遠回りをしよう
俺とこの男の間にあったのは、ほんの二週間ほど前までパン屋の主人とその常連、という関係だけだった。いつもこうして目深に帽子をかぶり、豪華な服を着ているわけでもないアルベルト王は「ちょっと身なりのいい客」くらいにしか見えなかったのだ。
かれが俺の店に来るようになったのは、今も鮮やかに思い出せる去年の雨降る晩のことだった。
その日、俺は閉店時間をすこし過ぎたころ常連のじいさんとの将棋の決着をつけたオヤジを部屋に追いやってじいさんを見送っていた。看板を店の中に入れようとしたときに、店のある細い路地に駆け込んできた人影を見つけてしまったわけだ、俺は。思えば傘を差してない時点で怪しいことはわかりきってたな。
人影は俺の姿を認めると、まっしぐらにこっちに駆けてきた。店のなかに逃げ込んでもよかったんだが、俺は小娘でもないし腰を痛めたオヤジのかわりに店の主人代理をしていたからそうもいかなくて。俺の前で息を整えている人影に、雨のせいもあるし暗くてよく見えないながらも声をかけたわけだ。
「どうかしたのか?」
それを聞いて、人影は救いを見つけたみたいに勢いよく顔を上げて、
「匿ってくれ!」
といってきた。
…それから、なんとなく諾々と閉店した店に入れさっきまで激戦してた将棋板をよけたところにその男を座らせて、ついでにタオルを投げ渡して本当は晩飯にする予定だったうちの一番人気のバケッドを半分そいつにくれてやった。なんていい奴なんだ、俺。人影は男で、たいそう綺麗な顔をしていた。どこから逃げてきたんだろう、とか、そういうことを考えたのを覚えている。かれは名前を、アルと名乗った。
沈黙を保たせるためになんとなくその日聞いたくだらない噂話をしながら、俺はアルに好きなだけ隠れてていいぜ!と普段から近所のガキどもに発揮している兄貴分っぷりで言ってやった。無言でパンをむさぼっていた(いい食いっぷりだったので満足だった)アルが目を丸くして、それから笑えばすげえ子供っぽくみえる笑顔で、ありがとうといってきたことをよく覚えている。
結局その日はそのまま朝までなんとなく起きていた。家族が起き出す前に出ていくといったアルに、俺はバケッドやいくつかの焼きたてパンを持たせて送り出してやったわけだ。乞われるままに店のチラシも添えて。
それからきっかり一週間経った日に、アルは再び俺の前に現れた。初めて会った日と同じように、閉店する時間にひとりでふらりとやってきたのだ。
年下だということもあり警戒感なんてまるでない俺は、ようなんて声を掛けてなんとなくまた店にアルを入れてやった。相変わらず綺麗な顔をして帽子を目深にかぶっているアルだったが、またくしゃっと子供っぽく笑ったのを覚えている。
「この間の礼を、と思って」
「いいよいいよ金なんて。追っ手からは逃れられたのか?」
おばちゃんたちとの会話で養った俺のたくましい想像力によると女に追われる色男かどこぞのお坊ちゃまっていうイメージだったわけだが、アルはその問いを笑ってはぐらかしただけだった。なにやら分厚い封筒を取り出そうとしていたのを遮って、俺はとりあえずなんか食べる?なんていったんだっけ。
「…エリオットは、やさしいな」
「ワケありのやつを見掛けたら黙って助けてやんのが、下町のルールなんだよ」
どうやらアルはバケッドを気に入ってくれたらしい。例によって俺の晩飯の予定だったそれを半分やって、その日もなんとなく無駄話をしながら夜を明かした。っていっても、普段はおばちゃんたちの話をもっぱら聞いてばかりの俺がひたすらしゃべってるのを、アルが面白がって聞いているって感じだったけど。
最初に会った日と同じように朝にパンをくれてやり、オヤジが起きてくる前にアルは帰ってゆく。この間と違うことは、来週、また来ると言い残したことだけだった。
それからというもの、なんとなくこの聞き上手な不思議な客との邂逅を俺は一週間の楽しみにするようになっていた。アルと話していると、とても楽しい。毎週この曜日には、バケッドを必ず一本とっておくのが俺の習慣みたいになっていた。アルもまた、律儀なことに毎週閉店時間ぴったりに店に訪れる。
何度かそうして会ううちに、なんだかとても気の合う友達みたいな気になって俺は新作パンの味見やらまでアルに頼むようになっていた。ちなみに味見には役にたたなかった。なんでも美味いっていうから。
アルもなんだか、あの子供っぽい笑顔になることが多くなっていた気がする。あの笑顔が、好きだ。あっちも途中から店につくなり帽子を外したり顔に巻いていた布を外すようになった。どうやら邪魔だったらしい。きれいな金髪を見てやっぱりこいつ金持ちそうだな、なんて思ったけど、それ以上のことを聞くのは憚られる気がして俺は聞こうとしなかった。
それをきっかけにアルが来なくなるのを恐れていたのかもしれない。
そして、俺たちの間にある関係はといえばそれきりだ。俺はアルに、なんか面白くて変わってる良いヤツ、みたいな印象でいた。アルも似たような感じだと思う。手を握り合ったこともない。
だから俺は驚いたのだ。あの日、いつもと違う曜日、真っ昼間から店にやってきたアルに。
お供の方々を裏路地びっしりに山ほど引き連れたかれが、俺のまえで笑った顔が、俺のしらない作り物みたいな綺麗な笑顔だったことに。
そしてなにより、その男が王と呼ばれたことに。