女神は古だぬきの娘だった
『女神は古ダヌキの娘だった』
不動産バブルといわれた時代があった。
世の中は不動産ブームに、リゾートブームときた。東京に比較的近く海に面したA市にも、その波が押し寄せ、街のあちこちで槌音が聞こえた。
A市のスラム街と呼ばれている一角にぼろアパート「松浦マンション」があった。名前は一応マンションだが、それは全くの偽りで詐欺といってもいいようなぼろアパートであった。その「松浦マンション」に学生のヤマシタ君が住んでいた。
ヤマシタ君の一日は恐ろしく忙しかった。朝の四時には目覚め、新聞配達に出かける。六時に配達を終えて帰ると、七時には隣街にあるB市にある大学に向かう。そこまで自転車で一時間かけて通い、夜の六時頃まで大学にいる。その後、軽く夕食をとり、繁華街でウェイターのバイトをする。アパートに戻るのは、たいてい夜の一時過ぎた。ほとんど寝るだけである。本来なら、もっと大学の近くに引っ越してもいいのだが、安くて、好きな海が近かったために、もう三年近くもいる。
冬も終わりのある日、「松浦マンション」の家主が神妙な顔つきをしてヤマシタ君を訪ねた。
ドアを開けると、軽やかなジャズが家主を襲った。家主はこのジャズがきらいだった。占領下におけるアメリカ軍を思い出すからである。家主は当時、まだ中学生だった。食堂の出前のアルバイトをしていて、集金にいったアメリカ軍の一将校にひどい仕打ちを受けたのである。その将校は大のジャズ好きで、いつも部屋にジャズのレコードがかかっていた。それ以来、ジャズの音楽を聞くと寒気が走るほどきらいになったのである。
「何の用でしょう?」とヤマシタ君が尋ねると、
家主は、まるでブルドックが唸るような声で「今度、アパートを建て替えるんだ。君も近いうちに出ていってくれないか」と告げた。
ヤマシタ君は苦学生であった。かつて大家自身もまたそうであった。同情すべき点は多々あるにせよ、アパートを建て替えるために出ていってもらわざるをえなかったのである。
いい部屋を高く貸すというのが、時代の流れであった。それが家主と、家主の妻の考えでもあり、家族の考えでもあったのだ。その結果として、若干の犠牲はやむを得ないのだ。家主は何日もそのことを考え、そう結論づけた。後はヤマシタ君にどう伝えるかだ。思案を重ねてきた。しかし、うまいフレーズが浮かばなかった。
「それだけですか?」とヤマシタ君が尋ねると、家主はうなずき、「よろしく頼むよ」と言って帰った。
半月後、再び家主がヤマシタ君を訪ねた。ドアを何度も叩いても出ない。諦めて帰ろうとした時、ドアが開いた。ドブ鼠のように濡れている家主を見て、「雨が降っているんですか?」と聞いた。
「ああ、ひどい雨だ。実にひどい雨だ」
「でも、これが恵みの雨になりますね。農家にとっては」と眼をこすりながらヤマシタ君は言った。
「君の家は農家かね?」と家主はハンカチで挙げ頭を拭きながら聞いた。
「ええ、山形の百姓ですよ」とヤマシタ君は答えた。
会話が途絶えた。いつもそうなのだが、ヤマシタ君には客のもてなすということを知らない、と家主は思った。部屋を見渡すと少し汚れているし、カーテンを閉めているせいか暗いうえにかび臭い。何とも殺風景な部屋だが、一枚の写真がかかっていた。女優の写真である。着物の前が大きくはだけていて、豊かな乳房が背後にひそんでいることをうかがわせ、不思議な色気を感じさせた。
「何の用でしょう」とヤマシタ君は迷惑そうに沈黙を破った。
「いや、他でもない。前に話したことを覚えていると思うが……」としどろもどろに言った。
「何の話です?」とヤマシタ君はとぼけた。
「え! 忘れたのか!」と家主は絶句した。
「引っ越しのことですか?」と家主の顔をうかがった。すると、家主は神妙な顔でうなずいた。
ヤマシタ君は込み上げる笑いを抑えて、「まだ、探していません」と言ってのけた。
「もう、ほとんどの住人は引っ越した。君も早いとこ見つけて欲しい」と言って消えた。
ヤマシタ君は家主が帰るとまた布団の中に潜り込んだ。
家主は人の善意を信じて疑わなかった。しかし、それは己の都合のいい善意である。
立ち退きを勧告して一か月が過ぎようとしているのに、ヤマシタ君は何の手立てを打たないことに家主は苛立ちを覚えた。しかし、苛立ちを前面に出せば、反発を招くと考えた家主は、前よりにこやかな顔をしてヤマシタ君を訪ねた。
「部屋探しのどうかね?」と笑みを浮かべた。
「いや、なかなか見つかりません」と平然と答えた。彼が部屋探しをしていないことなど、先刻承知であった家主はにこにこうなずきながら、腹の中が煮え返るのを必死に抑えた。
「これでどうか早く探して欲しい」と十万円の入った封筒を出した。ヤマシタ君は何のためらいもなく封筒を受け取り、中を見ると、ニコッと笑って「承知しました」とドアを閉めた。
