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この手にぬくもりを

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 それは、今まで考えたことのない現実だった。
 戦争で負ける。今生きているこの世界が、そっくりそのままひっくり返ってしまうような。
 もちろん、この戦争が芳しくない方向に向かっていることは、感じていた。それでも、いざ、降伏した時のことは、全然考えられなかったのだ。
 考えたくない、という段階ではなく。考えられない。想像が付かなかった。
 喜久子にとって、戦争とは、夫の死に場所を提供し、戦死の可能性を高める物であって、それ以上でもそれ以下でもない。板垣に何事もないまま戦争が終われば、それで良かった。
 それが今、未知の展開によって、崩れようとしている。
 戦争に、負けた。
 責任ある立場にいる軍人は、自決せねばならないのだ。
 誰がそう言ったわけでもない。
 周りの流れが、喜久子にそう思わせていた。
 新聞に掲載される、将軍の自決記事。いつここに板垣の名が載るのかと、覚悟をして待つ。
 その時が来たら、どうすればいいのだろう。
 喜久子は、引き出しの奥の短剣に考えをめぐらす。
(……あれで、死ぬ? 私が?)
 想像が付かなかった。そもそも、結論が何故そこに行き着くのか、自分でもよく分かっていない。
 ただ、板垣は自決するのだと、既定の事実のように受け止めていた。

 手に取った短剣は、ずしりと重かった。震える両手で強く握りしめ、じっと刃を見る。
 この凶器が、突き刺さり、命を奪う。それを想像すると、血の気が引いていく。
 死ぬのが怖いのではない。それに伴う痛みや苦しみが、恐ろしい。それを自分でもたらす勇気がない。
 自分の弱さに腹が立つ。あれほど、自ら命を絶った父を恨み、分かったように死を選んだ出征軍人の妻に憤ったというのに、喜久子にはその、愚かだと否定した行為すら、出来ないのだ。
「一緒に行きたかったのに」
 そう言って泣く残された妻。自決した彼女の夫を勝手だと思ったけれど、一番わがままなのは自分自身かもしれない。
 誰に止められなくても、心残りが何もなくとも、喜久子には、この刃で命を絶つことが出来そうになかった。 
 今、生き残るということは、夫にとっては死にも勝る苦しみなのだろう。喜久子にとって、死が恐ろしい以上に。

 九月に入ると、衝撃が一段落した反面、じわじわと「負けたのだ」という実感が湧いてきた。東京湾上の降伏文書調印式、戦争犯罪人の逮捕命令と東條英機の自決未遂。その前後に舞い込んできた、南方での降伏調印式の代表を板垣が務めたという知らせ。
 無事だと分かった瞬間、ほっとしてしまった自分を慌てて打ち消す。彼にとっては喜ばしいことではないはずだ。
 誰よりも、このような事態になるのを潔しとしないだろうと思ったからこそ、喜久子は覚悟していた。
 多くの人と同じように、従容と死んでゆくのだと。
 これから、どうなるのだろう。一時のことなのか、それとも。待っていれば、帰ってきてくれるのだろうか。
 遠い昔に約束したように。
 約束。それほど、遠い昔のことではなかったはずだ。
 喜久子はあの時、夫に自分から死ぬような真似はするなと、ひどいわがままを言った。
 そして彼は、笑って約束してくれた。
 あの時は、こんな状況になるなんて、思いも寄らなかった。おそらく、約束をしてくれた本人さえも。
 だからもういい。
 喜久子は遠い南の地に祈った。
「……ごめん」
 記憶の中の夫の声が再生される。覚えている。自分は何を嘆いたのだったか。
「どうして謝るんですか?」
 あの時は、そう笑った。
 約束してくれただけで、幸せになれた。それだけで、充分だったのだ。だからもう、平気だ。
 それなのにどうして、この声が何度も繰り返し聞こえるのだろう。
 これから自分たちは、どこへ行くのだろう。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら