女神は古だぬきの娘だった
帰った後、仄かに甘い匂いが残った。香水のような体臭の匂いである。
「女神だ。海からきたビーナスだ」とその匂いを嗅ぎながらヤマシタ君は天にも昇るような気持ちで喜んだ。
「君の運命というものを信じるかい?」と無二の親友であるヤマダ君に尋ねた。
「突然何を言い出すだい?」と彼は聞き返した。
久美子のことをヤマシタ君は話した。
「そりゃ、狐じゃないのか? 尻尾がなかったかい? スカートを履いていたか? ふん、だとしたらスカートの中に尻尾を隠していたかもしれない」と神妙に言った。
ヤマシタ君は大笑いした。
「この二十世紀の世に、狐に化かされたって、何を言い出す。君は科学の専攻だろ」
「科学は思ったほど、この世の未知なるものを解き明かしてはいない。君は知っているかいないか知らんが、つい最近、未知なる波が発見されたんだ」
「どんな波だい?」
「ソリトンという、衝突しても減衰しない波だ。それは未だに解明されていない」
「ふん」と分かったような顔をして言った。
「今度あわせてほしい。その美女に、尻尾があるかないか、僕が検証してやろう」と言った。
「君が?」
「嫌か?」
「そういうわけじゃないが……君に会わせると何となく消えてしまうような、ふとそんな気がした」
ヤマシタ君はふと本気で、彼女の存在は幻ではあるまいかとまじめに思った。第三者とともに会ったことによって、幻影が明確になったら……しかし、その馬鹿らしさに気づき、「この二十世紀に幽霊なんて…」とヤマシタ君は大笑いした。一度、起こったその疑惑は確実に脳裏に刻み込まれた。
次の日の日曜日、ヤマシタ君の心は朝から不安に心が掻き乱された。前日に起こった小さな疑惑が朝目覚めると同時に蘇ったのであった。しかし、その不安は十時頃にかかってきた電話によって消えた。
「どうしたの?」
「何でもない」
しばらく会話が途絶えた。
「おかしいわ、泣いているの?」
「俺は男だぜ、泣くはずがないだろ」
「そうね、じゃいつものところで待っているわ」と電話が切れた。
疑惑はまるで嘘のように消えた。
昼過ぎ、隣の街で会った。久美子がそこに住んでいるからだ。
久美子は言った、「もっと近いところにいればいいのにね」と残念そうに言った。
「引っ越しをするよ」
「本当に?」ヤマシタ君はうなずいた。
すると、初めて久美子が頬にくちづけをした。突然のことでヤマシタ君の顔はみるみる赤くなった。
「馬鹿げたことを聞いていいかい?」とヤマシタ君が言うと、久美子はうなずいた。
「君は……」
「君は何者だ? 人間だよね?」
「あら、タヌキにみえる?」
「いや、見えないさ」
ヤマシタ君の行動は素早かった。引っ越すと宣言した五日後には新しい部屋が見つかった。その週の日曜、久美子に引っ越しをしたことを告げ、「今日、部屋に遊びにこないか?」と誘った。
「今度の日曜にするわ」と笑みを浮かべて答えた。新しいアドレスをヤマシタ君は教えた。しかし、それから突然、音信が途絶えた。一週間が経ち、二週間が経った。
ますます、久美子への思いがつのり、その思いが、ついに彼女のとの出会いから逢瀬までの全てが幻ではなかったかという疑念が起こった。それは病のように彼の精神を冒していった。『夢をみていたのか』という疑問が彼に起こった。いつしか、それは夢であるという結論に達した。そして、馬鹿げたことではあるが、そんな夢に惑わされた自分に呆れた。
翌日には、夢ではなく途方もない罪を犯した結果だと考えるようになった。夜、ふと久美子のことを思って自慰に走った。金を拾って警察に届けなかった。欲望を抑えられず女を買いにいった……そんなところを久美子に見られたのだろうか。……考えればきりがなかった。その罪は重くて、どんな救いもないと考えると、ついには、彼は死を想定した。青春時代というのは、どんな滑稽なことでも重大に考えてしまうのだ。たかが女のことである。それに、まわりを見渡せばたくさんの若くて美しい女がいるにもかかわらず、ヤマシタ君には久美子以外の女のことなぞ考えられなくなってしまったのだ。彼女はまさしく、絶対唯一の女神なのだ。手を伸ばせば、すぐそこに触れられたはずなのに……それが夏の日の壮大な積乱雲のように何の前触れもなくあっけなく崩れ消えてしまった……重苦しい十字架を背負うような日々が続いた。
夏のある日のことである。強い日射しが朝から射していた。ヤマシタ君の衰弱した姿をみて、友人が海を連れ出した。
「どんな美人かは知らないが、世の中には腐るほど、女はいる」
「彼女は普通の女のじゃない。女神だ。雲の城にいる女神だ」
「みろよ、あの超ハイレグの女、こっちみているぜ」
「気のせいさ」
「おい、あれはお前の大家じゃないか! それに隣にいる女すごくかわいいぜ」
ヤマシタ君は愕然とした。全てが氷解した。全ては大家の古タヌキの奸計なのだ。久美子は決して雲の城の女神ではなかったのである。ヤマシタ君は駆け出して、大家のところにいった。そして、久美子に向かって、「君とこのタヌキジジイはどんな関係なんだ!」と大声を出した。すると女神はすました顔で、「私の父です」と答えた。
作品名:女神は古だぬきの娘だった 作家名:楡井英夫