夢の館
低い呻き声も聞こえてくる。それも一つ二つではなく、轟くように。
酷い獣の悪臭。
Aは洋燈を向けた。
牢屋の中で人間たちが蠢いている。また別の牢屋の中では、死んでいるのか生きているのか、まったく動かない人の群れ。そして、また別の牢屋の中からはこちらに手を延ばす少年の姿。
「助けてくれ!」
Aはどうするべきかわからず、思わず眼を背けた。
そして、逃げたのだ。
Aの背中に突き刺さる叫び声。足を速め逃げ惑う。地下に一秒たりとも居たくはない。それでも出口を見つけなくてはならない。
無我夢中で逃げたAは道を失ってしまった。自分がどの道を通ったのかわからない。このままでは屋敷にすら戻れない。
焦る気持ち。静かな地下に響く心臓の鼓動。荒い息づかい。
前方から明かりが近づいて来た。はじめはJかと思ったが、それが別の人物であると知ってAは慌てて自分の洋燈を消した。
暗闇に包まれながらその場から逃げようとした。だが、足下が覚束ず、思うように進めない。壁に手を添えながら歩くが、すぐ後ろからは明かりが迫ってくる。
このままでは逃げ切れないと思ったAは走ろうとしたが、躓き転倒してしまった。
手が擦り切れた。だがそんなことに構ってはいられない。後ろから迫ってくる車輪の回る音。
Aは起き上がり様に振り返った。
仄かな明かりの中でもそのルージュは燃えていた。
「こんな場所で何をしているのかしら?」
悪戯に妖しげな美声。
マダム・ヴィーは横にいた女奴隷に命じる。「弱い薬を打ってあげて」
フェイスマスクで覆われた黒い顔が徐々に迫ってくる。
Aは逃げようとするが、手は床を掻き毟り、腰が抜けて立ち上がれない。
奴隷は注射器を持っていた。
抵抗しようとAは手を振り上げたが、その手は易々と掴まれ、女とは思えない力で制されてしまった。
首に突き刺さる細い針。
すぐにAの全身から力が抜けた。まるでそれが自分の躰ではないように、まったく微動にしない。見開かれた瞳に映る真っ赤なルージュ。
「調教部屋まで運んで頂戴」
命令された奴隷はAの両脇に後ろから腕を入れ抱え込み、そのまま引きずって歩きはじめた。
引きずられながらも躰の感覚はなく、前を進んでいるのか、それとも立ち止まっているのか、Aの視界に映っていたのは長く暗い廊下。
突然、Aの視界は大きく揺れ、その躰は仰向けにされた。
部屋に備え付けてあった洋燈に火が灯される。
急な明かりにAは目を瞑りたかったが、瞬きすらも自由にできなかった。
天を仰いでいるAの耳に届くマダム・ヴィーの声。
「さあ、どうしようかしら。また記憶を消すか、それとも……」
失われたAの記憶。それはマダム・ヴィーによって故意に消されたものだったのだ。
マダム・ヴィーの繊手がAの頬を撫でる。
「奴隷にするか、生きた屍に改造するか、標本にするのもいいわ。憎いほどに完璧な肉体、夢を見る余地すら与えない肉体、どれ一つとて欠けてはいけない肉体。今まで何人もの少年の躰を切断し、わたくしが夢想の中に見ていた躰がここにある。少年の見えない腕はここにあった、脚も体も頭部さえ、やはり奴隷にはでない、完璧すぎるもの」
マダム・ヴィーの手がAの服を脱がしはじめる。すでにボタンが外れ、はだけていたシャツをめくり、その胸板に指先が這う。絵を描くように、音を奏でるように、マダム・ヴィーの指は躍った。
「けれど、この肉体が老いる様を見てはいられない。やはりこの躰をありのまま保存して眠らせるほかないのかしら。でも、でもそれでは動く姿が見られなくなってしまう。躍動する筋肉のうねり……動く様をまたわたくしは夢見なくてならなくなるわ。もどかしい、もどかしい躰だわ」
熱っぽい声が響いた。
「どうするべきか……不老不死の妙薬さえ……あら?」
何かに気づいたマダム・ヴィー。それを確認するために壁を見つめているようだった。
「道具が足りないわ」
マダム・ヴィーに顔を向けられた奴隷は慌てた様子で大きく首を横に振った。
「ぞ、存じ上げません。手入れをした道具を昨晩ここに戻した際には何一つなくなっておりませんでした」
「何が無くなっているのかしら?」
「鋸、それに金槌も無くなっております」
「貴方は知っているかしら、それらがどこに行ったのか?」
ベールに隠されたマダム・ヴィーがAの顔を覗き込んだ。
この状況で疑われるのはAだろう。現にAは地下に忍び込んでいた。まだマダム・ヴィーはJの存在に気づいていない。
思案している様子のマダム・ヴィー。
「貴方はこの地下で何をしていたの? そして、鋸や金槌を何に使おうとしていたのかしら……扉や牢を破るため、外へ逃げ出す為かしら。だとしても道具は今どこにあるの?」
マダム・ヴィーはAの下半身をまさぐりながら、ズボンの衣嚢から地下室の鍵を取り出した。
「この鍵で地下に潜り込んだのね。でも、どこでこの鍵を手に入れた……まさか、あの女。すぐにMを探しなさい! 屋敷の中だけではなく、地下も隈無くよ!」
奴隷の一人が足音を立てながら一目散に部屋を飛び出して行った。
マダム・ヴィーのルージュが歪んでいる。不快さを表していることは明らかだ。
「あの女、貴方が誰であるか気づいて情が湧いたのね。貴方をこの屋敷に残しておくためには、あの女を消す必要がありそうね。残念だわ、あの女にもう苦しみを与えることができなくなってしまうなんて」
嗤ったはマダム・ヴィーは、いつもの艶やかなルージュを取り戻していた。
そして、再び繊手でAの躰を撫でる。
「まだ老いるまでには猶予があるわ。一先ずは記憶を消しておきましょう。薬を持ってきて頂戴」
残されていたあと一人の奴隷もこの部屋から消えた。部屋に残っているのはマダム・ヴィーとAのみ。
「貴方をどうするか最終的に決定するまで、どうしようかしら。記憶を消したのちに、洗脳して、あの男の後継者にするのも良いわね。さすがにあの老いぼれを活かしておくのも飽き飽きだわ。ほかの跡取りは居ないも同然だものね。そこへ本当の孫が現れたら……」
Aは驚いたが、声すらも出せなかった。
マダム・ヴィーの言葉を解釈するのは容易いが、その事実を受け止めることは容易ではない。
本当の孫とは、Aのことで間違えないのか。躰の自由が利かな今、聴覚さえも冒され、聞き間違えだったのかしれない。
しかし、マダムは「これからは貴方が侯爵領を相続するのよ。爵位は貴方の物、そしてわたくしは貴方の妻に」
領主X――つまり領土を持つ存在。それが侯爵というわけだ。Aが領主Xの孫であることは間違いなさそうである。少なくともマダム・ヴィーはそう思っているのだ。
血塗られた系譜。
Aもまたその系譜に名を連ねる者であったのだ。
マダム・ヴィーに問い質したいことが山のようにあるが、今のAにはそれすらも適わない。
今この時もJは何かをしているだろう。そのJが何をしようと自分には関係ないとAは言ったが、今やその関係は強まってしまった。歳は大きく離れていないとしても、JはAの叔父になるのだから。
作品名:夢の館 作家名:秋月あきら(秋月瑛)