遠回りをしよう
思い返せばこのパン屋がこんなに繁盛しているのも、跡取りである俺が何故かその座を追われたのも、それでもって生地を伸ばすのに使う麺棒で思いっきりのうのうとこの店を出て行って戻ってきた兄貴を殴っているのも、全部あの男のせいだということを思い出していた。
俺の名前はエリオット。パン屋の次男坊にしちゃ洒落た名前だなとよくからかわれていたけど、今じゃパン屋のエリオットと言えばちょっとした有名人だ。パンが美味いって評判になるんだったら俺もなにもいうことはなかったんだけど、残念ながらそういうわけではない。
「エル、やめろ、俺に当たるな!」
ちなみにこの、俺に必死で思いとどまらせようとしているのは兄のセオ。こんな場末のパン屋なんか継ぐか!といって飛び出したくせに週末になるとパンを買い込みにやってきていた挙げ句、何故か今や店を継ぐ気満々で帰ってきたひどいけど憎めない兄貴だ。
「権力に弟を売り渡したくせに!」
麺棒を真剣白羽取りされ、ようやく兄貴を追い詰めたにも関わらず俺は厨房でにらみ合いをすることになってしまう。きっとオヤジもお袋も見てみぬふりをしているんだろう、と俺は頭の冷静なところで判断した。くそう。人間はいつだって権力の前に無力だね。
「いや、それは、その…オヤジも喜んでたじゃないか!連日大盛況だぞ!」
「俺の味方は常連さんしか居ないのか!」
昨日もよくパンを買いに来てくれてたおばちゃんたちに「寂しくなるねえ」とか「困ったことがあったら何でもおっしゃい」とか言われて泣きそうだった。それに比べてこいつらときたら…、俺はうなだれるしかない。
この城下町で、ほんの少数の常連さんたちにだけ知られていたパン屋のエリオットが、国中で知らないものはいない!てほどになったのは今から一週間ほど前のことだ。
賢王として知られるアルベルト・なんとかかんとか六世が、後宮に迎えいれる相手として国民に知らしめたことによって。
後宮っていったら、そりゃあもうあれだ。偉い人の奥さんやら愛人のみなさまがせめぎ合いしのぎ合う、地上で最も陰湿な戦場。これは常連さんのみなさんの噂話から知った知識だけどな。
だが国民はみんなしってる事だけど、アルベルト王には後宮がなかった。だからパン屋の主人見習い(俺)がそこに入るっていうのがかなり衝撃的だったわけだ。俺も衝撃的だったけど。
ちなみになんでアルベルト王に後宮はないのかって話なんだけど、それを話すと相当長くなる。開店してからバケッドが売り切れるくらいの時間、おばちゃんたちの井戸端会議がずっとその話だったことがあった。
簡潔にまとめると、アルベルト王の次の王位継承者はかれの父が晩年に産ませたその弟なんだって。だから、継承権をややこしくさせないようにアルベルト王は子供を作らないと表明してて、したがって後宮もないってわけだそうだ。若いししかも権力を持ってる人間の行動とは思えない。むしろ人間なのか?と俺は思ったもんだけどな。その問題が自分に降りかかろうなんざちっとも思わないし。
俺が後宮とアルベルト王を取り巻く環境について知ってるのはその程度。どうも明日から後宮に投げ込まれるとは思えないね!
「エリオット」
それで、だ。
結局のところ、あわよくば兄貴に一発食らわせようと思っていた俺を、いきなり国民全員に向けた放送の中でさらっと「後宮に迎え入れる」と紹介したアルベルト王こそが、冒頭で述べたように諸悪の根元なわけだよ。そうそう、この、俺の麺棒を握った腕をふわりと掴み止めた、この輝かんばかりの金髪の男だ!