三度目の正直という言葉が示すように、三度くらいがどんな人間でも限度である。立ち退き料のつもりで十万円を渡したのに、一向に出る気配のないヤマシタ君に対し、人の良い家主はさすがに怒った。その怒りをあらわした顔でヤマシタ君を訪ね、なじった。さすがにのらりくらりとその場限りのニコニコと応対をしていたヤマシタ君の顔色が変わった。そして、家主が予想もしなかった反撃に出たのである。家主はヤマシタ君の剣幕に圧倒され言葉が出なくなってしまった。家主はヤマシタ君の部屋を出てポヅリと呟いた。「畜生! あいつには良心のかけらとものがない」と。
六月、梅雨の合間の晴れた日のことである。夏を思わせるような暑い日であった。
女神のように美しい女性がヤマシタ君のアパートを訪ねた。
「私、B短大の久美子といいます。A大学のヤマシタさんですよね」と尋ねられので、「え、そうですが」と答えた。
久美子は嬉しそうに、「とても絵が上手いでしょう。私も絵に興味があるんです。教えていただきたいと思って」と快活に言った。
「どこで、私を?」とヤマシタ君が尋ねると、
久美子は「……それは、大家さんから」と少し躊躇いながら答えた。
ヤマシタ君は単純な男であった。美人=善人ということを信じていた。それゆえ、久美子が言うことに疑問をはさまなかった。
「絵の話をしましょう。汚い部屋ですけど上がってください」
一時間ぐらいたっただろうか、突然、ヤマシタ君は「あなたは描いてはいけない」
「あら、どうして?」と聞き返した。
「あなたはとても美しい。美、そのものだからだ」と言うと、久美子はけらけらと笑った
まるで子供のような笑い方にヤマシタ君は少し興ざめした。その時、ふと彼女は本当に短大生であろうかという疑問がヤマシタ君に湧いた。
久美子は窓辺に立ち、「海が見えるのね」と呟いた。後ろ姿は既に成熟した女のような優雅な曲線を示していた。
「夕暮れ時の海はとても美しい」と少しふるえる声で応えた。
「そうね」と久美子は相槌を打った。
「また、会えるかしら?」
ヤマシタ君はびっくりして言葉が出なかった。
「もう終わり?」と残念そうに久美子は呟いた。
「何度でも会える。いや、僕の方こそ君に会いたい」と力強くヤマシタ君は答えた。
「じゃ、電話をするわね」と久美子は帰った。
不動産バブルといわれた時代があった。
世の中は不動産ブームに、リゾートブームときた。東京に比較的近く海に面したA市にも、その波が押し寄せ、街のあちこちで槌音が聞こえた。
A市のスラム街と呼ばれている一角にぼろアパート「松浦マンション」があった。名前は一応マンションだが、それは全くの偽りで詐欺といってもいいようなぼろアパートであった。その「松浦マンション」に学生のヤマシタ君が住んでいた。
ヤマシタ君の一日は恐ろしく忙しかった。朝の四時には目覚め、新聞配達に出かける。六時に配達を終えて帰ると、七時には隣街にあるB市にある大学に向かう。そこまで自転車で一時間かけて通い、夜の六時頃まで大学にいる。その後、軽く夕食をとり、繁華街でウェイターのバイトをする。アパートに戻るのは、たいてい夜の一時過ぎた。ほとんど寝るだけである。本来なら、もっと大学の近くに引っ越してもいいのだが、安くて、好きな海が近かったために、もう三年近くもいる。
冬も終わりのある日、「松浦マンション」の家主が神妙な顔つきをしてヤマシタ君を訪ねた。
ドアを開けると、軽やかなジャズが家主を襲った。家主はこのジャズがきらいだった。占領下におけるアメリカ軍を思い出すからである。家主は当時、まだ中学生だった。食堂の出前のアルバイトをしていて、集金にいったアメリカ軍の一将校にひどい仕打ちを受けたのである。その将校は大のジャズ好きで、いつも部屋にジャズのレコードがかかっていた。それ以来、ジャズの音楽を聞くと寒気が走るほどきらいになったのである。
「何の用でしょう?」とヤマシタ君が尋ねると、
家主は、まるでブルドックが唸るような声で「今度、アパートを建て替えるんだ。君も近いうちに出ていってくれないか」と告げた。
ヤマシタ君は苦学生であった。かつて大家自身もまたそうであった。同情すべき点は多々あるにせよ、アパートを建て替えるために出ていってもらわざるをえなかったのである。
いい部屋を高く貸すというのが、時代の流れであった。それが家主と、家主の妻の考えでもあり、家族の考えでもあったのだ。その結果として、若干の犠牲はやむを得ないのだ。家主は何日もそのことを考え、そう結論づけた。後はヤマシタ君にどう伝えるかだ。思案を重ねてきた。しかし、うまいフレーズが浮かばなかった。
「それだけですか?」とヤマシタ君が尋ねると、家主はうなずき、「よろしく頼むよ」と言って帰った。
