雪のつぶて9
体についた沙織の香りを酒で誤魔化してからマンションを出た。雪は少しだけ緩んでいるが、視界は相変わらず悪い。
車についているデジタル時計は、零時すぎ。微妙な時間。真美が寝ている確立は五分五分。
アパートの駐車場に車をとめ、降り続く雪の空間に身を投じていく。窓に明かりが灯っていた。
真美が、まだ起きている。
沙織の体から伝わった熱さが、急速に冷めていく。重たくなった心と体を引きずるようにして、コンクリートで覆われた階段をあがっていった。
「どこに行ってたのよ! 病人を置き去りにして出かけるなんて考えられない」
ドアを開けた途端、悲鳴に似た真美の声が響いた。出かけたときよりもその顔はより一層浮腫み、細い目が充血していた。
「寝ててよかったんだよ」
狭い玄関の前に立ち塞がった真美の体を押しのけて、体と壁の間をすり抜けていく。温まっている部屋の中にいても、体の奥底から湧き出す冷たさが足元から這い上がってくる。
「寝られやしないわよ!」
忠彦の腕を掴んだ真美の尖りきった声が、壁という壁に当たって反射する。
「電話が鳴っぱなしなのよ。ずっと、ずっと。朝、あなたが出て行ってから、帰って来るまで。眠れるわけないでしょう。なんとかしてよ」
掴んだ忠彦の腕を真美は激しく揺さぶる。床に転がったマグカップは出て行ったときと同じ状態で投げ出され、テーブルには真美が通っている心療内科から処方された薬が散らばっていた。
無言電話に悩まされ、不眠と疲労が重なり、とうとう睡眠剤を服用するようになっていた。そのほかにも抗うつ剤が処方されている。
うつ病だと言われたわよ、とうとう、わたし。
何ヶ月か前、初めて心療内科を訪れた真美は、その夜、忠彦を目掛けて薬の袋を投げつけた。薬袋に真美の名前はなく、番号が記されていた。昔の精神科ではプライベートを守るために名前ではなく、番号で記すことが多かったが、今でも続けているところがあるのは珍しかった。もちろん診察券にも、名前は書かれない。明記されるのは、家畜に与えられる番号だけ。
わたしに名前はないそうよ。
自虐的に真美は言い、その夜は朝まで泣き続けていたようだったが、忠彦は知らん顔を決め込んだ。次の日も仕事だった。それだけの理由で。
「薬を飲んで、早く寝ろよ」
散らばった薬を横目で見ながら、真美の手を振り払う。けれど真美は、どこからそんな力が湧き出すのか不思議に思う強さでもう一度忠彦の腕を握り、直線的な視線を投げ付けている。その瞳に、今にも溢れそうに涙が盛り上がっていた。
「飲んだの? お酒臭いわ」
こんな顔も見飽きていた。真美の涙なんか見すぎていて、なんの価値もなかった。真美はあまりにも涙を見せすぎたのだ。どんなに綺麗な涙でも、毎日のように見せられては、その価値が半減する。
「友達とね」
「嘘よ!」
握り締めた手の甲に、青白い血管が浮かび上がる。
「由美子と会ってたの?」
「なんでおれが、由美ちゃんと会うんだよ、そんなわけないだろう」
「嘘つかないでよ、由美子と会ってたんでしょ。だからこんなに遅いんでしょ。わたしにはわかるわ。あの子は今でもあなたが好きで、わたしから忠彦を奪い取ろうとしているのよ。電話をかけてきているのも、あの子よ。だから番号を変えても、すぐにわかっちゃったのよ。そうに決まってる」
真美は決め付けている。無言電話の犯人は由美子だと言い張り、忠彦を取ろうとしているという。繰返して言う。毎晩のように、顔を合わすたびに。なんの根拠もそこにはないというのに。
真美の頬が、小刻みに痙攣する。
「そんなわけないだろう。由美ちゃんは、卒試と資格試験の勉強に追われているよ。資格試験だって、今度の日曜日じゃないか。だいたい由美ちゃんはおまえの妹だろう。そんなわけないよ」
「妹だからわかるのよ! あの子はなんでもわたしが持っているものを欲しがるのよ。今までだってずっとそうだったわ。これからだってそうなのよ。あの子は、そういう子なのよ」
地団駄を踏んで真美は叫ぶ。その声が、忠彦の体を冷やしていく。心も体も。
忠彦は両手を持ち上げ、手の平をふらふらと振った。
「いい加減にしてくれよ。自分の妹なんだからさ」
そう言いながら、沙織が放った一言が気になっている。心の奥底に引っかかっている。
あの子、日替わりメニューなのよ。
誰の言葉も信じられない。信じたくはない。少なくとも、忠彦の瞳に映る由美子はいつも快活で元気いっぱいの女の子だった。
「もう寝るから。薬を飲んだなら、おまえも眠れるだろう」
「眠れないし、寝るつもりもないから」
踵を返した真美の姿がキッチンに消えると、コンロの火が付く音がして、レンジが回り始めた。
一心不乱に料理をする真美は唇を固く結び、皿を取り出し、盛り付けていく。
「さあ、食べて頂戴。あなたが好きなものばかりをつくったわ」
オープンキッチンのテーブルに並べられたのは、とろけたロールキャベツ、炭に成り果てたハンバーグ、野菜が溶け切ったコンソメスープ。
「昨日の分もあるのよ。忠彦のためにつくったんだから、あなたが食べて。忠彦、わたしの料理、おいしいって褒めてくれたでしょう。世界一だと言ってくれたじゃない」
立ち尽くす忠彦の胃の底から、酸っぱい液体がせりあがってきた。沙織の家で口にしたのは、唯一の料理だと沙織が主張したスティックサラダと冷凍ピザ。後は、酒。吐き出せるものといえば、酒くらいのものだろう。忠彦は口元を覆った。
「食べて頂戴。忠彦のためにつくったんだから」
両手を腰に当てた真美は視線をずらさず、忠彦の次の行動を待っている。
「外で済ませたよ。今夜はもう食べられない。食べたくても、食べられないんだ。シャワーを浴びて、もう寝るよ」
逃げるようにバスルームに駆け込んだ。背中に聞こえてきた。真美の声。
卑怯者、逃げればいいと思ってるんだから!
