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お父さんの仕事はありますよね!

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『お父さんの仕事はありますよね』

野村は同じ会社に二十五年間近く勤めていた。どこにもいる平凡なサラリーマンである。まだ五十歳というのに妻に先立たれ、今は独り身で寂しい生活を送っている。同じプロジェクトのメンバーに秋山というのがいる。まだ四十前で、重い病で入院した。人伝で、ガンと聞いていた。

 秋も半ばが過ぎ、もう少しすれば紅葉も始まろうという頃である。
その日は朝から何とも清々しい秋晴れ空が広がっていた。
 昼過ぎ、野村は仕事で顧客先をめぐっているうちに秋山が入っている大学病院の近くまで来た。
秋山が入院していることを思い出し、見舞うことにした。
病室に入ると、嬉しそうな顔をした彼は驚くほど痩せていた。まるでミイラのようだった。入院する前は太っていて、体型の話題になると、よく笑いながら、「メタボの秋山です」と笑って言った。そのことが思い出され、「元気そうだな」とは言えなかった。
野村が「近くまで来たので、見舞いに来た」と話すと、
秋山は微笑み、「ありがとう」と応えた。
 入院してどのくらい経つとか、家族は大変だねとかいったとりとめのない話をした後、沈黙が続いた。
居づらくなった野村が、「帰るよ」と言おうとしたら、「自分の仕事は、今、誰がやっている?」と聞いた。野村は言い難かったが、「長井君がやっている」と素直に答えた。
「また戻って同じ仕事ができるか?」と秋山は聞いた。
 その真意を測りかねて、野村は彼の顔を見た。それを察したのか、「まだ、やりたいことがある」と秋山は言った。
「そうか」と野村は呟くように言った。
「自分でも、かなりガンが進行していることは知っている。でも、このままじゃ終らない。何もかも中途半端だ。まだ仕事はやれる。いや、やりたい。働かないといけない。子供もまだ小さい」と秋山は付け加えた。
 子供がいない野村は何も言えなかった。愛する者もいなかった。この地上で独りぼっちだったのである。それゆえ誰かのために生きるようと思ったこともないし、またそういった心境もよく分からなかった。
「まだまだ仕事がしたい」と秋山は訴えるかのように繰り返していた。
「また来るよ」と野村は病室を出た。
病室の外にいた秋山夫人が野村に近寄って礼を述べた。廊下で話を聞いていたのだろうか、「夫はもう今の仕事に戻れないかと思います」と夫人は微笑んだ。
「あの人も分かっていると思います。けれど、それを認めるのができないのです。彼は会社人間です。その会社がなくなったら、きっと生きる希望を失うと思います。だから辞めさせないでください」と涙を流して訴えた。
 野村が秋山夫人に会ったのは、もう五年以上も前のことである。そのときは若々しく朗らかな印象であった。今は看病のせいか、やつれていて、無理やりほほ笑もうとすると逆に哀れさを誘うほど頬はこけている。
 野村に人事権はない。そのことは夫人も知っているはずだった。それなのに、なぜそんな話をしたのか理解できなかったが、ただ涙ぐむ夫人の姿に胸が締め付けられ、「分かりました」と答えざるをえなかった。秋山夫人は「お願いします」と深々と頭を下げた。

 一緒に酒を飲み交わす仲の戸田も野村と同様に独身だった。ただ彼の場合、独り者ではなく年老いた父母と暮らしている。野村は見舞った後で、戸田を飲みに誘った。戸田は快く応じた。飲みながら、野村は秋山のことを話した。
「秋山を見舞ったとき、ふと、自分の父のことを思い出してしまった。若いときに父もガンで死んだ。その頃はガンが不治の病だとは知らなかった。母親と一緒に看病したが、日に日に衰え、死の直前には、まるでミイラのように痩せ衰えてしまった。秋山もかなり痩せていて、なぜか父親の姿とダブってしまった」
 野村は暗に秋山の死をほのめかしたにも関わらず、戸田は表情を変えなった。彼はいつもそうだった。
「生は単なる偶然で死は必然だ。生を受けたものは必ず死ぬ。そのことを誰も分かっているが、それでも肉親は辛い。まして本人なら……」と戸田は口ごもった。戸田はビールを飲み干すとまた続けた。
「俺の家も深刻だよ」とふざけるような笑みを浮かべた。しかし、彼の目は少しも笑っていない。
「両親もずいぶんとぼけてきた。あと十年もしないうちに、介護を必要とする。先を考えると気が滅入ってくる」
 野村は、「お前はまだいいよ。いつか独りぼっちになるかもしれないが、今はそうではない。 俺はずっと前から、そして、これからも独りぼっちだ」と言うと、
「結婚すればいいじゃない」と戸田は言った。
「もう、そんな年じゃないない」
「何かやりたいことがないのか?」
 野村は少し考えた。
「これと言ってやりたいことがあるわけじゃないけど、暖かいところで暮らしたいな。日本海側は嫌だ」
そう言いながら、故郷の冬は思った。
「小さい頃、たくさん雪が降った。冬になると、来る日も来る日もふぶいた。今は雪があまり降らないが、それでも曇りの日が多く、それだけで陰気な気分になる。だから、老後は暖かい国で過ごす。それが将来の夢かな。一緒に暖かいシンガポールとか行かないか?」
「シンガポールでもタイでも、どこでも行ってください。僕は老いた親がいるから、介護をしないといけない。だから、この地から離れるわけにはいかない」と戸田は答えた。
 野村には、戸田がそう答えているのは分かっていたが、死ぬまで独りぼっちだと思うと、寂しかった。
「いかなる哲学、いかなる宗教も、生も死も満足に説明はできない。だからといって、それを単純に偶然と片付けるには重過ぎる。その重さに、誰もがあえいで生きている」と戸田は言った。
「そんな高尚なことなんか考えたことはない。ただ、時折、どう生きたらいいのか分からなくなることがある」と野村は呟いた。

 秋山と一緒にやっていたプロジェクトは順調に進んだ。秋山がいなくなったときは、『このプロジェクトは崩壊する』と言う者が何人もいたが、さすが一ヶ月も経つと、そんなことを誰も口にしなくなった。のみならず、今では秋山がプロジェクトの発足時に関わっていたという痕跡さえ跡形もなく消えた。秋山の机はいつの間にか荷物置場になり、あたかも秋山はもう必要ないといっているようにみえる。野村は秋山が自分の居場所を心配していたことを思い出し、「おい、ここは荷物置場じゃないぞ!」と近くにいる若いメンバーに怒鳴るように注意すると、彼は、「いいじゃありませんか、今は誰も使っていませんよ」とふてくされたような顔をして反論した。「秋山が戻ってくるかもしれない」と言おうとしたが、言葉にはならなかった。代わりに、「そういう問題じゃない!」と怒鳴り声を上げた。さっきまで和んでいた雰囲気が一瞬で張り詰めた。視線が自分に注がれたことに気づいた野村は少しトーンを落とし、「そういう問題じゃないだろ」と繰り返した。

 野村が秋山を見舞って三ヶ月後、初冬の休日の昼下がりのことである。
川岸にある小さな公園で、偶然、まだ小さい娘の手を引いていた秋山夫人と出会った。秋山夫人が深々と挨拶したので、野村も足をとめ挨拶した。
「どうですか?」と聞くと、