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少女は鬼に懇願した。ほんの少しばかり、その瞳が潤んでいるのが分かる。鬼は、切れ長の目で少女を一瞥した。実を言うと、鬼はすっかり食欲をなくしていた。いや、なくしていたというと少しばかり語弊がある。『今』食べる気が無くなったのだ。鬼を見ても驚かず、同じ人間から疎外され、この小さな離れが己の全てで、相手の心が読めて、食べられることを恐れない少女。鬼は、食欲よりも好奇心が明らかに勝っていた。飽きたら食えばいい、そう思っていた。
「……いいだろう。お前をここから出してやる」
鬼がそう言うと、閉じていた花が開くかのように顔を輝かせ、少女は飛び跳ねた。本当に嬉しそうだった。遅かれ早かれいずれは食べられる運命だというのに、自由を手にいれた喜びで満ち溢れているのが鬼の目から見てもわかるほどである。少女の感情表現は、実に真っ直ぐなものであった。鬼はぐるりと少女に背を向け、戸をくぐる様にして離れから出た。数秒置いて、恐る恐る少女が戸から顔を出す。離れは北対の更に北、人が来ることなど考慮されていない場所に位置していた。少女はそろりと素足で地に足をつけた。じゃり、と砂が彼女の足の裏に密着する。初めての感覚に、少女は思わず口元を緩ませた。
「あ、あのね、私、ここから出してもらう時はいつも白頭巾を被らされててね、そこの廊下をまっすぐ渡るだけで、こうして地を踏むってのは初めてで…!」
「……行くぞ」
きゃっきゃっとはしゃぐ少女に鬼が手を差し伸べた。血は固まり始めていて、先ほどよりも幾分か赤黒さを増している。少女は意識を砂から鬼の手に変え、そっとその白く儚げな手を重ねた。べとり、と少女の手のひらに乾ききっていない血が色を付ける。「誰か食べたの?」と少女は質問した。「ああ」と鬼は答える。この血の持ち主は、屋敷の門番であった。少女の居場所を聞き出すと、そのまま食した。彼の目標はこの少女であったからか、それ以上他の人間を食う気はなかった。そろそろこの家の者が無残な屍骸を見つけて発狂しているころかも知れない。
「私があなたに食べられてあの世に行ったら、その人にごめんなさいってしておくね」
「……そうか」
特に哀れんだ感じの口調では無かったが、本気でそうするつもりでいるのだろうという空気は感じられた。どこまでも純粋で、底が知れない。鬼は少女を引き寄せ、軽々と持ち上げると己の胸に押し付けるように抱えて走り出した。もちろん正門から堂々と出て行くわけにはいかない。離れの裏の塀を乗り越え、そのまま森林へと姿を消す。少女は「重くない?」と問いかけたが鬼は首を横に振るだけだった。少女は細身ではあったが体の造りは成人のものとさほど変わらない。しかし身の丈七尺程の鬼に比べればたったの五尺の女の重さなど合ってないようなものである。鬼の体には、隆々というわけではないが無駄のない筋肉が付いており、薄汚れた袴の上には、ぼろぼろに擦り切れた襲を羽織っていた。いつも見ていた山の中を物凄い速さで駆け抜けている、少女は美しく秋色に染まった木々を見つめながら体を鬼に預けた。
「……あ、あのね、私は鈴って言うの。あなたは?」
暫くの沈黙を経て、少女―――鈴は頭だけ起こして鬼の顔を見上げた。
「……名前は無い」
「じゃあ誰かに呼ばれるときは困らない?」
「別に困らない。鬼の中にも名を持つ奴はいるが、俺は一人で生きている。誰かと交わることはない。だから必要ない」
「でも、私があなたを呼ぶときは困るよ」
鬼は名前などどうでも良かったが、鈴にとってはよくないらしい。鬼は彼女を鈴と呼ぶことはないと思っていたが、鈴は鬼の名を呼ぶことがこの先あると思っているらしい。鬼は暫く考えて、ああ、と声をもらし「通り名みたいなものはある」と鈴に告げた。
「なんて呼ばれるの?」
「血染めの鬼児」
「ちぞめのおにご……?どうしてそう呼ばれるの?人を食べるから?」
「鬼は誰でも人を食う。この名の由来はそこからじゃない」
じゃあどこ?と鈴は更に質問する。
「髪」
鬼の髪は獣のような質感で腰までの長さがあり、それは紛う方のない赤色であった。この色が、他の鬼達には血のように見えるらしい。だが理由はそれというよりも、力が強く一匹狼のようなこの鬼に恐れを抱くと同時に卑下したいが為に、誰が呼び出したかは知らないがこのような通り名がついたといった方が正しいだろう。この鬼はさっきも言ったとおり名前などどうでもよかったし、自分自身もこの髪の色は血としか思えなかった。
視界が開けた山の中腹に二人は出た。どれくらい走ったのだろうか、山の上から見える景色の中に、鈴が居た屋敷は全く見当たらなかった。太陽は少し傾き始めていて、せっかちな鳥達が巣に帰るべく上空を羽ばたいている。
「私には血に見えないよ」
鈴の言葉は、心なしか語調が強く感じられた。鬼は、じゃあ何に見えるのだろうと心の中で呟いた。もちろん、口に出す気などないものである。しかし彼女には、それを読み取る能力があった。
「紅葉。ほら、あたりを見回してみて。綺麗でしょ?この紅葉の赤色みたいって、あなたを初めて見た時、血よりも何よりもまずそれが思いついたの」
「……」
「あっ、じゃあ、あなたのこと、紅葉の紅の字を取って『くれない』って呼んでもいい?」
血染めの鬼児―――もとい紅は、好きにしろ、とだけ言った。鈴は満足したかのように、紅、紅と呟いていた。己の名前。紅は考えてもみなかった。だが、この少女は己の名を欲している。ならば、与えてもいいか、と彼は思った。そしてふと、ただの食物である人間に随分と肩入れしている己の存在に紅は気がついた。走りながら考える。別に今ここでこいつを食べても、何ら問題は無いだろう。しかし紅はそれをしようとは思えなかった。この鈴という少女が言った約束が決してその場しのぎのつもりではないことは直感ではあるがわかったし、彼女と話せば話すほどより一層興味が沸いてくる。彼は、ただ腹が減ったら人を食うだけの生活に少々嫌気が差していた。特に趣味もない、することもない、本能の赴くままに生きる毎日に、鈴はちょうどいい暇つぶしになると思ったのだ。彼にとって鈴は、退屈しのぎの玩具兼食料といったところであった。
嫌に静かだと思って目線を落とすと、鈴はすうすうと小さな寝息を立てて眠りについていた。もうかれこれ一刻以上は走っている。自由を手に入れた少女も、日ごろは離れに篭りっきりの所為かあまり体力は無いのだろう、流石に疲弊したようだ。
日はほとんど沈みかけていた。鬼の目は人のそれとさほど変わらず、暗闇ではあまり機能しない。彼の住処まではもう少しの距離である。紅は鈴に気を配るわけでもなかったが、それとなく慎重に山中を駆けて行った。

作品名: 作家名:ユウキ