耳を塞ぎ、シャワーを出す。
真美の料理を褒めちぎったのは、まだ付き合って間もない頃だった。一人暮らしをしていた忠彦には、コンビニの弁当や外食に飽きていた。料理を褒めたのは、それだけの理由だった。
翌朝、支度を済ませ忠彦がリビングに行くと、昨夜つくられた料理と薬袋がそのままに置かれ、床は写真で埋められていた。写真が散らばった床に座り込んだ真実は背中を丸め、忠彦には聞こえない言葉を呟いている。その聞こえない声に混ざって、紙を切るシャープな音が響いた。
「何やってるんだ、真美、どうしたんだ」
暖房も入れていないリビングで、忠彦の体が震え上がった。
「何やってるんだ」
写真を掻き分けて真美の肩を抱くと、その手には銀色のはさみが握られ、鈍い光を放っていた。真美の膝には、切裂かれた二人の写真がのっかっている。結婚式の写真だった。
「何やってんだ、おまえ」
はさみを奪い取ると、忠彦は遠くに放った。くるくると円を描きながら、壁に当たるまで回り続けた。
「嘘よ、こんなの。全部幻よ。ばかみたい。お金かけて、こんな式なんかやっちゃってさ」
うっすらと涙が浮かび上がっている真美の瞼が腫れあがっていた。
車についているデジタル時計は、零時すぎ。微妙な時間。真美が寝ている確立は五分五分。
アパートの駐車場に車をとめ、降り続く雪の空間に身を投じていく。窓に明かりが灯っていた。
真美が、まだ起きている。
沙織の体から伝わった熱さが、急速に冷めていく。重たくなった心と体を引きずるようにして、コンクリートで覆われた階段をあがっていった。
「どこに行ってたのよ! 病人を置き去りにして出かけるなんて考えられない」
ドアを開けた途端、悲鳴に似た真美の声が響いた。出かけたときよりもその顔はより一層浮腫み、細い目が充血していた。
「寝ててよかったんだよ」
狭い玄関の前に立ち塞がった真美の体を押しのけて、体と壁の間をすり抜けていく。温まっている部屋の中にいても、体の奥底から湧き出す冷たさが足元から這い上がってくる。
「寝られやしないわよ!」
忠彦の腕を掴んだ真美の尖りきった声が、壁という壁に当たって反射する。
「電話が鳴っぱなしなのよ。ずっと、ずっと。朝、あなたが出て行ってから、帰って来るまで。眠れるわけないでしょう。なんとかしてよ」
掴んだ忠彦の腕を真美は激しく揺さぶる。床に転がったマグカップは出て行ったときと同じ状態で投げ出され、テーブルには真美が通っている心療内科から処方された薬が散らばっていた。
無言電話に悩まされ、不眠と疲労が重なり、とうとう睡眠剤を服用するようになっていた。そのほかにも抗うつ剤が処方されている。
うつ病だと言われたわよ、とうとう、わたし。
何ヶ月か前、初めて心療内科を訪れた真美は、その夜、忠彦を目掛けて薬の袋を投げつけた。薬袋に真美の名前はなく、番号が記されていた。昔の精神科ではプライベートを守るために名前ではなく、番号で記すことが多かったが、今でも続けているところがあるのは珍しかった。もちろん診察券にも、名前は書かれない。明記されるのは、家畜に与えられる番号だけ。
わたしに名前はないそうよ。
自虐的に真美は言い、その夜は朝まで泣き続けていたようだったが、忠彦は知らん顔を決め込んだ。次の日も仕事だった。それだけの理由で。
「薬を飲んで、早く寝ろよ」
散らばった薬を横目で見ながら、真美の手を振り払う。けれど真美は、どこからそんな力が湧き出すのか不思議に思う強さでもう一度忠彦の腕を握り、直線的な視線を投げ付けている。その瞳に、今にも溢れそうに涙が盛り上がっていた。
「飲んだの? お酒臭いわ」
こんな顔も見飽きていた。真美の涙なんか見すぎていて、なんの価値もなかった。真美はあまりにも涙を見せすぎたのだ。どんなに綺麗な涙でも、毎日のように見せられては、その価値が半減する。
「友達とね」
「嘘よ!」
握り締めた手の甲に、青白い血管が浮かび上がる。
「由美子と会ってたの?」
「なんでおれが、由美ちゃんと会うんだよ、そんなわけないだろう」
