sakura模様
慣れ親しんだ離れの庭先には、立派で大きな桜の木があった。木が満開を迎え、風が吹くと花びらがまるで雪のように部屋にふりそそいだ。
隣にあった優しい微笑。身体が弱くて、あまり出歩くこともできなかった。それでも手を繋ぎながら、花の話をした。
温かい温もりを感じながら、自分は確かに幸せだと思った。だからこの日のことを、満開の桜の下で咲いた笑顔を、大事な思い出として胸にしまった。
時がたち、その人を喪ってしまった今となっては、思い出はただの傷跡に慣れ果てた。
「かつて、大切だと思えた人と桜を眺めたことがあったんです」
背後にいるアヤメはただただ目を瞬いている。
「でも、その人を喪った今となっては、ただ哀しくて。僕は、戻りもしない時のことばかりを、考えるんです。あの人が好きな花だったから」
気の早い数枚の花びらがひらひらと散っていく。戻りはしない思い出のように。なのに枯れた花びらを何度でも拾い合わせて、胸にしまい込んでしまう。
愚かだなと、透は嗤った。
「本当に、馬鹿なんです。ちっとも、成長できなくて」
何故かアヤメの方が哀しそうな顔をしたので、透は思わず目をそらした。アヤメの哀しみが移ってしまいそうな気がしたからだ。
振り向けず、僅かに上を見た透の肩を冷たい手が添えられた。
「いいえ」
しかし声は温かかった。
「いいえ、透」
声が伝えようとしているものを思って、透は唇を噛んで耐えた。
高台から見下ろした村々には明かりがともり始めている。その明かりの下には温かな人々の暮らしがあるのだろうかと、そんなことを考えた。
「透」
取り出したハンカチでズビーと鼻を豪快にかんだ透は鼻声で応えた。
「森の奥の更に奥にある私の屋敷には、ひょろりとした桜の木が一本だけある」
「はあ」
訝しがる透に、アヤメはひそやかに笑む。
「一緒に、お花見をしよう」
「アヤメさん」
怒気を含んだ声で名を呼ばれても、アヤメは表情を変えなかった。アヤメは両の手で透の頬を包み込む。透は指先の冷たさと距離の近さに驚く。
「私にくれないかな」
「え」
「透君との思い出を、私に。甘いお菓子を作るね。桜餅に三色だんご。よもぎ餅。そして新茶を入れてもてなすから、是非来てほしい」
薄い桜色の唇が僅かに綻んでいる。
「透と一緒に過ごす、優しい思い出が私は欲しい」
呆然とした頭が言葉の意味を理解するまで数秒を要し、そのあとで爆発したように顔が真っ赤になった。
「あれ、真っ赤だ」
眩暈がするような暢気な声でアヤメが呟く。透は無理やり傍から離れた。熱い頬を覚ますように深く息を吐くとアヤメは目を潤ませた。
「駄目かな」
「だ、だめではないですよ」
「そっか」
すぐに晴れ上がった表情に、透はまさか嵌められたのではないかと僅かな猜疑心を抱いた。
「私は誰かとお花見なんてしたことなかったから、嬉しい」
透は本当に嬉しそうなアヤメを見返した。
「なに?」
不思議そうな問いかけに、透はいいえと首を振った。
分からないなと、小さな声で呟く。
一人ぼっちにされることと、ずっと一人ぼっちでいることと、どっちがより孤独なのだろうか。透は肩をすくめる。考えたところでわかりそうにない。
「僕も何か持っていきますね」
「え?」
「お花見の準備」
まるで花開くような微笑を浮かべてアヤメは頷いた。
「ねえ、アヤメさん。その時もっと明るい着物着てくださいよ」
「えー?」
「花の柄でもあしらったものを。きっと似合いますよ」
「あはは、お世辞はいらないよー」
「別にお世辞じゃないんですけどね」
本心をいいながら、透は今にもほころびそうな蕾の先を眺めた。
いつか哀しい思い出も、楽しい思い出に塗り替えることができるだろうか。
今はまだ、それを透は信じることができなかった。
ちらりと隣で鼻歌を歌い始めた友達を見る。
ぱちりと目が合う。透は手にこんぺい糖をつまみ、ご機嫌に開かれた桜色の口に一粒、分けてあげた。