半月後、再び家主がヤマシタ君を訪ねた。ドアを何度も叩いても出ない。諦めて帰ろうとした時、ドアが開いた。ドブ鼠のように濡れている家主を見て、「雨が降っているんですか?」と聞いた。
「ああ、ひどい雨だ。実にひどい雨だ」
「でも、これが恵みの雨になりますね。農家にとっては」と眼をこすりながらヤマシタ君は言った。
「君の家は農家かね?」と家主はハンカチで挙げ頭を拭きながら聞いた。
「ええ、山形の百姓ですよ」とヤマシタ君は答えた。
会話が途絶えた。いつもそうなのだが、ヤマシタ君には客のもてなすということを知らない、と家主は思った。部屋を見渡すと少し汚れているし、カーテンを閉めているせいか暗いうえにかび臭い。何とも殺風景な部屋だが、一枚の写真がかかっていた。女優の写真である。着物の前が大きくはだけていて、豊かな乳房が背後にひそんでいることをうかがわせ、不思議な色気を感じさせた。
「何の用でしょう」とヤマシタ君は迷惑そうに沈黙を破った。
「いや、他でもない。前に話したことを覚えていると思うが……」としどろもどろに言った。
「何の話です?」とヤマシタ君はとぼけた。
「え! 忘れたのか!」と家主は絶句した。
「引っ越しのことですか?」と家主の顔をうかがった。すると、家主は神妙な顔でうなずいた。
ヤマシタ君は込み上げる笑いを抑えて、「まだ、探していません」と言ってのけた。
「もう、ほとんどの住人は引っ越した。君も早いとこ見つけて欲しい」と言って消えた。
ヤマシタ君は家主が帰るとまた布団の中に潜り込んだ。
家主は人の善意を信じて疑わなかった。しかし、それは己の都合のいい善意である。
立ち退きを勧告して一か月が過ぎようとしているのに、ヤマシタ君は何の手立てを打たないことに家主は苛立ちを覚えた。しかし、苛立ちを前面に出せば、反発を招くと考えた家主は、前よりにこやかな顔をしてヤマシタ君を訪ねた。
「部屋探しのどうかね?」と笑みを浮かべた。
「いや、なかなか見つかりません」と平然と答えた。彼が部屋探しをしていないことなど、先刻承知であった家主はにこにこうなずきながら、腹の中が煮え返るのを必死に抑えた。
「これでどうか早く探して欲しい」と十万円の入った封筒を出した。ヤマシタ君は何のためらいもなく封筒を受け取り、中を見ると、ニコッと笑って「承知しました」とドアを閉めた。
三度目の正直という言葉が示すように、三度くらいがどんな人間でも限度である。立ち退き料のつもりで十万円を渡したのに、一向に出る気配のないヤマシタ君に対し、人の良い家主はさすがに怒った。その怒りをあらわした顔でヤマシタ君を訪ね、なじった。さすがにのらりくらりとその場限りのニコニコと応対をしていたヤマシタ君の顔色が変わった。そして、家主が予想もしなかった反撃に出たのである。家主はヤマシタ君の剣幕に圧倒され言葉が出なくなってしまった。家主はヤマシタ君の部屋を出てポヅリと呟いた。「畜生! あいつには良心のかけらとものがない」と。
六月、梅雨の合間の晴れた日のことである。夏を思わせるような暑い日であった。
女神のように美しい女性がヤマシタ君のアパートを訪ねた。
「私、B短大の久美子といいます。A大学のヤマシタさんですよね」と尋ねられので、「え、そうですが」と答えた。
久美子は嬉しそうに、「とても絵が上手いでしょう。私も絵に興味があるんです。教えていただきたいと思って」と快活に言った。
「どこで、私を?」とヤマシタ君が尋ねると、
久美子は「……それは、大家さんから」と少し躊躇いながら答えた。
ヤマシタ君は単純な男であった。美人=善人ということを信じていた。それゆえ、久美子が言うことに疑問をはさまなかった。
「絵の話をしましょう。汚い部屋ですけど上がってください」
一時間ぐらいたっただろうか、突然、ヤマシタ君は「あなたは描いてはいけない」
「あら、どうして?」と聞き返した。
「あなたはとても美しい。美、そのものだからだ」と言うと、久美子はけらけらと笑った
まるで子供のような笑い方にヤマシタ君は少し興ざめした。その時、ふと彼女は本当に短大生であろうかという疑問がヤマシタ君に湧いた。
久美子は窓辺に立ち、「海が見えるのね」と呟いた。後ろ姿は既に成熟した女のような優雅な曲線を示していた。
「夕暮れ時の海はとても美しい」と少しふるえる声で応えた。
「そうね」と久美子は相槌を打った。
「また、会えるかしら?」
ヤマシタ君はびっくりして言葉が出なかった。
「もう終わり?」と残念そうに久美子は呟いた。
「何度でも会える。いや、僕の方こそ君に会いたい」と力強くヤマシタ君は答えた。
「じゃ、電話をするわね」と久美子は帰った。
作品名:女神は古だぬきの娘だった 作家名:楡井英夫