「…おまえ、何しに!いらっしゃいやがった、この王様!」
眼前で化石と化した兄貴をそうそうに見限って、俺は勢い良くその腕の主を振り返った。そこにいたのは怜悧そうだけどどこか甘さを匂わせる、こりゃ高貴だねって一目でわかるほど綺麗で上品な顔をした男である。紹介するまでもなく、俺を後宮にするといったアルベルト王そのひとだ。王と呼ぶには若いけれど、これでも即位してから五年だか経っているらしいから驚きだ。
どうやら今日もお忍びらしく、布切れやら帽子でそのキラキラフェイスを隠していたようだ。調理台の上にはいつのまにか帽子が転がっている。この男がここに来るときは、いつもそうだった。
「…何をいっているんだ、エリオット」
そういって惜しげもなく俺にそのキラキラスマイルを向け、アルベルト・なんとかかんとか(本気で忘れた。なんか長い)六世は硬直したままの兄貴に手を差し伸べる。だけどまあ、そういや兄貴とアルベルトが出くわすのは初めてだったっけ?気の小さい兄貴がそんなこと耐えられるわけもなく、勢いよく後ずさってオーブンに頭打ってもんどりうってた。ざまあみろ。
「城に運び込むものがあったら、今日のうちにやってしまったほうが都合がいいと思ってな」
「第一俺は後宮に入るなんて認めてない!」
「後宮に入るんじゃないぞ。お前が後宮になるんだ、ひとりきりなんだから」
「余計たちが悪いわ!」
俺はもう今更この王様に敬意なんて示すつもりは微塵もない。ついこの間まで知らなかったし、こいつが王様だなんて。くそう。
「今からでも遅くない!撤回しろって、お互いのために!」
「何を気にしてるんだ?前を辿れば男性が後宮に入ることなど数え切れないほどあった」
「前例があったらいいってもんじゃねえだろ…」
ひとついっておけば、俺は美少年でも実は貴族の血を引いてますってわけでもない。ちなみにアルベルトより2つ年上だ。なんでよりによって、粉に紛れてパンこねるのが生き甲斐の男に、その、…求婚したかね、こいつは。
誤解を解くためにいえば、俺はこの男が嫌いじゃない。むしろとても好ましいと思う。面白いし、良い奴だ。だけどもちろん、お前を俺の後宮に入れるよ!っていわれてはいそうですか、と言うような理由にはならないだろう。
「兄上との涙の離別には見えなかったが?」
「なんでコレが兄だって知ってるんだよ…」
俺はなんだか馬鹿らしくなったので、麺棒を調理台の上に投げ出して早々にエプロンを外した。荷物なんて特にない。この男の忠実な部下の皆様が、あの忌々しい放送のあとにこの店に来て「必要なものはこちらで揃えますので」とクソ丁寧に言ってくれたしな。口ではまだ抵抗しているが、正直自分でもこれは城に行くしかねーわーという気はしてる。街は来る明日に向けお祭りムードだし。俺は混乱を起こすことが予想されるから、と店には出ていない。店はそんなことお構いなしに連日大盛況だしな。いまもパンが売りきれて、臨時休業になっているくらいだ。俺がここ数日店でしたことといえば裏でちょっと常連さんに挨拶したくらいかな。
「浮かない顔だな」
「…わけわかんないって、ほんとに」
ただ、この男のことが、ほんとにわからなかった。
俺の名前はエリオット。パン屋の次男坊にしちゃ洒落た名前だなとよくからかわれていたけど、今じゃパン屋のエリオットと言えばちょっとした有名人だ。パンが美味いって評判になるんだったら俺もなにもいうことはなかったんだけど、残念ながらそういうわけではない。
「エル、やめろ、俺に当たるな!」
ちなみにこの、俺に必死で思いとどまらせようとしているのは兄のセオ。こんな場末のパン屋なんか継ぐか!といって飛び出したくせに週末になるとパンを買い込みにやってきていた挙げ句、何故か今や店を継ぐ気満々で帰ってきたひどいけど憎めない兄貴だ。
「権力に弟を売り渡したくせに!」
麺棒を真剣白羽取りされ、ようやく兄貴を追い詰めたにも関わらず俺は厨房でにらみ合いをすることになってしまう。きっとオヤジもお袋も見てみぬふりをしているんだろう、と俺は頭の冷静なところで判断した。くそう。人間はいつだって権力の前に無力だね。
「いや、それは、その…オヤジも喜んでたじゃないか!連日大盛況だぞ!」
「俺の味方は常連さんしか居ないのか!」
昨日もよくパンを買いに来てくれてたおばちゃんたちに「寂しくなるねえ」とか「困ったことがあったら何でもおっしゃい」とか言われて泣きそうだった。それに比べてこいつらときたら…、俺はうなだれるしかない。
この城下町で、ほんの少数の常連さんたちにだけ知られていたパン屋のエリオットが、国中で知らないものはいない!てほどになったのは今から一週間ほど前のことだ。
賢王として知られるアルベルト・なんとかかんとか六世が、後宮に迎えいれる相手として国民に知らしめたことによって。
後宮っていったら、そりゃあもうあれだ。偉い人の奥さんやら愛人のみなさまがせめぎ合いしのぎ合う、地上で最も陰湿な戦場。これは常連さんのみなさんの噂話から知った知識だけどな。
だが国民はみんなしってる事だけど、アルベルト王には後宮がなかった。だからパン屋の主人見習い(俺)がそこに入るっていうのがかなり衝撃的だったわけだ。俺も衝撃的だったけど。
ちなみになんでアルベルト王に後宮はないのかって話なんだけど、それを話すと相当長くなる。開店してからバケッドが売り切れるくらいの時間、おばちゃんたちの井戸端会議がずっとその話だったことがあった。
簡潔にまとめると、アルベルト王の次の王位継承者はかれの父が晩年に産ませたその弟なんだって。だから、継承権をややこしくさせないようにアルベルト王は子供を作らないと表明してて、したがって後宮もないってわけだそうだ。若いししかも権力を持ってる人間の行動とは思えない。むしろ人間なのか?と俺は思ったもんだけどな。その問題が自分に降りかかろうなんざちっとも思わないし。
俺が後宮とアルベルト王を取り巻く環境について知ってるのはその程度。どうも明日から後宮に投げ込まれるとは思えないね!
「エリオット」
それで、だ。
結局のところ、あわよくば兄貴に一発食らわせようと思っていた俺を、いきなり国民全員に向けた放送の中でさらっと「後宮に迎え入れる」と紹介したアルベルト王こそが、冒頭で述べたように諸悪の根元なわけだよ。そうそう、この、俺の麺棒を握った腕をふわりと掴み止めた、この輝かんばかりの金髪の男だ!
「…おまえ、何しに!いらっしゃいやがった、この王様!」
眼前で化石と化した兄貴をそうそうに見限って、俺は勢い良くその腕の主を振り返った。そこにいたのは怜悧そうだけどどこか甘さを匂わせる、こりゃ高貴だねって一目でわかるほど綺麗で上品な顔をした男である。紹介するまでもなく、俺を後宮にするといったアルベルト王そのひとだ。王と呼ぶには若いけれど、これでも即位してから五年だか経っているらしいから驚きだ。
どうやら今日もお忍びらしく、布切れやら帽子でそのキラキラフェイスを隠していたようだ。調理台の上にはいつのまにか帽子が転がっている。この男がここに来るときは、いつもそうだった。
「…何をいっているんだ、エリオット」
そういって惜しげもなく俺にそのキラキラスマイルを向け、アルベルト・なんとかかんとか(本気で忘れた。なんか長い)六世は硬直したままの兄貴に手を差し伸べる。だけどまあ、そういや兄貴とアルベルトが出くわすのは初めてだったっけ?気の小さい兄貴がそんなこと耐えられるわけもなく、勢いよく後ずさってオーブンに頭打ってもんどりうってた。ざまあみろ。
「城に運び込むものがあったら、今日のうちにやってしまったほうが都合がいいと思ってな」
「第一俺は後宮に入るなんて認めてない!」
「後宮に入るんじゃないぞ。お前が後宮になるんだ、ひとりきりなんだから」
「余計たちが悪いわ!」
俺はもう今更この王様に敬意なんて示すつもりは微塵もない。ついこの間まで知らなかったし、こいつが王様だなんて。くそう。
「今からでも遅くない!撤回しろって、お互いのために!」
「何を気にしてるんだ?前を辿れば男性が後宮に入ることなど数え切れないほどあった」
「前例があったらいいってもんじゃねえだろ…」
ひとついっておけば、俺は美少年でも実は貴族の血を引いてますってわけでもない。ちなみにアルベルトより2つ年上だ。なんでよりによって、粉に紛れてパンこねるのが生き甲斐の男に、その、…求婚したかね、こいつは。
誤解を解くためにいえば、俺はこの男が嫌いじゃない。むしろとても好ましいと思う。面白いし、良い奴だ。だけどもちろん、お前を俺の後宮に入れるよ!っていわれてはいそうですか、と言うような理由にはならないだろう。
「兄上との涙の離別には見えなかったが?」
「なんでコレが兄だって知ってるんだよ…」
俺はなんだか馬鹿らしくなったので、麺棒を調理台の上に投げ出して早々にエプロンを外した。荷物なんて特にない。この男の忠実な部下の皆様が、あの忌々しい放送のあとにこの店に来て「必要なものはこちらで揃えますので」とクソ丁寧に言ってくれたしな。口ではまだ抵抗しているが、正直自分でもこれは城に行くしかねーわーという気はしてる。街は来る明日に向けお祭りムードだし。俺は混乱を起こすことが予想されるから、と店には出ていない。店はそんなことお構いなしに連日大盛況だしな。いまもパンが売りきれて、臨時休業になっているくらいだ。俺がここ数日店でしたことといえば裏でちょっと常連さんに挨拶したくらいかな。
「浮かない顔だな」
「…わけわかんないって、ほんとに」
ただ、この男のことが、ほんとにわからなかった。