三分鋳造懐中時計
ただの庭師であるフィリップとアリーセ王女が同じ馬車に乗ることは、たとえ便宜上の都合があったとしても許されない。そのために侍女は馬車を二台曳いてこさせたのだろう、当たり前のことだが少し寂しく思えてしまい、アリーセ王女は誰にも気取られないように小さくため息をついた。
フィリップは侍女に支えられてようやく立ち上がりながら、美しい王女に向かって深く頭を垂れた。
「王女さま、本当にありがとうございました。助けてくださったこの御恩は一生忘れはしません。そして大変なご無礼を働き、誠に申し訳なく存じております」
「謝らないでフィリップ、あなたが無事で私は本当に安心しているの。それから……もう一度あの時計を見せてくれないかしら?」
「えっ?」
フィリップはきょとんとして一瞬固まってしまったが、すぐに腰の膨らんだポケットの中から壊れた時計を取り出して王女に捧げるように渡した。アリーセはいとおしむようにその時計の固まってしまった針と文字盤を撫でていたが、しばらくしてから自らのあの豪奢な懐中時計を取り出すと、しばらく逡巡した後にそちらの金時計をフィリップに差し出した。
「この時計をあなたに差し上げるわ。その代わりにこちらの壊れた時計を、私に頂けるかしら」
その場にいた侍女たちや医師はアリーセの突然の言葉にざわめいた。フィリップが受け取ったそれは、今はもう亡き皇太后の形見の純金製時計、王族とネジを巻くマイスター以外絶対に触れることを許されない聖なる宝物だ。
「恐れながら王女さま、その時計は皇太后さまの形見の……」
「分かっています」
おそるおそる訊ねる侍女の言葉を一言で制すると、アリーセはフィリップに正面から向かい合って言葉を続けた。
「これは私の祖母が結婚する際、祖父から贈られた金時計です。蓋を開けてくださるかしら」
言われるがままにフィリップは震える手で懐中時計の蓋を開く。見るものの目を奪う華麗な細工が全面に施された時計の蓋の裏には、完全なる調和と美しさを湛えたティツィアーノの裸婦像が描き込まれている。
「そこに描かれているのは永遠の愛と美の女神、私のお祖父さまは『永遠に美しさと愛情に満たされた時間を共に分かち合いたい』という意味でこの時計をお祖母さまに贈ったのです」
「わたくしの銀時計はもう壊れていますし、そ、それにそのような品わたくしにはとても受け取れません、畏れ多い……!」
あまりのことにすっかり竦み上がってしまったフィリップが時計を慌ててアリーセに捧げ戻そうとすると、彼女はそれを制して彼の手にしっかりと金色に煌めく時計を握らせた。アリーセは凛として咲く白百合のような気高い表情からふっと微笑みの花びらをこぼすと、フィリップの壊れた銀時計に目を落としながらそのまま言葉を続けた。
「これは私の身勝手なエゴかもしれません。けれど私はお祖父さまがお祖母さまにそうしたのと同じように、勤勉で純粋で誰よりも美しいあなたに、この素敵なメッセージが鋳込まれた金時計を受け取ってほしいの。
そしてこの銀時計はあなたの分身――直接目には見えなくてもあなたの見たこと、聞いたこと、思ったことを全て彫り込んでいるわ。それに……」
その時宮殿の方から大きく響く正午の鐘の音と、アリーセの金時計の針がかちりと12時の数字を貫く音が同時に聞こえ、アリーセは一旦言葉を切った。アリーセの持つ銀時計とフィリップの持つ金時計の間には、きっかり三分間の空白が空いている。
国中に響き渡る荘厳な十二回の鐘の音を聞き終わってから、アリーセ王女は再び口を開いた。
「あなたと私がこうして出会ったこの三分間の美しい記憶を、私はずっと忘れたくないの。だからあなたと出会った三分前を永久に鋳込んだこの時計、どうか私に譲ってくださいまし」
気高き王女の瞳のサファイアが少年の瞳のルビーを再び射抜き、少年は思わず息を呑んで頬を赤く染めた。手の中の時計の秒針の振動が高鳴る胸の鼓動に重なって、フィリップの想いを大きく揺り動かす。
フィリップは腰の痛みをなんとかこらえて深く深く一礼して、それからしっかりとした口調で姫君にこう言った。
「姫さまの思し召しのままに、この時計有り難く賜ります」
「……嬉しいわ、フィリップ」
アリーセ王女は大事そうに銀の時計をしまい込んでフィリップのもとに歩み寄ると、彼の手を取って腰のズボンに純金の時計をつけさせてやった。
「とっても似合うわ。なんだかあなた、時計を提げたウサギさんみたい」
アリーセは彼女にしては珍しい、年相応の子供っぽい満面の笑みをフィリップだけに見せると、そのまま目を閉じて薔薇の紅散る彼の頬に自らの桃色の唇を近づけ、そっと優しいキスをした。
「どうかあなたに祝福を。きっとまた会えるわ」
「……ありがとうございます、王女さま。またいつか必ず、薔薇の咲き乱れる春の園で」
少し照れくさそうなその言葉を聞いてくすりと微笑をこぼしたアリーセは、フィリップと彼を介抱する医師と侍女に軽く一礼してから、ふわりと青いドレスを翻した。
そのまま馬車に乗り込んで宮殿に去ってゆく気高き『Alice』王女の後姿を、『時計ウサギ』の少年はいつまでも幸せそうな表情で見つめていた。