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「ナイフ」

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「もちろんさ。僕が焼いていたわけじゃないよ。あそこの店主は私じゃなくて、ちゃんと別に居る。これと同じ顔の人がね。私とは以前からの顔見知りだったから、置いてもらうついでに本人に変装して身を隠していたというわけさ。どうだい、驚いただろう?」
「いや、そりゃあまあ、言葉も出ないほどに……」
 と俺が言うと、ドクターはたいそう満足そうに微笑んでから病室を出て行った。……パン屋のおっさんの顔のままで。
「……お前、気付いてた?」
「いや、全く……」
 そういえば前にあの店に行った時、確かにこいつが妙なことを言っていたのだけは覚えているが。まさかこいつも目の前の人物が自分の父親その人だったなんて思いもしていなかっただろう。
 俺たちはしばらく二人で顔を見合わせたあと、やがてどちらからともなく噴き出した。
 清潔で静かな病室に、二人の笑い声が響く。いや、こいつは最高のジョークだ。何が面白いって、あのドクターが無理やりにしかめっ面を作って「うるせえ、ガキ。文句あるなら来んな」とか言ってるところを想像すると。ああ、ダメだ。笑い、とまんねえ。
 二人でひとしきり笑いあって、ようやくそれがおさまったあと。ふとエミーと視線が重なった。
 こいつと二人っきり。なんだか気まずくなってしまいそうな雰囲気だけど、ドクターのおかげで空気が軽い。
「おい」
「なによ」
「俺が気を失う寸前に言ったこと。ちゃんと聞こえたんだろ?」
 う、とエミーは言葉を詰まらせた。さっきドクターにからかわれた時ほどではないけど、白い頬がほんのりと赤く染まっている。
「き、聞こえたけど。それがどうかした?」
「どうかした、じゃねえだろ。返事は?」
 こちょこちょと、ミニスカートから露出した膝の上でエミーは指先をせわしなくすり合わせる。
「な、なによ偉そうに。私にも同じことを言えって言いたいの?」
「いやまあ、オーケーなんだったらな。言ってくれると俺は嬉しい」
 うう、うめくような声を出すエミー。なんだかいつもと立場が逆転したみたいでちょっと楽しい。
「あ、あのね、リオ」
「うん」
「あの、あの、えっと……」
 顔を真っ赤に紅潮させ、何かをこらえるかのような表情で口をもぐもぐさせたかと思うと、エミーは急に勢いよく立ち上がった。がたん、と音を立ててパイプ椅子が倒れる。
「ダメ。やっぱり言わない」
「……おい。なんだよそれ」
 期待に胸を膨らませていた俺は、その一言で思い切り肩透かしをくらう。
「なによ、バカ。調子に乗ってるんじゃないわよ。そもそも一回や二回あんなことを言ったからってこの私にも同じことを言わせようだなんて、いくらなんでも考えが甘すぎるんじゃないの?」
 つん、と背中を向けて勢いよく喋りだすエミー。なんだかいつもの調子に戻ってしまったようだ。
「私に言わせようと思ったら……そうね、せめて百回、いや二百回。それくらい言ってからだったら考えてあげてもいいわ」
 そりゃあまた遠い――こともないのかな。ステファンとクロエの幸せそうな様子を思い出してみる。あれだったら百回や二百回ぐらいはすぐじゃないだろうか。
 今は失われてしまったあの幸せ。二人の代わりに、なんておこがましいことは言わないけど。俺たちにもあんなふうになって欲しいとクロエは望んでいるような気がする。
「本当か? 俺、ちゃんと数えてるからな。俺が二百回言ったらちゃんとお前も言うんだぞ?」
「わ、分かってるわよ。女に二言はないわ」
「よし」
 十秒あれば一度キスができる。一分あれば愛を語り合うこともできる。
 俺たちにあとどれくらいの時間が残されているのかは分からない。人を殺すということを理解できた今、過去は捨てて自分だけ幸せになろうなんて、そんな身勝手な考え方が出来るほど俺は強くないから。
「……今すぐに二回目、とかはないの?」
「あん? なんか言ったか?」
「な、なんでもない! なんでもないわよバカ!」
 こんな感じで、俺たちらしい時間を一つ一つ大切にして過ごしていこうと思う。
 いつか森の中でエミーに言ったフレーズが蘇ってくる。
『またあの下らない日々を俺と一緒に過ごしてほしい』
 うん、我ながら悪くない台詞だね。
作品名:「ナイフ」 作家名:terry26