夢と現の境にて◆参
「間宮」
不意に呼ばれ振り返ってみると、そこには担任の桐山がいた。一瞬深刻そうな顔をしていたが俺と目を合わすと苦笑してみせた。しかし、俺を呼びかけたとみられる所で、迷った様に立ち止まる姿からなんだか嫌な予感がした。
「どうかしましたか?」
「あー…、いや、ちょっとな…」
離れた距離を気まずそうに詰めると桐山は渋い顔をしながら頭を掻いて口ごもった。その様子に胸騒ぎさえ感じていた俺は苛ついてしまいながらもきわめて冷静を保ちながら言葉を待った。
「狭霧のことなんだが…、何かきいていないか?」
「いえ…」
なにかあったんですかと聞くと、聞いてないならいいと慌てて桐山は言うと、そそくさと去って行ってしまった。何か、自分の知らないところで良からぬことが起こっているのではないか、とその時察した。そして下校時間に差し掛かっていた俺は急いで狭霧の家へと向かった。
夏休みが終わり狭霧の強姦事件からすでに2週間経っていた。あれから、何も起こらなかったのに。まさか、放火でもされたのだろうか何か、されたのだろうか。
そんな不安を抱えつつ、狭霧の家を訪れると、迎えるのはいつも狭霧の従兄妹である千代だった。全力疾走で学校を出た俺は、戸を開け玄関内にまで入ったところで内心焦りまくる気持ちに気づき、なんとかそれを抑え千代が出迎えるまで靴を脱がずに立ち止まることにした。手汗が酷い。背筋にも嫌な汗が流れていて気持ちが悪かった。そう思っていると、暫くして軽い足音と共に千代が玄関の方へと歩んできた。俺の前で立ち止まり、率先して誘導するのかと思えば、千代は黙ったままそこへ立ち尽くした。俺は驚いて、何かあったのかと自分でも不思議なほど冷静な声で尋ねていた。千代はそれにも黙ったまま立っていた。俺がそれに我慢できずに靴を脱ぎ始めると、千代は首を振った。帰れというのか?俺はそんなことにさえ無償に腹が立ち、止める千代を無視してずんずんと狭霧がいるだろう部屋を目指して進んでいった。乱暴に襖を開け放せばそこにはぐったりとした様子で横たわる狭霧がいた。別段、夢を見て調子が悪いときと変わらない感じがしたが、周りの雰囲気というか…、何かが明らかにいつもと違うことに気付いた。
「…狭霧?」
俺の呼びかけにビクリッと驚いた反応をした狭霧がのそのそと重たそうな身体を持ち上げた。俯いたままなので顔は見えない。
「何か、あったのか」
声が震えた。何か、何かおかしなことになっている。ピリピリと身体に緊張のような、痛々しいものが自分を突き刺しているような気がした。思考よりも自分の神経か何かが違っていることを警報か何かのように伝えていた。狭霧はそのまま暫く動かなかったが、突然手元にあった枕を掴み俺へと投げつけた。咄嗟にそれを避けるもそれに気づいた狭霧は他の物を投げつけようと周りを手探りし始めた。それに慌てた俺は一体どうしたんだと困惑した。
「か、えれ!!二度と此処に来るな!!」
しゃがれた声が部屋に響く。一瞬誰の声だか分らなかった。
「なん、で」
そう返す俺に狭霧はせせら笑うように乾いた声を上げた。
「なんで、だって?お前が嫌い、だからに決まってる。だから出てけ!」
手探りして見つけた目覚まし時計を躊躇なく俺へと投げつけてきた。俺はそれを素早く手で払うと、時計は高い金属音と鈍い音とを響かせ虚しく床へと転がった。
「知ってる、知ってるんだぞ。お前、俺をからかって、る、んだろ?笑ってんだろ?おかしな奴だって思って、る。」
途切れ途切れに狭霧が言葉を喚きたてた。時には言語が聞き取れなくて叫んでいるかのようにしか聞こえなかった。しかし、なぜ今頃こんなことを…。
「違う。俺はそんなこと思ってない。思ってたら夏休みお前と過ごしてない」
「嘘だな。嘘だ。飽きたらす、ぐに来なくなる、んだろう?」
だったら今捨てろよ!とそこで初めて狭霧の顔が見えた。それは目の下のクマや腫れが目立ち何かを掻きむしった跡が頬に残されていた。その光景に思わず俺は茫然と立ち尽くしてしまった。狭霧はそれを肯定と取ったのか声になるかならないかのような笑いをあげた。
「ほおらっ…みろ、そう、じゃないか!!嫌いだ…お前なんか…大嫌いだあ!!」
そう叫ぶや否や近くにあったものをがむしゃらに俺へと投げつけてきて、俺はそれに抵抗することもできず、訳が分からず放心していた。不意に飛んできた本が顔面に当たりそこで漸く我に返った。それとともに、後ろからぐっと服を引っ張られる感触。振り返れば千代だった。子供ながらに力いっぱい俺を狭霧から離そうと服を引っ張っていた。それにさえ逆らえず俺は頼りない足取りで狭霧から数歩離れた。離れた途端、俺は罪悪感と、何か忘れていることに気付いた。狭霧の姿に圧倒されて大事なことも何も言えず、このまま帰ろうとしていたことに、今気付いた。
ぐっと足に力を入れ、千代の手を掴んだ。無表情で見上げる幼い顔に俺は小さく頷いた。手を離すと千代はそれ以上俺を引っ張ることをしなかった。俺は狭霧の方へと身体を向け直すと狭霧の部屋へと踏み込んだ。まだ帰らない俺を狭霧は恐ろしい顔で睨みまた何事か叫ぼうと口を開いた。