幻の汽笛
思えば、彼女は一風変わった子供であったかもしれなかった。
娘の陽子が大きくなるにつれ、明子はそう思わずにはいられない。
空想好きというにはあまりにもリアルに、空を翔ける列車という夢に取り憑かれた女の子。
明子。
今、夕飯の用意の為に商店街を冷やかしている、女。
大根が安いと呼びかける八百屋のだみ声は梅雨前のぬるんだ夕暮れに奇妙に溶け込んでいて、かつての夢を思い出させた。
夕日のように赤いトマトを丹念に見つめながら、明子はとうとうと追憶する。
幼稚園の頃、紙面いっぱいに大きく空行きと書かれたチケットを手作りして宝物にしていたこと。
小学生の頃、歩く道々で空を仰いで輝く黒い車体と鼓膜に心地良い汽笛の音を探したこと。
女学生の頃、退屈な授業のさなかに列車が迎えに来たらどこへ行こうか夢想したこと。
常識が身につくにつれてリアルさはなりを潜めはしたが、いつの時代も情熱的にその夢は彼女の中に根付いていた。
懐かしいというにはまだ生々しい強い思い出だ。
目を閉じればすぐにでも幻の汽笛の音を拾い出せるほどには、彼女はまだその夢に執着している。そんな自分を知っている。つるりとしたトマトの上にそれがくっきりと見えるかのようだ。
「ママ、トマトとにらめっこしてるの?」
不意に響いた愛らしい声に視線を下に転じれば、陽子が神妙な顔で明子とトマトを見ていた。にらめっこに参戦しているつもりなのだろう。
現実と空想の狭間を破るのは、いつだってこんなありふれた他愛もない声だ。劇的な汽笛ではない。
笑みで娘に応えながら、明子は違うのよ、とトマトをざるに戻した。代わりに紅葉のような陽子の手を握って、ゆっくりと八百屋の前を離れる。キャベツが新鮮だよ! 追いかけてくるだみ声も徐々に遠くなる。
時刻はとっくに近くの小学校から夕焼け小焼けの鐘が聞こえる頃合だ。
明子は肉屋で買った牛肉の袋を抱えなおすと、ゆらゆらと陽子の手を揺らしてやりながら家路へと方向を改めた。
オレンジから紅色に変わり始めた町影に、内耳に響かせるのは幻の汽笛の音。はっきりと聞こえる気がするからこそ知覚する幻想。
(フォーン)
(フォーン)
(フォーン)
……ォン、フォ……ン
「……え……?」
今のかすれた汽笛は何?
想像上で聞きなれたものとは違う音に明子は慌てて振り向いた。
空は黄金の太陽の沈む夕焼け。雲が赤金色に細くたなびいている。その、空の中に。
黒い一筋の線。
(列車……)
幼い頃から夢に見続けた列車が、とうとう現実に姿を現したのだ。
麻痺したような心持ちで明子はそれを眺める。
列車は静かに下へと降り、明子から数百メートル離れた空き地に止まった。
明子は列車の方に一歩踏み出した。
ひょっとして、この列車は自分を迎えに来たのではないか?
容易く蘇る学生時代の甘い思考。結婚を期に一応の封印を施していたはずの空想に明子は再び囚われていた。無意識の内に足がもう一歩、アスファルトにたまった砂の上に跡を刻む。
この列車に乗って、どこか遠いところへ行く。それが彼女の夢だった。
この列車に乗って、どこか遠いところへ……。
「ママ」
不意に陽子の声がした。
明子ははっとして下を見た。あどけない陽子の姿。自分を見上げる無邪気に澄んだ黒い目。
握った小さな陽子の手のしっとりとした温もりが、実感として戻ってくる。
「お家はあっちよ?」
年のわりにはしっかりした口調。にこにこと可愛らしい笑顔を振り撒くところが何よりも自慢の愛娘。
「……ええ」
彼女の視界の端にはまだ列車の姿が映っている。
それでも。
「ええ、そうね」
陽子の手をしっかりと握り締め、彼女はいつもの笑顔を浮かべた。
「パパが待っているわね」
この娘をおいて、私はどこへ行けるというのだろうか。
……どこへ行くというのだろう。
「帰りましょうか」
「うんっ」
フォーン
長い汽笛が響き、列車が発車を知らせた。
けれども明子は振り返ろうとは思わなかった。子供時代の甘い夢は、愛しい家族のぬくもりと引き換えに潰えたのだ。陽子の小さな手にそれを痛感する。
列車は、もう明子を乗せない。
明子は、もう列車には乗れない。
それが現実。
邂逅は別たれる為のうたかたの奇跡。
フォーン……
名残のような汽笛を響かせたのを終に列車はゆっくりと上へと昇り、そうして夕日の向こうへ消え、二度と明子の前に姿を現しはしなかった。