春時雨に染まる眼鏡
ごめんなさい。
ひたすら謝ります。それしか言葉がわかりません。ただ、ごめんなさい。
悔やんでも悔やみきれないのです。私達の今まで積み重ねてきたものは一体何だったのか。こうならざる負えなかった私の心の動き等所詮誰にもわかる筈がないのです。脈絡がないように見えて実は深い所で根を広く這って繋がっていたのです。なにか生まれでる言葉がと待ってもみたのですが、疲労感を露にするような溜息だとか疲れただとかしか湧いてこないのです。それらの言葉は一言で表すにはあまりに情も何もない言い訳になるような気がします。ですので私は、敢えて何も、なにも言いませんでした。いいえ。なにも言えませんでした。
彼のかけている、かっきり感じの良い長方形に象られた眼鏡のレンズにまるで美しく散らばる水銀色の雫を見つめながら、私は胸の中が漂白されていくような感覚がしました。雷鳴が轟、桜の花弁がひんやりと冷たく力強い雨滴に落とされて車の屋根に小太鼓のような音と共に降り注いできました。
彼は黙ってその無精髭の生えかかった横顔を真っ直ぐに前方に向けたまんま巻きたばこを吸っていました。乾いた唇から勢いよく吹き出される半透明の煙がフロントガラスに打っ付かり名残惜しそうに侘しい香りへと変色していくのを私はただぼんやりと眺めていました。不思議と激しい衝動も強い愛情も焦燥感ですらなんの感情も沸き起こってはきませんでした。ただ彼の姿を映している眼球の表面が乾いているような不快感を僅かに覚えただけでした。
もうどうしようもないのだ。私は彼のやる事もなく膝に置かれた片手を触る気力もないのだから。そんな風になってしまった自分が情けなくも思いました。かつてはいくら拒否されようと一心に気持ちのままに彼に体当たりして行き、この気持ちは変わらないと自信を持って豪語出来ていたくせに。彼こそが運命の相手だと、甘い感情に溺れていたくせに。そしてようやく彼がこっちを向いたのに。望んでいた事だった筈なのに・・・
それとも実現してしまって今の形は私が望んだのとは実は全く違った形だったのかもしれません。私は彼との穏やかではない付き合いの中で諦めと言う言葉を知らず知らずのうちに体得してしまったのです。諦めと言う思いが全身を支配するのにさして時間もかからなかったように思います。諦めと言う環境の中で自然と妥協して行ってしまった彼への望み。それを根本では望まない形でも受け入れようとしてしまった私と、受け入れたくなくて本当の自分の望みを掲げていたかった私。来る日も来る日も自分自身との葛藤。それにばかりかまけてしまい、現実の彼の変化を見る事が出来ないままに葛藤に疲れた私の気持ちは頑なに防衛本能に切り変わってしまったのです。
疲れた。しんどい。嫌だ。辛い。それら呪いの言葉を縄のように結って心に縛り付けてしまった私にはもはや彼の抱擁も口づけも、彼の感触そのものですら入り込む余地がなくなってしまったのです。あんなに欲していた彼の体温ですら、鼻の奥がツンとしてしまう物悲しく虚しい気持ちを呼び起こす効果しか生まなくなってしまったのです。こんな私に一番落胆しているのは、結果嘘つきになってしまった私でした。結局は押しつぶされそうになって自己防衛機能を発令してしまった私自身でした。私には彼を思い遣れ得る言葉等を口から紡ぎ出して優しく彼にかけてあげられる資格すらなくなってしまったのです。
気付くと彼はレンズに二重に映し出される反射する景色の奥に潜む静かな目でじっと私を見つめていました。私とその後ろの窓ガラスに映る揺さぶられる桜の大木の枝を二重露光のように投影した彼の眼差しは、なにかを待っているようにも様子を伺っているようにも見えるのでした。私は思わず目を逸らしました。彼の目に問いただされるのが怖かったのです。ハッキリとなにかを答えなければいけない事を恐れたのです。私の望んでいる事は、考えている事は人の道を大きく外れている事だから。決して望んではいけない結果的に他人が不幸になる事だから。そんな事を口になどしたくもありません。諦めで彼への愛情まですり減らしてしまった私は二度とそんな事を口にしてはいけないのです。屋根を叩く雨の音が激しくなってきました。けれど、奇妙な事には窓の外は明るく彼方には朝日のような日差しまで眩しく射し込んでいるのです。狐の嫁入りよりも激しく美しい空模様に白い花弁はそれでも悲しみを訴えるように次々とたたき落とされ、辺り一面に張り付いていくのです。また雷鳴が聞こえました。
「聞いてる?」
彼が苛立たし気に聞いてきました。いけない。また私はぼんやりしている。
フロントガラスに弾かれた水滴が、戸惑いながらも他の雫と混じり合い重量を大きくして加速しながら次々落下してはまたその形をなくしていく様にただ魅入られてしまったのか、そこに自分の無気力な気持ち模様を見ているのかどちらともわからず私は軽く隙間のできた歯間のその奥に潜むたっぷりと憂鬱に濡れて死んだように横たわる舌が僅かにでも身動きをして、なにかしらの言葉の水滴を飛び散らせてくれる事を待ちました。
「 ・・・上昇気流で」
「なに?」
流れ落ちる水滴の量は多くなり、その勢いを増して目で追っていくのもやっとの状態でした。 ああ、目が回る。
「雷 が・・・」
「・・・もういい。俺、トイレ行ってくるから」
そう言うと彼は雨の降りしきる明るい外に颯爽と扉を閉めて出て行ったのです。残されて、それでも何処かほっと息をついてしまう私の耳には彼が苛立たし気に閉めた扉の音だけが反響していました。
