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この手にぬくもりを

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「でも、日曜に外に出たらみんな飲むさ。酒ぐらい飲めなくちゃやっていけないよ、そうだ、それに!」
 兼二が、とっておきの言い訳を見つけた、と言わんばかりに顔を輝かせたので、喜久子は嫌な予感がした。
「義兄さんは酒飲みで有名だったんだよ。外出後の飲酒検査の乗り切り方とか、伝説になってるくらいさ」
「……」
「だいたい、厳しい週番の日はみんな飲まないんだけど、義兄さんはそんな時でも飲んでたって言う強者さ。それがまた」
「兼ちゃん」
 喜久子は正月三が日の酒宴を思い出し、胸がむかむかしてきて、兼二のおしゃべりを遮った。
「なんだよ、姉さんは自分の夫が大物だっていう話が嬉しくないの? いつか義兄さんが有名になったら、こういう逸話はいろいろ取り沙汰されるよ」
「有名になどならなくても結構です」
 そうきっぱりと言うと、兼二は笑った。
「まさか。義兄さんの栄達が、姉さんの腕の見せ所ってものでしょう。心にもないことを言って板垣中佐殿の出世を妨げないでよ」
 本心で言ったつもりだったので、喜久子は返答に困った。いつまでも子供だと思っていたのに、なんと「男の人」となってしまったのだろう。弟が、遠い存在になってしまったような気がした。
「姉さん、大丈夫?」
「え?」
 そんなに悲壮な表情をしていたかと、喜久子は我に返る。
「具合が悪そうだけど」
 誰のせいよ、胸の中で毒づいてから、ふと思う。そう言えばさっきから気分が悪いのだ。不愉快な話を聞いたからだけではない、物理的な原因からくる、不快感。
「ああ、平気よこれは……つわりで」
 何気なくさらりと言ってしまってから、喜久子はしまったと口をつぐんだ。兼二が言葉に詰まっている。
「ええと、僕、帰った方がいいかな」
「いいのよ、せっかく来たんだし……大したことないから」
 立ち上がる兼二を慌てて引き留める。
「いや、やっぱり帰るよ。その……お大事に、じゃなくて、おめでとう、かな」
 兼二は照れくさそうにそう言って、本遊びに夢中な裕に手を振り、帰っていった。
「……」
 兼二を見送った後、喜久子は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
 今のは失敗だ。どうしてあんな事を言ったのだろう、と後悔するいつものパターンそのままだ。考えなしに喋ると、いつもこうなるのだ。
 しかし、相手は弟の兼二だった。何の気兼ねもいらないはずの。それなのに、どうして、家に来た夫の同僚に対して失言した時のような自己嫌悪に襲われるのだろう。
 なんだか寂しかった。たくましい骨格、低い声、そこから感じる違和感と、遠慮。昔は、兼二の方から後に付いてきて、小さくてひょろひょろしていて、頼りなくて、面倒を見ずにはいられなかったのに。
 喜久子自身は、その頃と全く変わっていない気がした。少なくとも、自分の意識は、十年前と変わっていないと思う。
 それでも、周りは否応なく変わっていく。夫の階級はあがっていき、弟たちは大人になり、子供は増え、大きくなっていく。今のままでいいのに。以前のままでよかったのに、どんどん時は流れていく。
 裕に絵本を読んでやりながら、喜久子は久しぶりに、漠然とした不安を思い出していた。

 だが、数日の後には、喜久子にとって、兼二の来訪は吉事となっていた。
 その日は、板垣が久々に早く帰ってくる事になっており、喜久子は食事の支度に忙しかった。幸いにも、裕はおとなしく遊んでいる。今日は悪阻も軽いし、とても気分がいい。世界中が自分の味方のような気がした。
 こんなにも、食事の時間が楽しみだと思ったことはない。喜久子は食卓の準備をしながら、積み木で遊んでいる裕を祈るように見つめた。
 そして、板垣が帰って来た。
「何か、いいことでもあったのか?」
 着替えを手伝う喜久子に、板垣がそう言って、首を傾げた。
「いいえ。お食事の支度が出来るまで、もう少し待ってくださいね」
 久しぶりに早く帰ってきたのがそんなに嬉しいのだろうか、と解釈し、板垣は席について、裕の一人遊びを横目に、いつものように本を読み始めた。
 しばらくして、喜久子の「ご飯ですよ」の呼びかけに、裕はかわいい声で応えた。そして、すぐに積み木を手放すと、どこからか絵本を抱えて持ってきて、食卓に現れた。
 米櫃を持ってきた喜久子が、茶碗にご飯をよそい始めると、裕は急いで、食卓に絵本を広げた。
「……」
 板垣は思わず手を止める。喜久子は笑いをこらえるのに必死だった。
「裕。お食事中にご本はしまいなさい」
 母にそう言われると、裕はじっと父の方を見た。
 板垣は、喜久子が楽しそうにしていた理由に、ようやく気が付いた。
「絵本を貰ってから、ずっとこうなんですよ。何度注意しても……」
「……僕が悪かった」
 板垣は手にしていた本を閉じると、項垂れた。
 それきり、本当に板垣は、食事中の読書をしなかった。

「驚いたよ。子供ってよく見ているものだな」
 夜、蒲団に入る前に、板垣はつぶやいた。
「そうですよ。私も最初はびっくりしましたけど」
 喜久子は、蒲団を敷きのべながら、楽しそうに笑った。
「悪いことは出来ないな」
 そう言ってため息をつくと、喜久子が顔をあげた。
「あら、では悪いことだと思っていらしたんですね」
 板垣は、決まりが悪くなって天井を見上げた。
「……僕が悪かったといったろう」
「分かりました」
 喜久子は楽しくて仕方ないらしく、夕食の時からずっと顔を綻ばせている。そこが、今ひとつ釈然としなかった。
「なんだか喜久子は随分と楽しそうだね」
 少し憮然としてそう言うと、喜久子はすっと笑顔を引っ込めた。
「……ごめんなさい。あなたをからかうようなことになってしまったのは、反省しています」
「いや、いいよ。……あまり家にいないから、忘れられるかと思っていたけどな」
「ちゃんと覚えているんですよ。何年も家に帰ってこないようでは無理でしょうけど」
「そうか」
 喜久子は、少し探りを入れたつもりだった。現職に就いてからほぼ二年、順当に行けば、今年は転任だろう。
 板垣はしばらく、何かを考えるかのように、遠い目をしていた。
「……支那までついて来てくれるかい」
 一瞬、喜久子にはその言葉の意味が分からなかった。
「無理にとは言わないよ。大変だろう」
「あの、よろしいんですか?」
 喜久子は逸る気持ちを抑え、言った。
「ご一緒してもよろしいんですか」
 喜久子が必死に聞き返すのが、板垣は不思議だった。
「来て欲しいから、そう言ったつもりだよ」
 喜久子は、少し頬を染めて、俯いた。
「外国には……一緒に行けないと思っていたんです」
「外国でも、喜久子が構わないのなら行けるよ」
 喜久子の顔がぱっと明るくなる。
「行きます」
 気がつけば、そう即答していた。大陸への旅のことも、外国暮らしへの不安も、その時は思い至らなかった。夫がどこに赴任しても一緒に行ける、という喜びと、外国へ行けるという物珍しさが先行していた。
 そして、家族にとって、一緒にいられるということが、親にとっても、子供にとっても、何より大切なことに思える。今日のことでも、それはよく分かった。
「どこにだってご一緒します。覚えておいてくださいね」

作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら