ぼくのせかい
「認識せよ」
暗闇の中、声だけが聞こえた。
「それが汝等の力となる」
男なのか女なのか。大人なのか子供なのか。まるで正体の分からないその声はそれきり聞こえなくなった。
やがて黒一色だった闇が唐突に照らし出され――思わず閉じた目を再び開けたとき、景色は一変していた。
※
「……どうなってんのよ」
一面に広がる赤い荒野を眺めつつ、橘鏡花は呆然とつぶやいた。
何が起こったのだろう。これは夢なのだろうか? 自分は授業中に居眠りをしていて妙な夢を見ている。思いつく中ではそれが一番あり得そうな話だ。
だったら早く覚めなくては。先生に見つかったら怒られてしまう。ベタだとは思ったが他に方法も思いつかなかったので、鏡花はほっぺたをぎゅうっとつねってみた。
「……痛い」
つねったところからぴりりとした痛みが伝わってくる。夢の中では痛みを感じない、というのは迷信だ。痛いからといってこれが夢じゃないということにはならない。きっとまだ足りないのだ、と思って鏡花は頬をつねる手に思いっきり力を込めてみた。
「いったたたたた!」
めちゃくちゃ痛かった。思わず自分で自分の手にむかついてしまったところで――ふっと鏡花は冷静になる。自分は何をやっているのだろう。ほっぺたがどうのというよりこれでは自分が痛い子である。
頬から手を離して鏡花は一つため息をつく。そうしながら今まであったことを思い出してみた。
今日はたしかにいつも通り高校に行って、いつも通りに授業を受けていたはずだ。そうしたらいきなりあたりが真っ暗になって、変な声が聞こえて、今度は急に眩しくなったので思わず目を閉じて、そして目を開けてみたらこんなところに放り出されていた。
「うん」鏡花はこくりと頷く。「わけわかんない」
何も分からないことを再確認したところで、鏡花は改めて周囲を見渡してみる。荒野、というやつだろうか。目に映るのは延々と続く白っぽい岩の地面、それと所々に隆起した岩山だけである。いつだったかテレビで見た、月に着陸した宇宙飛行士の映像を鏡花は思い出した。この景色はあれに映っていた月の景色に似ているかもしれない。
じゃあ空には地球が浮かんでいるのか、と少しだけ期待して鏡花は空を見上げてみる。が、その期待は見事に裏切られた。地球どころか星ひとつ一浮かんでいない。一面が黒である。夜空ではなくて単なる暗闇がそこに広がっていた。
景色はこれ以上ないほど寒々しいが、実際に寒いわけではない。風もさっきから一度もふいていない。鏡花は紺色のブレザーとチェックのフレアースカートという制服姿のままだが、それでなんともなさそうである。
さて、どうしようか。鏡花は妙なほど冷静に考えていた。戸惑いや恐怖を感じてしかるべき状況であることは分かっている――実際そういう気持ちが全くないわけではない――のだが、どうもまだそこまで頭が回っていないようだ。目の前の景色を事実として捉えられていない。
一人だったのがかえってよかったのかもしれない。鏡花は思う。もしこれで隣に誰かが居てその人がパニックになっていたりしたらきっと自分もつられてしまっていたに違いない。
そんなことを思っていたからだろうか。
「……え?」
ふいに人の声らしきものがどこからか聞こえた気がして、鏡花は思わずきょろきょろとしてしまう。が、やはり誰もいない。
幻聴というやつだろうか。自分はそこまで追い詰められているのか、と情けない気分になったところで、また聞こえた。
『ねえ達臣くん、どうしよう』
はっきりとそう聞こえた。聞き覚えのある声だ。クラスメイトの一人である西川舞の姿が鏡花の脳裏に浮かぶ。
それだけではない。その声に答えるこれまた聞き覚えのある声、そして幾重にも重なる不安そうな声。姿は見えないのに声だけは遙か遠くから聞こえてくる。
「なにこれ。やだ、なんなのよ!」
幻聴などではない。聞こえるはずのない遙か遠くの会話が確かに聞こえてくるのである。わけがわからなくなって、鏡花は両手で耳をふさいでその場にしゃがみ込んでしまう。
「なんだっての。勘弁してよ、マジで……」
いやいやをするように鏡花が首をふると、ショートカットの黒髪がさらさらと揺れる。
「うう……落ち着け。落ち着んだ橘鏡花。落ち着いて考えろ」
そうしながら繰り返し繰り返し何度も自分に言い聞かせる。もしこれが夢でないのなら自分でなんとかしないといけないのだ。こんなところでうずくまってなんて居られない。五分ほど時間を要してようやくそれだけのことを自分に納得させる。
「……よし」
鏡花はゆっくり立ち上がる。声はまだ聞こえるが、気持ち悪いだけでとりあえず何か害があるわけではないようだ。それに考えようによってはこの声のおかげでこの妙な場所に飛ばされたのは鏡花一人ではないと分かったのである。そう悲観したものではない。
まだこれが夢ではないと決まったわけではないが、ひとまずみんなと合流するのが先決だ。どうやら「あの男」も居るようなので少し抵抗があるが、どう考えても今はそんなことを言っている場合ではない。そう決心して一歩を踏み出した、そのときだ。こつんと鏡花のつま先に何かが当たった。
「ん?」
何だろう、と足元に目を向けてみて――思わず一瞬固まってしまった。
弓だ。瞬間的にそう思う。時代劇に出てくるような、黒く塗られた木に弦がかかった大きな弓がそこにあった。
それと、矢がいっぱい詰まった筒。肩にかけられるようにバッグみたいな紐がついている。その二つがセットになって、無造作に地面に転がっていた。
「なにこれ。使えってこと? こんなの要らないに決まって――」
言いかけてふと気付く。もしかするとここへ来た人間はみんなこういう武器を渡されているのだろうか? だとすると不用意に近付くのは危険かもしれない。こんな訳の分からない状況でこんな武器を渡されたらおかしな行動に出る人間だっているかもしれない。どうやら声を聞く限りではここに来ているのは見知ったクラスメイトばかりのようだが、それにしたってどこまで信用していいものやら。男も居るようだから尚更である。
「でも……だったらどうしろってのよ」
一人で居たってどうしようもない。でもみんなと合流するのもためらわれる。にっちもさっちもいかなくなって、鏡花はその場から動けなくなってしまった。
※
「ねえ達臣くん、どうしよう」
女子生徒の一人が不安げに、それでいて媚びるように言う。橘鏡花が先ほど聞いた、西川舞の声である。
「そんな顔すんなよ。俺に任せとけば大丈夫だからさ」
達臣くん、と呼ばれた男子生徒は柔らかい笑みを浮かべつつ、ぽんぽん、と撫でるような手つきで舞の頭を二回ほど叩いた。そうされて舞はふっと安心したように表情を緩めて、照れくさくなったのか頬を赤くする。
「いや、でもマジでどうすんだよ? 何か考えてあるのか?」
隣に居たもう一人の男子生徒が不満そうに言った。その声からにじみ出ているのは訳の分からない現状に対する不安と焦り――だけではないように見える。
「ちょっと待てって。今考えてんだよ」
暗闇の中、声だけが聞こえた。
「それが汝等の力となる」
男なのか女なのか。大人なのか子供なのか。まるで正体の分からないその声はそれきり聞こえなくなった。
やがて黒一色だった闇が唐突に照らし出され――思わず閉じた目を再び開けたとき、景色は一変していた。
※
「……どうなってんのよ」
一面に広がる赤い荒野を眺めつつ、橘鏡花は呆然とつぶやいた。
何が起こったのだろう。これは夢なのだろうか? 自分は授業中に居眠りをしていて妙な夢を見ている。思いつく中ではそれが一番あり得そうな話だ。
だったら早く覚めなくては。先生に見つかったら怒られてしまう。ベタだとは思ったが他に方法も思いつかなかったので、鏡花はほっぺたをぎゅうっとつねってみた。
「……痛い」
つねったところからぴりりとした痛みが伝わってくる。夢の中では痛みを感じない、というのは迷信だ。痛いからといってこれが夢じゃないということにはならない。きっとまだ足りないのだ、と思って鏡花は頬をつねる手に思いっきり力を込めてみた。
「いったたたたた!」
めちゃくちゃ痛かった。思わず自分で自分の手にむかついてしまったところで――ふっと鏡花は冷静になる。自分は何をやっているのだろう。ほっぺたがどうのというよりこれでは自分が痛い子である。
頬から手を離して鏡花は一つため息をつく。そうしながら今まであったことを思い出してみた。
今日はたしかにいつも通り高校に行って、いつも通りに授業を受けていたはずだ。そうしたらいきなりあたりが真っ暗になって、変な声が聞こえて、今度は急に眩しくなったので思わず目を閉じて、そして目を開けてみたらこんなところに放り出されていた。
「うん」鏡花はこくりと頷く。「わけわかんない」
何も分からないことを再確認したところで、鏡花は改めて周囲を見渡してみる。荒野、というやつだろうか。目に映るのは延々と続く白っぽい岩の地面、それと所々に隆起した岩山だけである。いつだったかテレビで見た、月に着陸した宇宙飛行士の映像を鏡花は思い出した。この景色はあれに映っていた月の景色に似ているかもしれない。
じゃあ空には地球が浮かんでいるのか、と少しだけ期待して鏡花は空を見上げてみる。が、その期待は見事に裏切られた。地球どころか星ひとつ一浮かんでいない。一面が黒である。夜空ではなくて単なる暗闇がそこに広がっていた。
