夢と現の境にて◆参
もともと俺の家族は、自分の事で精一杯で、全ての家事に手の回らない母親と、仕事で深夜に帰宅する毎日を送る父親、そして母親を溺愛し思いつくまま我儘を言う妹がいた。母は、機嫌が悪い時には可愛がっていた妹にさえも愚痴をいう人だった。妹は優しい母親も知っているため母親がそうなる度に、泣いたり、ごめんなさいと謝ったりしていた。どう考えても何も悪いことなどしてないのに。だけどそれを止めることもできない。母の機嫌を損なえば、簡単に家出するなんて言い出す。そしてそれを聞いた妹が泣き出す。そういう仕組みだった。そして大体そんな話が出るときは、父はいつもいなかった。仕事だから、しょうがないと思っていても、いつもそれを丸く収め、愚痴を言われ、苦労するのは自分だった。そんな毎日のせいか、ストレスが溜まっていくのがわかると、いつしか俺はその場から逃げ出すことが多くなった。学校にいる方が楽、友達と遊んでいた方が楽、あの家であの二人を見ないほうが楽。…そういう理由からだった。
そしてそれが1か月ほど続いた頃だった。
あの事件が起きたのは。
俺は中学1年の夏休みを迎えていた。もちろん家にいることなどせず、外へと飛び出す。父はというとお盆まで相変わらず仕事三昧。妹と母が二人、あの家の中。1か月何も変化を感じていなかった俺は、自分がいなくても大丈夫なんだと安心しきり、何も気にせずいつものように遊んでいた。二人きりしかいない、あの家で、何が起こっているのかも知らずに。
あの日、あの夕方頃、俺はいつものように家へと帰宅した。
「ただいま。」
そう決まり文句の様に口にしていたけど、帰りたいとは思っていなかった。だけどそう口にすることで、外と家との自分を切り替える意味で無理やりにでも使うようになっていた。気を引き締めてから、玄関の扉を閉め靴を脱ぐ。しかしそこでふと、何かおかしいことに俺は気づいた。
「…?」
いつもの、夕飯を作る母の気配や物音、妹の声や足音が全く聞こえなかった。ただただ蝉の声がどこか遠く、家の中に微かに響いて聞こえてきた。
「母さん…?」
嫌な予感がした。何かは分からないけど、そこで俺は酷い気持ち悪さに見舞われたのを、よく覚えている。何か、何か大変なことになっている。何を知ったわけではないのに、俺はそう思った。覚束無い足取りで、俺はどこか長く感じる廊下を進み始めた。ゆらゆらと、足を踏み出す度に、目の前にあるリビングへとつながるドアが歪んで見えた。その扉を開いてはいけない。開いたら絶対後悔する。そんなわけも分からない言葉が頭の中で渦巻く。ドアの前にたどり着くと、なぜか息が乱れていた。まるで過呼吸みたいだ。前に学校でクラスメイトの女子がなっていた姿をぼんやりと思い出していた。思考がまるで働いてない。いや、働かせたくなかったのかもしれない。おかしいと思った瞬間から、俺はこの状況から逃げだしたいと、それしか考えてなかった。なのに。
ゆっくりと、ドアの取っ手へと手を伸ばしていた。確かめなければいけなかった。この不安が、予感が嘘なのだと。静かなのはきっと他に理由があるからと。取っ手に触ると、夏だというのにヒヤリとした感触がした。いや、もしかしたら俺の手が冷たかったのかもしれない。バクバクと高鳴る心臓は一向に収まらない。それを気にせず取っ手を引こうとした。が、そこで身体が自由に動かないのに気づく。開けろ。早く。頭ではそう思うのに。手は動かない。俺は大きく息を吸った。そして体重を全てかけるように身体を倒すと、そのドアを、開けた。
前のめりになりながら入ったリビングは、やはりシン―と静まりかえっていた。恐る恐る顔を上げると、…そこには、窓の外をぼんやりと眺め、床へと座り込む母の姿があった。俺は黙ってそれを見ていた。見ていたんだ。…だけど母は全く、ピクリとも動かなかった。まるで、抜け殻みたいだ。素直に、その時そう思っていた俺はなんて冷静だったのだろう。ふと母から視線を下げて見ると、床に転がる、黒い髪。いや、頭だ。その頭の下には真っ赤な液体が、床に広がっていた。ここから見える、服から覗く小さな白い手が、母と同様、生物として動くのを止めているかのようにただ床の上にあった。そう、そんな状況を一つ一つ確かめ、見つめていた俺は、漸く…妹が血を流して倒れている事に気づいた。
「なんで…」
やっと、そう震える口から出た言葉は、どれほど放心した後だったのだろう。
暫くそうして見ていた俺だったが、突然ある一つの不安が頭の中を駆け巡り、かと思えば急いで受話器を取って、繋がる可能性の少ない父親へと、何度も何度も電話を掛けた。出てくれ。出て。出て。出て。気づいて。俺を今、一人にしないで。
焦っていた。母親が正気を取り戻したら、今度は俺を殺すかもしれない。そう思った。そんな恐怖に耐えられなくなると、繋がらない受話器を抱えて、俺は外へと飛び出した。そこには確か、近所のおばさんがちょうど通りかかっていた。そして俺を見て驚いた顔を向けていた。何を聞かれたのかはよく覚えてない。けど、酷い顔をしていたのだろう。もしかしたら泣いていたのかもしれない。何か大変なことになっていると悟ったのか、急いで俺の家へと上がっていった。…助かった。
そう、訳も分からぬ安心を得た後、俺の記憶はそこで途切れた。