大した喧嘩も口論もないまま、ぎりぎりの所で引き下がることにどうにか押しとどめていた人間関係を、こんな男に粉々にされるとは…っ!私は宿題を抱えたまま、その場で立ち竦み茫然とした。何もかもが終わった気がした。もう、宿題どころではなくなった。視線だけ動かせば、周りの女子が、ヒソヒソとお得意の小話で笑いあったり、将又私の意図を悟ってか同情の眼差しを向けたりする者がこの事態を囲んで、観賞していた。もう、嫌だ。こんな、こんなクラス滅びてしまえ…!!
「すいませーん、優雨ちゃん…は…」
ガタッと教室の扉が揺れたかと思えば、控えめな女子の声が私を呼んだ。ふと、自然とそちらに視線を向ければ、そこにはかつて同じ中学で同じ部活だった時十由来(トキトオユラ)が目を丸くしていた。そうだ、この前、転校してきたんだっけ。いきなり現れた人物にぼんやりとそんなことを考えていると、由来は「お取込み中でしたかな…?」と一瞬誰もが目を奪われるだろう美しい顔を苦笑に滲ませながら頭を掻いた。「いやいやとんでもないっ」と私よりも周りの奴らが雰囲気を一遍させ喜んだようにそう言った。囲んでいた輪もいつのまにか崩れ、もう私の事など忘れてしまったかの様に由来に群がったり自分の作業に戻ったりお喋りを再開したりする者で別れていった。助かった。重たい溜息を吐いて、私は近くの机に寄り掛かった。本当にどうなるかとおもった。安心感に浸るも私は段々と内側が絶望に満ちていくのを感じた。今回避しても意味がない。先ほどのせいで周りとの溝が深くなってしまったことに変わりはないのだから…。
「ゆ、優雨ちゃん、優雨ちゃーんっ」
また呼ばれる声に顔を上げると、クラスから離れドアぎりぎりのところから由来が一生懸命こちらに向かって手招きしていた。よく見れば由来に群がってきた連中はいつのまにかいなくなっていた。いったいなんだというのだろう。のろのろと引き寄せられるように由来のもとに向かうと、「突然訪ねてごめんね」と先に謝られた。
「…久しぶりだね、どうしたの?」
「うん、ちょっと英語の教科書忘れちゃって…」
よかったら貸してほしいの!と目の前で手を合わせられた。自分よりも身長が高いのにその姿には微笑ましさが感じられた。私は断る理由もないのでいいよと答え自分のロッカーへと向かう。英語は今日一日中ないからいつ返しても構わないと告げると、いやいや忘れぬうちに返すよと笑顔で返された。ロッカーを開けがさごそと中を漁っていると、傍らに置いた私のプリントを由来が拾い上げた。これ、いつ出すの?と唐突に聞かれれば私は緊張した声で、しかしぶっきら棒に今日、と答えていた。しかし由来は、それを聞くや否やちょっと待ってて、とプリントを置いて踵を返したかと思えば小走りでその場を去ってしまった。一体なんだというのだと漸く探り当てた教科書を手に、また茫然と佇んでいると、由来がひょっこりと何個か離れた教室から出てきて私の方へと戻ってきた。
「はい。よかったらこれ使って」
差し出されたのは、答えの埋めてある由来のプリントだった。私がいいの?と問う前に、貸してくれるお礼と言われ、それを押し付けられた。私は黙ってそれを受け取った後、我に返ったように小さくありがとう、とお礼を言った。由来はいえいえとまた笑って、私から教科書をうけとればそれでは頂戴しますと両手で持って上へ掲げた後、手を振って自分の教室へと去って行った。
私はそんな彼女の姿を、なんとも言えぬ気持ちで手を振り
いつの間にか、笑顔で見送っていた。