景色はこれ以上ないほど寒々しいが、実際に寒いわけではない。風もさっきから一度もふいていない。鏡花は紺色のブレザーとチェックのフレアースカートという制服姿のままだが、それでなんともなさそうである。
さて、どうしようか。鏡花は妙なほど冷静に考えていた。戸惑いや恐怖を感じてしかるべき状況であることは分かっている――実際そういう気持ちが全くないわけではない――のだが、どうもまだそこまで頭が回っていないようだ。目の前の景色を事実として捉えられていない。
一人だったのがかえってよかったのかもしれない。鏡花は思う。もしこれで隣に誰かが居てその人がパニックになっていたりしたらきっと自分もつられてしまっていたに違いない。
そんなことを思っていたからだろうか。
「……え?」
ふいに人の声らしきものがどこからか聞こえた気がして、鏡花は思わずきょろきょろとしてしまう。が、やはり誰もいない。
幻聴というやつだろうか。自分はそこまで追い詰められているのか、と情けない気分になったところで、また聞こえた。
『ねえ達臣くん、どうしよう』
はっきりとそう聞こえた。聞き覚えのある声だ。クラスメイトの一人である西川舞の姿が鏡花の脳裏に浮かぶ。
それだけではない。その声に答えるこれまた聞き覚えのある声、そして幾重にも重なる不安そうな声。姿は見えないのに声だけは遙か遠くから聞こえてくる。
「なにこれ。やだ、なんなのよ!」
幻聴などではない。聞こえるはずのない遙か遠くの会話が確かに聞こえてくるのである。わけがわからなくなって、鏡花は両手で耳をふさいでその場にしゃがみ込んでしまう。
「なんだっての。勘弁してよ、マジで……」
いやいやをするように鏡花が首をふると、ショートカットの黒髪がさらさらと揺れる。
「うう……落ち着け。落ち着んだ橘鏡花。落ち着いて考えろ」
そうしながら繰り返し繰り返し何度も自分に言い聞かせる。もしこれが夢でないのなら自分でなんとかしないといけないのだ。こんなところでうずくまってなんて居られない。五分ほど時間を要してようやくそれだけのことを自分に納得させる。
「……よし」
鏡花はゆっくり立ち上がる。声はまだ聞こえるが、気持ち悪いだけでとりあえず何か害があるわけではないようだ。それに考えようによってはこの声のおかげでこの妙な場所に飛ばされたのは鏡花一人ではないと分かったのである。そう悲観したものではない。
まだこれが夢ではないと決まったわけではないが、ひとまずみんなと合流するのが先決だ。どうやら「あの男」も居るようなので少し抵抗があるが、どう考えても今はそんなことを言っている場合ではない。そう決心して一歩を踏み出した、そのときだ。こつんと鏡花のつま先に何かが当たった。
「ん?」
何だろう、と足元に目を向けてみて――思わず一瞬固まってしまった。
弓だ。瞬間的にそう思う。時代劇に出てくるような、黒く塗られた木に弦がかかった大きな弓がそこにあった。
それと、矢がいっぱい詰まった筒。肩にかけられるようにバッグみたいな紐がついている。その二つがセットになって、無造作に地面に転がっていた。
「なにこれ。使えってこと? こんなの要らないに決まって――」
言いかけてふと気付く。もしかするとここへ来た人間はみんなこういう武器を渡されているのだろうか? だとすると不用意に近付くのは危険かもしれない。こんな訳の分からない状況でこんな武器を渡されたらおかしな行動に出る人間だっているかもしれない。どうやら声を聞く限りではここに来ているのは見知ったクラスメイトばかりのようだが、それにしたってどこまで信用していいものやら。男も居るようだから尚更である。
「でも……だったらどうしろってのよ」
一人で居たってどうしようもない。でもみんなと合流するのもためらわれる。にっちもさっちもいかなくなって、鏡花はその場から動けなくなってしまった。
※
「ねえ達臣くん、どうしよう」
女子生徒の一人が不安げに、それでいて媚びるように言う。橘鏡花が先ほど聞いた、西川舞の声である。
「そんな顔すんなよ。俺に任せとけば大丈夫だからさ」
達臣くん、と呼ばれた男子生徒は柔らかい笑みを浮かべつつ、ぽんぽん、と撫でるような手つきで舞の頭を二回ほど叩いた。そうされて舞はふっと安心したように表情を緩めて、照れくさくなったのか頬を赤くする。
「いや、でもマジでどうすんだよ? 何か考えてあるのか?」
隣に居たもう一人の男子生徒が不満そうに言った。その声からにじみ出ているのは訳の分からない現状に対する不安と焦り――だけではないように見える。
「ちょっと待てって。今考えてんだよ」