この手にぬくもりを
終 白妙
毎朝、鏡台の前で薄くなった髪を梳る。鏡には見慣れた老女の姿が映っていた。視線を上げれば、これも見慣れた、自分よりずっと若いままの板垣が、鴨居の上から喜久子を眺めている。
喜久子の一番好きな写真だった。
老いる姿も、衰える様も見ることなく、思い出を抱いたままでいられることを、侘びしさだけでなく、幸いと思えるようになったのは、いつからだったろうか。
最初の数年は、考える余裕もなかった。生きるのに必死で、必死でなければならないと自分を鞭打ち、ただひたすらに過ごした。泣きたくて堪らなかったが、泣けなかった。喜久子には、もう泣く場所がどこにもなかったのだ。
さらに数年経ち、笑う余裕も、生活に余裕もでてくると、今度は泣けなくなった。あの頃泣きたかったことでは泣けず、なんでもないことで泣けて仕方がない日もあった。
不安定な自分を持て余し、それでも子供達の前では何も見せられなかった喜久子が、母に尋ねたことがある。母はどうやって、父を亡くすという絶望を乗り越えたのかと。
「どんなときも、今が一番幸せだと、そう思って耐えるのよ」
母は笑って言った。
その時の喜久子には、それを上手く実践出来る気がしなかった。母は続ける。
「例えば、もうお父様に叱られることもなくなるとか、お芝居や小説の類も絶対禁止ではなくなるとか、考えてみれば良いこともあったのよ」
それを聞いて、喜久子は呆れるやら悲しいやら、肩を落とした。父が不憫に思えて来る。
「でも、喜久子にはこんな悩みはなかったでしょうけど……。こんな風に考えられる日が、ちゃんと来ますよ」
そして、母の言うことは正しかったのである。時間は優しく、悲しみを優しい思い出に変えてくれた。
その母も、今はもういない。
似ていないと思っていたのに、最近は鏡の中の自分に、母の面影を見いだせるのが、不思議だった。
気持ちの良い五月晴れのその日、長いこと連絡が途絶えていた麻子と、久しぶりに会う。何年会わずにいても、向き合えば昔の感覚で笑い合える、その縁に感謝した。
「もっと早く会いたかったんだけど、ごめんなさい」
詫びる麻子に、喜久子は首を振った。
同じような立場にいたはずなのに、二人の戦後の境遇は、共には分かち合えないほどに違っていた。麻子は、喜久子がずっと願っていた夫と平穏な老後を手に入れていたし、逆に喜久子は麻子が失ったものを持っていた。お互い忌憚なく会おうと思えるまでには、長い時間が必要だった。
「いいところね」
麻子の住まいは、海岸近くにあった。裏手には松林の砂丘が続いている。
「海へ行く?」
麻子の提案に、喜久子はためらいなく頷いた。
緩い曲線を描いた砂浜が、どこまでも続く広い海だった。雲一つない空が、海を青く照らしている。ハマヒルガオが群生する砂丘を乗り越え、喜久子は海辺に立つ。
目の前は太平洋、板垣が眠る海だ。
あの日、あの後、火葬された遺骨の大部分が、太平洋に撒かれたと聞いてから、彼は、この海で貝になったのだと、喜久子はそう思っていた。
海の底の、白妙の貝。この砂浜で、何にも紛れず光る白妙の貝。喜久子はしゃがみ込み、砂を手に取った。いつかのような、貝殻の混じった、さらりとした砂だった。
この砂になりたいと思った。貝にはなれなくても、いつかはこの砂になって、波にさらわれて、一つになれるだろうか。
波の響きが、今は喜久子を呼ぶ声に聞こえた。今はまだ遠い。でも、いつかはこれに導かれるのだと、穏やかな気持ちで感じた。
少女の頃と同じように、喜久子の背中を見つめていた麻子が、声をかける。
「喜久子は、今、幸せ?」
喜久子は、振り返って笑った。
「ええ、とても、幸せよ」
砂浜一面咲く薄桃色の花が、目に入った。この花を腕一杯に、持って帰ろう。家にある限りの花瓶に、花を飾ろう。
最愛の人のために。
この手にぬくもりを 完