トロイメライ
またあの唄だ、と彗太は思った。宿題をする手を休めてそっと一階のリビングを覗くと、守が蓄音機の前で床に膝をついて座っていた。その傍らには古いレコードのスリーブが置かれている。
「父さん」
「あ、彗太。どうしたの?うるさかった?」
「ううん」彗太は父のほうに近づき、隣に座った。蓄音機の針が黒い円盤の表面を擦る様子を眺めながら、彗太は唄に耳を傾けた。
いのち短し 恋せよ少女
レコード特有の古びた、少しぼんやりとした不鮮明な音が、部屋のなかにゆっくりと流れる。
朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に
歌詞の意味はだいたいわかるが、なぜ父がこの唄を好んで聞くのかはわからなかった。母はいつも、「お父さんはロマンチストだから」と言うが。
「摂ちゃーん」
ちょうど唄が中盤に差し掛かったころ、突然ベランダの外から声がした。
「あ、鶴子だ」
「つるこ?」
「鶴ばあんとこの子だから、鶴子。俺ちょっと見てくる」彗太は立ち上がって、ベランダへと走った。
「摂ちゃん」
彗太の姿を見つけると、千鶴の目が輝いた。
「お前なあ、ちゃんと玄関から来いよ」
「だって、こっちのほうが近いんだもん」千鶴はそう言って笑った。摂津の家も鶴見の家も、周りに塀や柵などの囲いとなるものがないので、両家の敷地は裏庭でつながっている。ちょうど二つの家の中間にある松の木を便宜上の境としているが、実際の境界線は彗太も知らなかった。
「上がってもいい?」
「おう」
ここのところ毎日のように、千鶴は彗太の家に遊びにきていた。いや、遊びにといっても、宿題をする彗太の隣で教科書を広げておとなしく勉強しているだけなのだが。そのため彼は最近、何かと理由をつけては友達からの誘いを断っていた。今日も、事前に約束したわけではないが、彼女が来るかもしれないと思ったので、放課後のキックベースの試合を早々に切り上げて帰ってきた。
「摂ちゃんって偉いよね」
「は、何が?」
「だって、まだ夏休み前なのに、毎日ちゃんと夏休みの宿題してるでしょう」
そう言われると返す言葉がない。事実、彗太は千鶴につられて勉強しているようなものだ。例年夏休みには母から「はやく宿題しなさい」と毎日小言を言われるのだが、今年はもうすでにもらっているぶんの宿題はほとんど片付いてしまった。
「お邪魔します、おじさん」
「こんにちは、千鶴ちゃん・・・じゃなくて鶴子ちゃん」
「おい、上行くぞ、鶴子」
父が一階にいるので、彗太は二階の自室に移動することにした。古さで軋む階段を上りながら、千鶴が尋ねた。
「おじさん、あの唄好きなの?」
「たぶん。よく聴いてるし」
「ふうん・・・」千鶴はふと足を止めて、階段の下を見た。「私も好き」
千鶴はそう言ったが、正直彗太は彼女の意見に賛同できなかった。彼はどちらかというと、もっとリズムが速くてかっこいい歌のほうがが好きだった。そもそもレコード盤というのが古臭い。今時みんなカセットテープかCDだろう。
部屋の中に入ると、彗太は海の見える西向きの窓を開けた。二階にはクーラーがないので、こうしておかないと暑くてたまらないのだ。窓の外からはあの唄が聞こえた。
「私、摂ちゃんの部屋来るの、はじめてかもしれない」
「え、そうだっけ」彗太は部屋の隅から折りたたみ式の机を出して広げた。
「うん。なんか、あんまり何もない部屋だね」
「そうかぁ?うーん、そうかなぁ」彗太自身そんなつもりはなかったが、小さい花柄のワンピースを着た千鶴が床にちょこんと座っているのを見ると、父が書いた壁の絵以外に装飾のひとつもないこの部屋が、なんだかひどく殺風景に思えた。
「でも、ここですることっていったって、夜寝ることぐらいだしな」
確か三年生か四年生の頃、友達の影響で自分の部屋がほしいと両親に無理を言って、物置になっていた二階のこの一室を空けてもらったのだが、なんだかんだ言いつつ一日のほとんどを一階で両親と過ごしてしまうため、今はある意味ふたたび物置と化している。彗太も冷たい木張りの床に腰を下ろした。
「勉強、大丈夫か?」
千鶴は、うん、と一言頷いた。彗太は一応毎日彼女にそう訊いているが、彼の手を借りずとも、そちらのほうはまったくもって支障ないようだった。算数と理科と体育しか取り得のない彗太は、社会や国語の宿題などではむしろ五年生の千鶴に手伝ってもらうこともあった。それがなんだか情けないので、いつもなら後回しにする歴史の宿題は昨日のうちにすべて終わらせてしまった。
勉強をはじめると、二人はいつもすぐ静かになる。耳に聞こえるのは、鉛筆の先が紙の上を走る音と、鳴いては止む蝉の声、港を出入りする船の汽笛の音、そして、レコードから聞こえてくる歌声だけだった。理科の問題を解きながら、彗太の意識は窓の外に向かっていた。
黒髪の色 褪せぬ間に 心のほのお 消えぬ間に
彗太はそっと、向かい合わせに座っている千鶴に目をやった。うつむいた顔にかかる黒髪は艶々として、窓の外から注ぐ夏の日差しを受けて白く輝いていた。母親に似て生まれつき髪が茶色い彗太は、それが少し羨ましかった。
視線に気がついたのか、不意に千鶴が顔を上げた。
「何?」
「別に」
千鶴は少し怪訝な顔をしたが、すぐにまた机に向かった。
一週間、彗太は思った。千鶴がこの町に来てから経った日数だ。七月も中旬になり、彗太の学校では来週一学期の終業式がある。もうこのままここで夏休みを過ごすのではないかと、彗太はそんな気がしていた。
「・・・やめた」
すると突然、千鶴が机の上に鉛筆を放り出した。
「やめたって、どうしたんだよ、急に」
「もう、いい」
そう言うなり、彼女は算数の教科書の上に横を向いて突っ伏した。千鶴の突然の奇妙な行動に、彗太は困惑した。
「何かあったのか?」彗太も宿題をする手を止めて、彼女に訊いた。そもそもさっきからやる気などなかったのだ。
「昨日の夜」ぽつりと彼女はつぶやいた。「ママから電話があったの」
「お母さんから?何て?」
「私、まだ家には帰れないんだって。もう少し待っててね、って」
「帰りたくなったのか?」彗太は思わず語調が強くなった。ついこの間、帰りたくないと言っていたばかりなのに。
「ううん・・・」千鶴は、そんな彼の様子は気にせず淡々と続けた。「でも、ママの声がちょっと、かわいそうだったから」
「お父さんは?」
「・・・」
千鶴はそれっきり黙ってしまった。ふと、カーテンを揺らす風が止んだ。彗太は急に、彼女が自分の目の前にいるのに、どこか遠いところに行ってしまったような感覚に襲われた。連れ戻さなければ、そう思ったのに、なぜか声が掛けられなかった。内へ内へ沈んでいく彼女の意識に、手を出すことができなかった。
その時、部屋の外から物音がした。
「彗太ー、ドア開けて」
守だった。どうやら部屋の前にいるらしい。千鶴を見やると、彼女はいつの間にか面を上げて、声のしたほうを向いていた。戻ってきた、と彗太は思った。
「おじさん?」