トロイメライ
本屋を出て、ふたりはすぐ近くにあったドーナツ屋に入った。さきほどのにわか雨のせいか、店の中はほぼ満席状態だった。カウンターでドーナツとコーヒーを注文して清算を済ませてから、それらが乗ったトレイを持って、彗太と千鶴は、隅の空いていた二人用の小さな席に座った。付属のスティックシュガーを半分、さらさらとコーヒーの中に入れ、千鶴は小さなスプーンでそれを混ぜた。ミルクは使わないらしい。彗太はミルクだけを入れた。ふたりの間には、狭いテーブルの中央に千鶴が頼んだドーナツがひとつ、皿に乗って鎮座している。
「それで」まず先に千鶴の方から切り出した。「君は、どうして私が君のこと避けてるのかを知りたいんだよね」
「ああ」
わかった、というようにうなずいてから、彼女はコーヒーカップを手に取ったが、すぐにまたソーサーの上に戻した。それから、スティックシュガーの残りの半分を黒いコーヒーに入れた。さらにミルクも手に取ったが、それはやはり使わずにもとの場所に置いた。
「どこから話したらいいのかな・・・」
「どこからでも」
「こんなこと、誰にも言ったことないんだけど」
「そんなに言いにくいことなのか?」彗太はうつむきがちな彼女の目を見た。
「言いにくい・・・そうだね、すごく変な話だから」千鶴はまた少し笑った。「それでもちゃんと信じてくれる?」
「信じるから」
彗太がそう急かすと、音楽のかかった店内で、千鶴は小さな声でぽつりと言った。
「俺、男なんだ」
「はっ?」
「名前は千。千円札の千って書いて、ゆき」彼女は淡々と続けた。「で、このあいだまで君と会ってたのが、つる。こっちは女の子」
「待て、ちょっと待て」混乱しながら、彗太は千鶴を言い止めた。「お前は千鶴だろ?何だよ、ユキとかツルとかって。それに千って、前に言ってた友達のことじゃねーのか?」
向かいに座る『千鶴』は至って落ち着いている。
「俺たちは千鶴から分かれたんだ。十年前の夏、長崎から帰る途中に」
「分かれた・・・?」
「そうだ、このドーナツが君の言ってる『千鶴』だとする」そう言うと、彼女はおもむろに目の前のドーナツを手にとって、丸い形をしたその一部を、ちょうど一口分ぐらいの大きさにちぎった。「この小さいほうが俺、『千』で、こっちの大きいほうが『つる』。きれいに二分割されたっていうよりは、『千鶴』から俺が分離して、その結果残りが『つる』になったって感じかな」
彗太は、一部が欠けた不完全な形のドーナツを見つめた。
「つまり・・・その小さいほうがお前で、欠けてるほうが『つる』ってことか?」
「そう。それ、今俺が言ったけど。食べる?」
『千』はふたつになったドーナツのうち、自分にあたる小さいほうを彗太に差し出した。あまり腹が減っていなかったので、彗太はコーヒーしか注文しなかったのだが、流れに乗って彼はそれを受け取った。彼女は自分の側にある残りの『つる』のドーナツを見て、独り言のようにつぶやいた。
「もっとも、つるは、自分が完全な円だと思ってるけど」
彼女の顔に、またすっと不思議な微笑が浮かんだ。今日も化粧をしているのか、薄く紅をさした唇の端が上がった。彗太は手元の『千』のドーナツを見つめた。
「その・・・これがちぎれたのって、もしかして俺のせいなのか?」
「たぶんね」
「あの日、俺が約束破って神社に行かなかったから?」
「そんなことぐらいで、って俺も思うけど」
「いや、そういうわけじゃ・・・」
「ううん、たぶんつるもそう思ってる。でも、千鶴はショックだったんだろうな。あのあとすぐに、俺たちふたりが生まれたから」
彼女はまるで他人事のように語った。ざわざわとした店内で、この空間だけが妙に静かだった。
「あの後、ずっと待ってたのか」
「さあ、どうだろう・・・たぶん、雨が降ってくるまでは待ってたと思うけど。ごめん、俺もよく知らないんだ」彼女はようやくコーヒーを一口飲んだ。「つるも君のことはほとんど忘れてたんだけど、傘に書いてあった名前を見て急に思い出したんだろうね。次の朝起きたら俺になってた」
「?」
「ああ、普段はつるが表に出てるんだけど、何か嫌なことがあると、寝てる間に夢で俺と交代するんだ」
嫌なこと、という言葉が彗太の胸に刺さった。
「だから、俺もつるにあわせて君のこと避けてたんだけど・・・」千鶴の表情が心なしか真剣になった。「でも、少しおかしいんだ。いつもなら三日もすればまたつるに戻るのに」
困ったな、と彼女はひとりごちた。彗太はなんと答えてよいのかさっぱりわからなかった。
「以上、君の質問には答えたよ」
彼女はそう言い終えると、自分のドーナツを一口かじった。上にまぶされたシナモンの粉が白い皿の上にぱらぱらと落ちた。
「あのさ、もうひとつ訊きたいんだけど」
「何?」
「今お前の食ってるそれと、俺のこれは、またひとつのドーナツになるのか?」
「え?」
千鶴は手元のかじられたドーナツを見た。少しの間思考してから、彼女は言った。
「壊れたものは、もう元には戻らないと思うけど・・・」
ふたりは一緒に店を出た。結局一時間近く店内にいたので、外に出た頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。
「じゃ、俺こっちだから」家のある方向を指差して、彼女はさっさと歩いていった。
「あ、おい」彗太は小走りで彼女の後を追った。「送るよ」
千鶴は不思議そうな顔で追ってきた彗太を見た。
「え・・・何で?」
「何で、って」
彼女のあまりにそっけない態度に彗太は少々戸惑った。並んで立つと、彼女はやはり小さく、どこか頼りなさげに見えた。彗太にとって千鶴は昔から、どこか放っておけない感じがするのだ。
「もう暗いし、ひとりだと危ないだろ。だからちゃんと家まで送ってく」
自分にしてはかなり素直に言えた、と彗太は思った。歩行者用道路の真ん中に立ち止まったふたりの横を、他の通行人が足早に歩いていく。
「いいよ別に。そんな、女の子じゃあるまいし」
「いや、女の子だろ」彗太は思わず笑ってしまった。今目の前にいるのは、どこからどうみても、二十歳かそこらの正真正銘の普通の女の子である。「あんま、からかうなよ。鶴子」
千やつるなどと言って、千鶴は自分を試しているのだと、彗太はそう思っていた。彼が見ているのはあの千鶴だ。それ以外のものであるはずがない。
千鶴の黒目がちな目から、ふと光が遠のいた。
「・・・俺の話、やっぱり信じてくれなかったんだね」
「え?」
「俺は千。残念だけど、君の知ってる千鶴はもういないんだ」そう静かに語ると、彼女は重そうな鞄を持ち直して、悲しげな顔で彗太の目を見つめた。「俺は、君のこと少し信用してたんだけどな」
彼女は右の手首につけたブレスレット型の腕時計を見た。
「俺、もう帰るよ。さよなら」
彼女は今度は振り返らずに彗太から去っていった。彗太はその後を追うことができなかった。細身のジーンズを履いて颯爽と歩く彼女の後姿は、何だか彗太の知らない別人のように見えた。