ひたすら謝ります。それしか言葉がわかりません。ただ、ごめんなさい。
悔やんでも悔やみきれないのです。私達の今まで積み重ねてきたものは一体何だったのか。こうならざる負えなかった私の心の動き等所詮誰にもわかる筈がないのです。脈絡がないように見えて実は深い所で根を広く這って繋がっていたのです。なにか生まれでる言葉がと待ってもみたのですが、疲労感を露にするような溜息だとか疲れただとかしか湧いてこないのです。それらの言葉は一言で表すにはあまりに情も何もない言い訳になるような気がします。ですので私は、敢えて何も、なにも言いませんでした。いいえ。なにも言えませんでした。
彼のかけている、かっきり感じの良い長方形に象られた眼鏡のレンズにまるで美しく散らばる水銀色の雫を見つめながら、私は胸の中が漂白されていくような感覚がしました。雷鳴が轟、桜の花弁がひんやりと冷たく力強い雨滴に落とされて車の屋根に小太鼓のような音と共に降り注いできました。
彼は黙ってその無精髭の生えかかった横顔を真っ直ぐに前方に向けたまんま巻きたばこを吸っていました。乾いた唇から勢いよく吹き出される半透明の煙がフロントガラスに打っ付かり名残惜しそうに侘しい香りへと変色していくのを私はただぼんやりと眺めていました。不思議と激しい衝動も強い愛情も焦燥感ですらなんの感情も沸き起こってはきませんでした。ただ彼の姿を映している眼球の表面が乾いているような不快感を僅かに覚えただけでした。
もうどうしようもないのだ。私は彼のやる事もなく膝に置かれた片手を触る気力もないのだから。そんな風になってしまった自分が情けなくも思いました。かつてはいくら拒否されようと一心に気持ちのままに彼に体当たりして行き、この気持ちは変わらないと自信を持って豪語出来ていたくせに。彼こそが運命の相手だと、甘い感情に溺れていたくせに。そしてようやく彼がこっちを向いたのに。望んでいた事だった筈なのに・・・
それとも実現してしまって今の形は私が望んだのとは実は全く違った形だったのかもしれません。私は彼との穏やかではない付き合いの中で諦めと言う言葉を知らず知らずのうちに体得してしまったのです。諦めと言う思いが全身を支配するのにさして時間もかからなかったように思います。諦めと言う環境の中で自然と妥協して行ってしまった彼への望み。それを根本では望まない形でも受け入れようとしてしまった私と、受け入れたくなくて本当の自分の望みを掲げていたかった私。来る日も来る日も自分自身との葛藤。それにばかりかまけてしまい、現実の彼の変化を見る事が出来ないままに葛藤に疲れた私の気持ちは頑なに防衛本能に切り変わってしまったのです。
疲れた。しんどい。嫌だ。辛い。それら呪いの言葉を縄のように結って心に縛り付けてしまった私にはもはや彼の抱擁も口づけも、彼の感触そのものですら入り込む余地がなくなってしまったのです。あんなに欲していた彼の体温ですら、鼻の奥がツンとしてしまう物悲しく虚しい気持ちを呼び起こす効果しか生まなくなってしまったのです。こんな私に一番落胆しているのは、結果嘘つきになってしまった私でした。結局は押しつぶされそうになって自己防衛機能を発令してしまった私自身でした。私には彼を思い遣れ得る言葉等を口から紡ぎ出して優しく彼にかけてあげられる資格すらなくなってしまったのです。
気付くと彼はレンズに二重に映し出される反射する景色の奥に潜む静かな目でじっと私を見つめていました。私とその後ろの窓ガラスに映る揺さぶられる桜の大木の枝を二重露光のように投影した彼の眼差しは、なにかを待っているようにも様子を伺っているようにも見えるのでした。私は思わず目を逸らしました。彼の目に問いただされるのが怖かったのです。ハッキリとなにかを答えなければいけない事を恐れたのです。私の望んでいる事は、考えている事は人の道を大きく外れている事だから。決して望んではいけない結果的に他人が不幸になる事だから。そんな事を口になどしたくもありません。諦めで彼への愛情まですり減らしてしまった私は二度とそんな事を口にしてはいけないのです。屋根を叩く雨の音が激しくなってきました。けれど、奇妙な事には窓の外は明るく彼方には朝日のような日差しまで眩しく射し込んでいるのです。狐の嫁入りよりも激しく美しい空模様に白い花弁はそれでも悲しみを訴えるように次々とたたき落とされ、辺り一面に張り付いていくのです。また雷鳴が聞こえました。
「聞いてる?」
彼が苛立たし気に聞いてきました。いけない。また私はぼんやりしている。
フロントガラスに弾かれた水滴が、戸惑いながらも他の雫と混じり合い重量を大きくして加速しながら次々落下してはまたその形をなくしていく様にただ魅入られてしまったのか、そこに自分の無気力な気持ち模様を見ているのかどちらともわからず私は軽く隙間のできた歯間のその奥に潜むたっぷりと憂鬱に濡れて死んだように横たわる舌が僅かにでも身動きをして、なにかしらの言葉の水滴を飛び散らせてくれる事を待ちました。
「 ・・・上昇気流で」
「なに?」
流れ落ちる水滴の量は多くなり、その勢いを増して目で追っていくのもやっとの状態でした。 ああ、目が回る。
「雷 が・・・」
「・・・もういい。俺、トイレ行ってくるから」
そう言うと彼は雨の降りしきる明るい外に颯爽と扉を閉めて出て行ったのです。残されて、それでも何処かほっと息をついてしまう私の耳には彼が苛立たし気に閉めた扉の音だけが反響していました。