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「私を外に出してくれたら、食べてもいいよ」
そう言って笑みを浮かべた少女に、鬼はすっかり圧倒されていた。
― 壱 ―
鬼は人を食う。鬼にとって、人間は己の生きる糧でしかない。彼らは人里離れた山奥の更に奥―――場合によっては廃村―――に住むことが多い。基本的には何かしらのコミュニティを作っているが、特に手を取り合うことをするわけでもなく、各々が勝手気ままに暮らしていた。コミュニティとはいっても、ただ棲み処を近くに構えているだけである。そして時々人里へ下っては、食欲の赴くままに人間を貪るのだ。
この鬼もそうであった。腹が減った。だから山を降り、この大屋敷の離れに突っ立っている。この屋敷、どうもそれなりに名の通った家らしい。人間の持つ複雑な社会構造など鬼には知る由もなかったが、広大な敷地にはそれに見合った池が設けられており、手入れの行き届いた庭と木々を見れば一庶民の家でないことぐらいは簡単にわかった。この鬼は特に食う人間を選り好みしない。大抵の鬼には食う人間の好みがあり、子どもや若い女に限るなど様々であるが、この鬼は頓着がないという珍しいタイプであった。だから、わざわざこんな豪邸に足を運ぶ必要はないのだ。このような家には門番も使用人もたくさん控えているし―――鬼が人間に命を奪われるのはまずないことだが―――それでも危険は避けたい。しかし彼はどうしてもこの邸宅へ足を運ばずにはいられなかった。単に空腹を満たすという理由だけではない、それ以上に価値のあるものがここにあると聞いたからだ。
ではその「もの」とは何か。その話をする為には、鬼達に伝わる逸話を話さなくてはならない。彼らはある『特異体質』の人間を食うことによって、己の力が増大すると言われている。人間が力を欲するように、鬼も力を欲する。特に鬼にとっては肉体的強さがあればあるほど都合が良く、また鬼の社会でも優遇されるからだ。そして偶然にもこの鬼は、その『特異体質』を持った人間がこの屋敷に居るという情報を偶然耳にしたのである。
そして彼の目の前にちょこんと座る小柄な少女こそ、彼が求めていた人間なのだ。離れに差し込む光に照らされ艶やかさを強調している黒髪は肩に掛からない長さで短く切り揃えられており、金の髪飾りが上品に輝いている。服装は巫女装束に似たようなもので、山吹色の袴は膝丈で切られており、そこからほっそりとした白い脚が伸びている。腰には着物の帯に類似した菫色の布が巻かれ、髪飾りと同じ意匠の留め具が付けてあった。
「……俺が怖くないのか」
鬼がこの離れに侵入して来ても、この少女は逃げ出す素振りもしなかった。彼の両の手は、この離れを(正確にはこの少女を)見つけ出す為に血みどろになっていたというのに、特に悲鳴を上げる事もない。じい、と少女は胡桃色の眼で彼を見つめ「鬼?」と呟いただけである。むしろ驚いたのは鬼の方であった。過去に彼の姿を見て驚かなかった者など一人も居なかったのである。鬼は「そうだ。だから俺はお前を食う」と返事をした。流石にこう言えば恐怖の色でも浮かぶかと思ったが、少女の放った言葉は先ほどのものである。純粋そうな笑顔を添えて。
少女は鬼の問いに小首をかしげて数拍考え込んだ後、すくっと立ち上がり本棚の中から一冊の書物を取り出した。形の良い指がぱらぱらと一枚一枚紙面をめくり、やがて目的の一面を見つけるとそれをぐいと鬼に見せた。
「私が想像していた鬼ってこんな感じ。身の丈十三尺以上、筋肉隆々で肌は赤や青など様々、虎のような文様の腰布一枚に棍棒。でもあなたはまるで人間みたい。あっ、角は付いてるけど」
「……それは人間の想像に過ぎない。現に俺は鬼であるし、お前が俺に食われる運命は変わらない」
「だから、私をここから連れ出してくれたら食べていいって言ってるでしょ」
「駄目だ。お前に逃げられたら困る」
もちろん、逃げ出しても捕まえて食べることなどこの鬼には造作もないことであるのだが。少女は軽くため息を付くと、持っていた本を元の場所に戻し、光の出入り口である格子戸から外の景色を見た。景色といっても、屋敷を囲む塀と、裏山の木々しか伺うことは出来ない。なんともつまらない世界である。しかし少女はその世界を愛おしそうに眺めると、視線を鬼に移して「どうして私がこんなところに住まわされてるかわかる?」と言った。この離れはこじんまりとした正方形の形をとっており、寝具と文机に本棚、壁には申し訳ない程度に掛け軸が掛けられてあるだけだ。もちろんそれらは一級品であり部屋自体は清潔そのものだが、光に乏しく実に殺風景である。鬼が沈黙していると、少女は口を開いた。
「私は……生き物の心が読めるの。読心術とは違うんだけど、ぼんやりと相手が思い描いてることが頭の中に浮かんでくるの」
『特異体質』と鬼たちが定義するものは様々である。この少女のように心が読めるものもあれば、不老不死や霊能力など、要するに人外的な力を指す。心を読む、と鬼は頭の中で復唱した。そして鬼は一つの疑問を抱く。何故このような力を持った者が人間社会では疎外の対象にあるのか、と。
「人間は非常識なものを忌み嫌うの。それがたとえ家族内でも同じこと」
「……今、読んだのか」
「はっきりとは読めない。けど、あなたが疑問の念を抱いてるような気がしただけ。どちらかというと、人よりも動物の方がちゃんとわかるかな。人の思考は……複雑で難しいの」
俺は人じゃない、と鬼は心の中で否定した。この否定もこの少女には伝わったのだろうか、と考えると、鬼はなんとも不思議な気分になった。
「物心ついたときからこの離れが私のお城だった。外に出ることはどんな理由であれ許されなかった。一日に三度、ご飯を運んでくれる人も、私が話しかける間もなくそそくさと立ち去ってしまうの。私にはたくさんの兄弟がいるらしいんだけど、一度も会ったことがないわ。みんな私のことを怖がってた。父上と母上は、私のこの力しか興味なかった。家の名を上げるために、同じ貴族達を蹴落とすときだけ、私は外へ出してもらえた。私は何の為に生きてるんだろうって、ずっと考えてた」
「……逃げようとは思わなかったのか」
「逃げても捕まるのが目に見えてるし、世間には私の存在が知れ渡ってるの。だからどこへ行ってもどうせ同じ扱い……ううん、もっと酷い仕打ちを受けるかもしれない。ここだったら、外にも出れないし人と喋る事も出来ないけど、ご飯もあるし寝床もあるし、望めば本だって用意してくれるから」
そういって少女は本棚にずらりと並ぶ書物を指さした。そこに入りきらない分は、壁沿いに高々と詰まれている。この少女の知識は、全て文字から得たものであった。物語を読んではその土地の情景を心に描き、主人公となって旅をする。評論を読んでは、自分の思考力と判断力の肥やしにし、吸収または反論する。少女はこの本たちと、格子戸のほんのちょっとだけの自然に育てられたようなものであった。
「……だから、少しでいいの。少しでいいから、外の世界を見てみたい。あなたの傍から離れないって約束するから。そしたら、後はどうにでもしてくれて構わないから……」