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この手にぬくもりを

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運命の空




 長男誕生を機に、板垣家の時間は慌ただしく巡っていった。裕のお宮参りを終えた後、内示を受けて、一家は東京に帰還した。結局、小倉赴任は一年足らずだった。
 乳飲み子を抱えた旅には多少の不安もあったが、お産以後も滞在していた母も同行していたので、喜久子はだいぶ気が楽だった。
 初めのうちは窓の外の流れる景色を眺めていたが、瞼が重くなってきた。向かいに板垣が座っている事も気になって、しばらくは重力と戦っていたが、一度気を抜くと後はすとんと意識を手放してしまった。
「お行儀の悪い」
 船を漕ぐ喜久子に、隣に座った庸子が眉を顰めた。
「寝かせておいてやって下さい」
 板垣の言葉に、庸子は一礼し、喜久子の腕の中で眠っている裕を、そっと受け取った。
 板垣は、姿勢を正したまま、窓の外を見ていた。楽にして下さい、と言っても、微笑むだけだった。庸子は色々な意味で申し訳なく思った。
 何と勿体ない人の所にもらって頂けたのだろう。小倉に来て以来、庸子は板垣の人となりに感心するばかりだった。常に礼儀正しいし、自分の前では決して膝を崩さない。そのうちこちらの方が恐縮してしまう。温容で、声を荒げるような事もないし、言うことのない夫である。
 改めて、自分の選択が間違っていなかったことを確信すると同時に、娘がそれに釣り合うだけの妻かどうかと、申し訳ないのだった。
「かわいくないでしょう?」
 そんな突然の義母のつぶやきに、板垣は一瞬、目を見張った。庸子の視線は喜久子に注がれている。
「昔から甘えるのが下手でね。こちらもつい甘えさせそびれてしまって。いつの間にか、何でも自分から我慢するようになっていて……手の掛からない娘ではあったけれど、他人様から見ればかわいげのない子でしょう」
「いえ、とんでもない」
 板垣が慌てて首を振る。庸子は笑った。
「どうしてだか、絶対泣かないのよね。泣いている所を見せるのが嫌いみたいでね、誰もいない時に泣いているの。だからこっちもつい、素知らぬふりをしてしまったり」
 そこまで聞いて、板垣は口元に手を当て、呻いた。
「……そう、だったんですか」
「まあ、違います?」
 庸子が、殊更に明るい声を挙げた。
 板垣は言葉に詰まる。義母は、誰か別の人間のことを話しているのではないだろうか。
 人に甘えるのに慣れていない、というのは腑に落ちた。幼い頃から様々な大人に甘えてきた自覚のある板垣は、喜久子が持つ、人に寄りかかる事への警戒心や、甘える事への躊躇いが、不思議でならなかった。
 しかし、喜久子は「絶対に泣かない」わけがなかった。むしろ、何度泣かれたか知れない。
 板垣は何も言わなかった。黙って、車窓の外にぼんやりと視線を移す。
「そのことだけでも、私は貴方に感謝しても仕切れないくらいですよ」
 庸子は言った。
 そんなことでいいのか、と板垣は目を見張る。目の前の喜久子が、少し眉根を寄せて身じろぎした。


 東京に帰った後、二人は庸子と別れ、千駄ヶ谷の家を一軒借りた。参謀本部支那課員兼陸軍大学兵学教官というのが、板垣の新しい肩書きだった。
 隊付時代に比べると、将校の来客も随分と減り、帰宅時間も一定していた。大陸への出張も少なくなかったが、それ以外の時は夫と子供と家族水入らず、理想的な生活が始まるはずだった。
 しかし、ここで例の問題が再発した。
「また……お食事中ぐらい、本を読むのをおやめになったらいかがですか」
 喜久子は、本を片手に無意識に箸を動かす板垣をとがめる。これは食事時の彼のいつもの癖で、喜久子がいくら注意しても一向にやめないのだった。
「ん? 何だ?」
 などと気のない返事をして、彼は本から目を上げもしない。
「……行儀が悪いし、まわりにも失礼です」
 喜久子はため息をついた。もともと喜久子も行儀作法にうるさいのは嫌いなほうで、義母との三年間の生活では随分骨が折れたものだった。あの母の前でこんなことは絶対しなかった。もちろん、喜久子の母が小倉に来ていた時も。
「別にいいだろう、喜久子しかいないんだ」
 どういう意味かと、喜久子はカチンときた。
 自分しかいなければ、何をしてもいい、喜久子がいることなんて気にすることでもないとでも言うのだろうか。
「そんなに一生懸命、毎日いったい何を読んでいらっしゃるの」
 呆れた喜久子は、彼の手元の本を覗き込む。行儀が悪いとは思ったが、自分と向かい合うよりも魅力のある本とは一体どんなものか、興味もあった。
 開いていた頁に目を落とすと、びっしりと漢字とカナが詰まっていて、目が回りそうになる。
「ほら、喜久子には無理だよ」
 板垣は笑って、本を喜久子から取り返すと、また読み始める。
 夫が、寸秒を惜しんで勉強をしたいと思っているのは、分かった。経済誌、大学の講義録を読み込むだけでなく、夜遅くまで熱心に講義メモを作成している。
 本当のところ、喜久子には、夫が陸大で教鞭を執っている姿など、全く想像が出来なかった。少なくとも、家での様子からは、大勢の前で話をするのに向いているとは思えない。
 教壇に立つには、実際に教える「兵学」のことだけでなく、幅広い知識が必要だから、と言われると、喜久子はその熱心さに負けてしまう。食事中の読書の注意をそこそこに諦めてしまうのだった。それでも、毎回注意はするのだが、それもしだいに形式的になっていく。
 そのまま、一年、二年と経ち、喜久子は、夫の食事中の読書を半ば諦めていた。


 大正十三年の正月、その日板垣は不在だった。士官学校卒業を控えた兼二が訪れたのは、この頃だった。
「裕にお土産があるぞ」
 と包みを広げる叔父に、裕が目を輝かせてまとわりつく。兼二は、一冊の絵本を取り出し、裕に渡した。裕が歓声をあげる。
「本なんて、まだ早いわ」
 喜久子はそう思ったが、兼二は笑った。
「いいんだよ。字を読めなくたって、なんでも面白いものなんだから」
 確かに、裕は字をたどり、頁をめくる動作をするだけで楽しくてたまらないようだった。しばらくはおとなしく遊んでくれそうだ。
 兼二は、真新しい陸軍将校の制服に身を包んでいた。しばらく会わない間に、すっかり大人になっている。体は、板垣よりも大きいくらいだ。
「姉さん、何かないの」
 兼二は、出されたお茶をすすりながら言う。
「なんのお話?」
「僕も、晴れて陸軍少尉だろう。今年は二十歳にもなったんだよ」
「それはどうもおめでとうございます」
 喜久子はお茶を注ぐ手を一寸休めて、弟に笑いかけた。
「そうじゃなくてさ」
 兼二が、手元の茶碗と、急須を恨みがましく見つめているのに、喜久子は気がついた。
「兼二、あなたお酒を飲むの?」
「そりゃあ飲むよ。つき合いがあるんだから」
「学校は、飲酒禁止ではないの?」
「ああ、禁止だね」
 喜久子の顔が険しくなる。お酒を飲んで盛り上がる軍人は、ある意味、喜久子の敵だった。「つき合いだから」と酒を覚え、そうしてみんなあんな風になっていくのだ。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら