三分鋳造懐中時計
フィリップの一言で危うく身をかわした王女は慌てて倒れて動かない彼のもとへ駆け寄ると、彼の半開きになった口に真っ白な手を近づける。彼の桜色の唇からこぼれ出す吐息に、まだ呼吸があると知って少しだけ胸をなで下ろしたアリーセは、美しいドレスが汚れるのも構わずに地面に膝をつき、精緻な人形のように細い彼の体をそっとその上に抱き寄せた。侍女の一人が、恐縮そうな表情でアリーセに語りかける。
「王女さま、すぐに助けをお呼びして参ります。この者の介抱は私たちが行いますので、王女さまはどうぞお気遣いなく」
「いいえ、私もここに共にいるわ。彼を放っておくことなど私には出来ません」
アリーセ王女の表情から普段のたおやかな微笑は消え、その目には自分の意見を退けることを許さぬ気高い光が宿っていた。それを目にした侍女は慌てて一礼して彼女に従う意を示し、そのまま王女の命令を待った。
「それと……彼の名前は?」
「フィリップという名です。みなし児で里親に育てられ、最近になって宮廷に仕え始めた新入りの庭師と伺いました」
そう言った侍女は心配そうな表情でアリーセとフィリップの姿を見つめていたが、すぐに踵を返すと宮殿へ助けの者を呼びに走り出し、残りの女官たちは王女に付き添ってフィリップの容態を見守ることとなった。
さほど高いところから落ちたわけではないのでフィリップの体に目立った傷はなかったが、頭から転げ落ちたために脳震盪を起こしているらしく彼の意識はまだない。アリーセは震える手で少年の薄紅が差した頬に手を伸ばし、それから目を閉じてじっと祈りを捧げた。
「私はなんて罪深いことを……どうか目を覚まして、お願い」
自分が彼に会いたいがためにワガママを言い、早めに城を出たが故にこんなことになってしまったのだと、心優しいアリーセは涙を流しながら自分で自分を責めていた。哀れな境遇の中で育ち、言葉に言い尽くせない苦しい想いをいくつも抱えて尚、こうして健気に王宮に奉仕している彼を、こんな形で事故に巻き込んでしまったことに、アリーセはひどく傷ついていた。
「ああ、どうかご慈悲を……」
だが、やがて清き心を持った姫君の祈りが通じたのか、銀髪の美しい少年はほどなくして姫の腕の中でそっと目を覚ました。
徐々に開かれるフィリップのルビー色の瞳は、アリーセの持つサファイア色の円い瞳を映し込んで輝き、二人はこのとき初めてとても親密な距離でお互いを見つめ合った。
目を覚ましたとき、少年は自分はまだ夢を見ているのではないかと疑っていた。
「ぼ、僕は……」
まだ朦朧としてあまり焦点の合わないフィリップが初めて目にしたのは、あまりにも距離が近いアリーセ王女の気高く美しき御顔と、彼女のサファイア色の瞳だった。空の色を落とし込んだような王女の青い瞳がぱちぱちとまたたくと、涙の粒を着た睫毛が揺れ、そこには薔薇の花弁を含んだ柔らかな風が舞い起こる。
そしてまるで雲の上にいるかのようなふわふわとした優しい温もりが、王女の腕の中に抱きしめられている感触だと気付くのに、彼は少々の時間を要した。――この僕が何故、アリーセ王女さまに抱きしめられているの?
そのことに気付いて一気に目が覚めたフィリップは飛び上がって、あまりの恐れ多さに王女のもとから退こうとしたが、王女はそれを許そうとしなかった。
「脚立から落ちて気を失っていたのです。どうかまだ動かないで」
「し、しかし恐れながら王女さま、わたくしはこのような身分には……! い、いたっ」
フィリップはアリーセの腕から逃げるように離れて地面に片膝をつき、王女に服従するような態勢をとろうとしたがその瞬間、したたかに打ち付けた腰が刺すように痛んで思わず声を上げてしまった。怯えるウサギのように震えるフィリップのもとに心優しき王女はそっと寄り添うと、ビスクドールのような手で彼の柔らかなプラチナブロンドを撫ぜた。王女はオーガンジーの生地を織り込むような繊細な声で、少年に語りかける。
「あなたにこれ以上辛い思いをしてほしくないのです。……私の言っている意味が分かりますね?」
「は、はい……」
フィリップはそのままの態勢で姫君の柔らかい抱擁を受け、二人は暫し黙したままお互いの温もりを分かち合っていた。
年齢で言えばたった一つしか違わないのに、アリーセ王女の言葉は優しさに溢れ、聖母のような愛情に満ち満ちている。フィリップは少女の腕の中で辛そうな息をつきながら、眠りに落ちるように目蓋を閉じた。
「間もなく侍女が救護の者を連れて来ますわ。それまでの辛抱ですよ」
彼女が慈悲深く誰よりも気高いことはもちろん知っているが、だからこそフィリップは、自分のような者が王女の慈愛を受ける資格があるとはとても思えなかった。だがそれでも可憐な王女の腕の中に抱かれて、いたわりと慈愛を授かるその短い時間はまるで温かいミルクを注がれるかのように甘美で、それを自分から突き放してしまうという行為はあまりにも罪深いことのように思われた。彼は恐縮しながらも王女の命令に従い、傷ついた身を彼女の柔らかいドレスの中に委ねていた。
ふっ、と目を開けると、彼はいつもの習慣で腰に提げた時計を見やる。彼は普段から庭仕事の時もずっと時計の蓋を開けっ放しにしていたのだが、先程落ちたときに体の下敷きになってしまったらしく、文字盤のガラスは割れて中の部品がバラバラに飛び散ってしまっていた。黒い短針と長針が指している時間は11時57分ぴったりのままで、もう動きそうな気配はない。
これだけ派手に壊れてしまっては直すことも不可能だろう。元々道端で拾った古い時計だから他人から見れば全く価値などない代物であるし、いつ壊れてもおかしくはないだろうとは思っていたが、長年の相棒を失ったフィリップは少し寂しそうな表情で鎖をかちりと外して時計を取り上げた。
「あら……その時計」
そんなフィリップの様子に気付いたアリーセ王女は時計を持つフィリップの手に自らの両手を添え、もう動かなくなってしまった時計をじっと覗き込んだ。
「先程落ちたときに壊れてしまったのね、お気の毒に……」
「昔物乞いをしていたときに道で拾ったものなので、もともと大した品ではありません。ずっと肌身離さず持ち歩いていましたが……今なら俸給で新しい時計も買えますので、どうぞお気遣いなく」
そう言うとフィリップは王女の手を離し、遠慮がちに壊れた時計をポケットにしまい込んだ。少年のどこか憂いを帯びた端正な横顔を、アリーセは心配そうな表情で見つめていた。
その時背後でがらがらと道を往く二台の馬車の音が聞こえて、二人は同時に馬車の方を振り返った。馬車に乗っていたのは宮殿お抱えの医師と先程の侍女で、彼らは馬車から降りるとあわただしく二人の方へ向かって来た。
「フィリップ、城で手当を致しますのでどうぞ馬車にお乗りなさい。そしてアリーセ王女さまも、お召し物が汚れてしまいましたので一度宮殿で着替えを致しましょう」