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雪のつぷて10

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病院の建物の前にある居酒屋は、どこにでもあるありきたりなチェーン店だった。赤い暖簾が雪を孕んではためいている。
 扉を開けると、カウンターにもテーブルの人の姿はなく、奥まった座敷に座っている柿崎が、手を振っている。客は病院の連中だけだった。
 テーブルには取り皿と箸が並んでいるだけで、料理も飲み物もまだ用意されていなかった。
 幹事は若い薬剤師だった。驚いたことに、その隣に美野里が座っていた。今日もまた吹き出物を気にして、俯いている。しかもそこだけあかりを灯されていないのか、どんよりと薄暗い。思わず天井に顔を向けたが、安っぽいどこの家庭でも見られる照明器具がしっかりとついている。
「新城くんには、ちゃんと飲み会だって言ってきたかい」
 届けられた瓶ビールを握り、泡をたてないようにグラスに落としていく。グラスを斜めに傾けた忠彦はもちろんですよ、と笑い飛ばした。
 柿崎は何も知らない。美野里が余計なことを言ってさえいなければ。横目で眺めると、美野里は肩をすぼめ、居心地が悪そうに身を縮めている。頼んだのはウーロン茶らしい。氷がぎっしりと詰まったウーロン茶を、舐めるようにして飲んでいる。
 薬局の飲み会というものに、忠彦はときどき誘われる。真美のことを、柿崎が可愛がっていた。そのせいかどうかはわからないが、何かあるとすぐに声をかけられ、いつも真美の話しを柿崎は聞きたがった。料理はどうかとか、掃除はどうか。いつだったかかなり泥酔したときには、夜のほうはどうなんだとかなり真顔で聞かれたこともある。取引先の相手でなければ、もう二度と会わない相手になったが、そうもできなかった。酒の上の話だからと、言い聞かせた。そうしなければ、付き合えない。何しろ市内にある総合病院はたった一つ。逃がしてしまうと、忠彦の会社での立場が危うくなっていく。いやな噂もあるには、あった。妻子に出て行かれた柿崎と真美に関係があったという、とんでもない噂だった。無意味だとわかりきっていながら、直接真美に聞いたこともある。当然否定されたが。
 テーブルには魚介の鍋が用意された。鍋からはカニの足が飛び出している。身が詰まっているとは思えないくらい、細い足だった。
「新城くんは鍋もつくってくれるんだろう」
 まんまるい、言葉通りのだんごっ鼻から、勢いよく息を吐き出した。
「まあ、たまにはありますよ」
「二人で鍋も淋しいだろう。今度、病院の連中も呼んでやってくれるよう頼んでくれよ。みんなで食べる鍋はうまいよ」
 そうして火が通ったのかどうかもよくわからない、細いカニの足を、殻ごと口に入れ、歯をたてて噛んでいく。噛み切れるわけもないカニは、歯型をつけられ、つぼに捨てられた。
 口を開けば真美のこと聞きたがる柿崎に閉口して、トイレに立った。人が一人通ればそれだけで塞がれてしまう廊下の両脇は、やっと客がぽつりぽつりと来店し、それぞれのテーブルを陣取っていた。
 トレイにぎっしりとドリンクを積んだ店員と擦れ違うと、その後ろから美野里がふらりと現れた。それはまるで糸を垂らした蜘蛛の動きによく似ていた。美野里は唇に丸めた手を当て、笑みを零した。
「大変ですね。ずっと柿崎さんに真美のことを聞かれていたんでしょう。あの人、真美のこと凄く気に入ってたから。でも真美だけじゃないんですよ。あの人、次から次へとお気に入りをつくるのが好きなんです。自分よりもずっと若い女の人。だから奥さんにも逃げられちゃうんですよ。奥さんの目の前で平然とやるんだもの」
 咽の奥を潰しながら、美野里はおかしくてたまらないといったふうに声をたてた。
 柿崎は職場結婚だったと聞いていた。学校を卒業したばかりの看護婦をなりふりかまわず自分のものにしたというのは、今でも有名な話しだった。それ以上に、妻が子供を連れて出て行ってしまったのも、有名だった。忠彦の耳にも、逃げられたときの話しが先に入ってきた。
「君もお気に入りになりたいの」
「そうじゃないですよ。ただ真美のほかにもお気に入りはたくさんいるって、そういうことが言いたかったんです」
「それはどんな意味で取ればいいの? だから真美のことをいくら聞いてきても気にするな、という意味合いでいいのかな」
「そうですね。でも、もしも、ですよ。もしもあの人と真美が、今でもこっそり、あなたに隠れて会っていたとしたらどうしますか?」
「あり得ないね、そんなことは」
「真美を信用してるってことですか」
「そうだよ」
「でも、あなたが仕事に行っている間は何をしているのかわからないでしょう。心配じゃあないんですか。女はその気になれば、お金なんかなくっても遊びにいくことはできるんですよ」
「君ね、昨日も言ったけど、夫婦のことに口出しするのはやめておいたほうがいい。そんなことしたって、君には何の得もないんだからね」
 行く手を塞いでいた美野里の肩を、手の平で押しのけていく。肉というものがついているのか疑わしくなるその肩は、骨に直接触れたみたいに固い。
 トイレで、放尿した。美野里の笑った顔が浮かぶ。その笑いと同様、彼女の行動は忠彦の理解を超えていた。
 宴会の場に戻ると、美野里の姿がなくなっていた。後ろにかけられていた毛玉のついたコートもなくなっている。
 焼酎のグラスに手を伸ばすと、溶け切った氷が、グラスの表面に水滴をいくつもつけていた。滑った手から落ちたグラスが転がり、透明な液体をばら撒いていく。
「なんだ。もう酔ったのか」
 柿崎が笑った。
 その笑いが、何故か美野里の顔と重なっていった。
カラオケに行こうと誘われたが、それを丁重に断わって、駅へと向かう。車は職場に置いてきてある。どこかで酔いをさますために、コーヒーでも飲もうと、あたりを物色しながら歩いた。
 雪のせいで明るい夜だったが、寒さは昼間よりも倍増している。
「忠彦さん」
 か細い声が、白い雪に埋もれた建物の間から聞こえてきた。美野里が立っていた。例によってコートには毛玉がはびこっていた。
「ああ、途中で帰ったのかと思ってたよ。姿が見えなかったから」
 止まるつもりもなく、擦れ違いざまに言った。慌ててついてくる美野里の靴の底が雪を踏む。
「いやだわ。ずっといましたよ、わたし。途中で席を変わったんです」
 足は止まらなかった。
「そうなんだ。カラオケには行かなかったの?」
「わたし、カラオケ苦手なんです」
 そうだろう。カラオケどこかボーリングにもビリヤードにも興味がないだろう。それだけじゃない。世の中にある全ての遊びには興味も関心もないように見えた。
「どこかで、お茶でもしませんか。どうせそのままじゃ車の運転もできないでしょう。付き合います、わたし」
 やっと、足が止まった。くるりと反転していた。美野里の顔の前で、白いわっかがつくり出されている。美野里は笑っていた。目を細めて、唇を引っ張って。
 こめかみに鋭い痛みが走る。
「君は真美の友達だろう。親友と言ってもおかしくないほどの付き合いがあるんだろう」
「そうですけど」
 首に巻きつけたマフラーに、美野里は顔を埋めていく。
「そんな大切な友達の夫を誘って、君に何か利点はあるの」
作品名:雪のつぷて10 作家名:李 周子