「嘘つかないでよ、由美子と会ってたんでしょ。だからこんなに遅いんでしょ。わたしにはわかるわ。あの子は今でもあなたが好きで、わたしから忠彦を奪い取ろうとしているのよ。電話をかけてきているのも、あの子よ。だから番号を変えても、すぐにわかっちゃったのよ。そうに決まってる」
真美は決め付けている。無言電話の犯人は由美子だと言い張り、忠彦を取ろうとしているという。繰返して言う。毎晩のように、顔を合わすたびに。なんの根拠もそこにはないというのに。
真美の頬が、小刻みに痙攣する。
「そんなわけないだろう。由美ちゃんは、卒試と資格試験の勉強に追われているよ。資格試験だって、今度の日曜日じゃないか。だいたい由美ちゃんはおまえの妹だろう。そんなわけないよ」
「妹だからわかるのよ! あの子はなんでもわたしが持っているものを欲しがるのよ。今までだってずっとそうだったわ。これからだってそうなのよ。あの子は、そういう子なのよ」
地団駄を踏んで真美は叫ぶ。その声が、忠彦の体を冷やしていく。心も体も。
忠彦は両手を持ち上げ、手の平をふらふらと振った。
「いい加減にしてくれよ。自分の妹なんだからさ」
そう言いながら、沙織が放った一言が気になっている。心の奥底に引っかかっている。
あの子、日替わりメニューなのよ。
誰の言葉も信じられない。信じたくはない。少なくとも、忠彦の瞳に映る由美子はいつも快活で元気いっぱいの女の子だった。
「もう寝るから。薬を飲んだなら、おまえも眠れるだろう」
「眠れないし、寝るつもりもないから」
踵を返した真美の姿がキッチンに消えると、コンロの火が付く音がして、レンジが回り始めた。
一心不乱に料理をする真美は唇を固く結び、皿を取り出し、盛り付けていく。
「さあ、食べて頂戴。あなたが好きなものばかりをつくったわ」
オープンキッチンのテーブルに並べられたのは、とろけたロールキャベツ、炭に成り果てたハンバーグ、野菜が溶け切ったコンソメスープ。
「昨日の分もあるのよ。忠彦のためにつくったんだから、あなたが食べて。忠彦、わたしの料理、おいしいって褒めてくれたでしょう。世界一だと言ってくれたじゃない」
立ち尽くす忠彦の胃の底から、酸っぱい液体がせりあがってきた。沙織の家で口にしたのは、唯一の料理だと沙織が主張したスティックサラダと冷凍ピザ。後は、酒。吐き出せるものといえば、酒くらいのものだろう。忠彦は口元を覆った。
「食べて頂戴。忠彦のためにつくったんだから」
両手を腰に当てた真美は視線をずらさず、忠彦の次の行動を待っている。
「外で済ませたよ。今夜はもう食べられない。食べたくても、食べられないんだ。シャワーを浴びて、もう寝るよ」
逃げるようにバスルームに駆け込んだ。背中に聞こえてきた。真美の声。
卑怯者、逃げればいいと思ってるんだから!
耳を塞ぎ、シャワーを出す。
真美の料理を褒めちぎったのは、まだ付き合って間もない頃だった。一人暮らしをしていた忠彦には、コンビニの弁当や外食に飽きていた。料理を褒めたのは、それだけの理由だった。
翌朝、支度を済ませ忠彦がリビングに行くと、昨夜つくられた料理と薬袋がそのままに置かれ、床は写真で埋められていた。写真が散らばった床に座り込んだ真実は背中を丸め、忠彦には聞こえない言葉を呟いている。その聞こえない声に混ざって、紙を切るシャープな音が響いた。
「何やってるんだ、真美、どうしたんだ」
暖房も入れていないリビングで、忠彦の体が震え上がった。
「何やってるんだ」
写真を掻き分けて真美の肩を抱くと、その手には銀色のはさみが握られ、鈍い光を放っていた。真美の膝には、切裂かれた二人の写真がのっかっている。結婚式の写真だった。
「何やってんだ、おまえ」
はさみを奪い取ると、忠彦は遠くに放った。くるくると円を描きながら、壁に当たるまで回り続けた。
「嘘よ、こんなの。全部幻よ。ばかみたい。お金かけて、こんな式なんかやっちゃってさ」
うっすらと涙が浮かび上がっている真美の瞼が腫れあがっていた。