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ねぎしおじさん
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novelistID. 17760
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サナトリウムの魚

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ひっそりと聳え立つ木々の合間を縫って、呻くような声が十二十聞こえる。
 サナトリウムに詰め込められた人々は、毎夜毎夜、毎朝毎日、叫びながら自らの狂気を曝け出す。
 晴天には薄くたなびく雲が、酒粕のように点々と散らばるばかりで、鳥の姿さえも認めることができない。陽は腐った果実の色合いで木漏れ日を作り、緑との対比に気色悪さを醸し出していた。

 山田は患者だ。二週間前にここへ来た。重度の精神障害と判断されたが、彼はいたって正常だと自負していた。現実、彼は少し個性の強い、というだけで、他人との違いなど見つからぬほどの良識人だった。勤勉に働き、それなりの物を食い、性欲も人並みにあった。狂っているといえば、朝起きるのが苦手な低血圧、といったところだけだ。人間としての誤差は少なかった。 彼の燃料は、一日二食の決まった食事だった。ここ二週間、それ以外の物を口に入れたことはない。隣の病室の池原はそれに耐えかねて、自分の腕を咬んでその汗を舐めたというが、どうにも塩気を欲する気になれなかった。山田は基本的に、他人をうらやむことのない人生を送っていた。しかし、今は妻子がほんの少しだけうらやましかった。好きな時に海に出て、好きな時に空を眺められるからだ。それ以外は、本当にどうでもよかった。
 療養という名目の監禁にあって、十七日経った早朝に、山田は血を吐いた。黒いそれに、瞠目したが、特別関心を持つこともせず、厳重なマスクをつけた女の看護師にも黙っていた。その日の夜に出た便にも、似た色の血痕が見つかったが、山田は我関せずを貫いた。体調は良かった。気分も優れていた。
 池原が死んだのは、二十四日目の夕方だ。この部屋にまで彼の断末魔が響き、異臭が漂ってきていた。彼は異常な量の汗を皮膚から垂れ流し、口元から幾つもの涎の筋を伸ばして絶命したという。山田は黙って手を合わせた。その晩には、尻から女の月経のように黒い血が沁み出し、滝のように流れた。山田は仕方なく、便座の上で夜を明かした。収容者たちのうめき声は、日に日に耳から遠くなっていった。
 山田の異常が発見されたのは、ここに来てから四十二日目の、日の高い時刻のことだった。看護師は前から知っていた。山田が毎夜、便座の上で眠っているのを、知っていた。山田は端正な顔立ちをしていたものだから、その看護師は目の保養に毎晩、山田の病室を何度も確認していたのだ。山田は医師に連れられて、薄汚い手術台の上に腰掛けさせられた。医師は山田の尻をマジマジと眺め、お前は魚人のようにどす黒い血を零すのだな、とせせら笑った。山田は、俺は人魚だったのか、と感心し、手放しで医師を褒めちぎった。言われてみれば魚が好物だ。そしてまれに、塩気が欲しくなる時があった。もちろん、池原のように良識を無くし、自らの汗をしゃぶろうとまで思ったことはないが。海の味のする汗や涙は、山田の舌には甘美な色を奏で、至福と快楽をもたらす。その日、医師は心底面倒くさいといった風体で山田を一瞥すると、部屋に戻るよう苛立たしそうに言った。その目は、膳に嫌いな煮魚が出て、箸が進まぬ時の人間のものによく似ていた。

 山田の暮らしが一変したのは、収容されてから実に六十四日経った日の昼時であった。特に空いてもいないのに、ぐるぐると機嫌悪げに鳴る腹をさすっていると、山田の担当看護師が、彼の名前をマスク越しのくぐもった声で呼んだ。山田の不調を隠していた看護師だったが、彼には女を責める気など針の先ほどもなかった。そして看護師も、それを改めるような器量を持ち合わせていなかった。彼女はいつだって、ただの女だった。
「山田さん、あなた、先生が呼んでいらっしゃるからおいでなさい」
 看護師は山田の目を覗きこみながら、くぐもって掠れた声で言った。そう言った。山田は、うん、と頷いて立ち上がった。彼の座っていたスプリングの堅いベッドには、彼の体内から出た黒い血がところどころこびり付いていた。看護師は、汚いな、とただ思った。そしてそういう顔をした。山田は黙って、素知らぬ顔をした。
 医師は山田を、ゴミ滓でも見るかのような目つきで見つめた。水揚げされたばかりの、息も絶え絶えな醜い魚をみる目つきだ、と山田はぼんやり考えていた。
「くだらん魚人の世話をするのはもうこりごりだ。山田くん、君、池原くんのことは覚えているかい」
 山田は息苦しくなって、細い音声で、はい、と応えた。
「あの池原くんだがね、彼の症状が君の症状とよく似ていてね。彼のことは助けられなかったが、君のことは救えるかもしれない」
 どうだ、ひとつ私の手にゆだねてみるというのは、と医師は深い水底のような色合いの目で言った。飢えた犬の目だ。山田はどうしようか思案することもなく、うん、と頷いた。ここはサナトリウムだ、患者が医者を信じなくてなにを信じるというのだ。山田は医師を嫌ってはいなかった。
 それから山田の病室が移された。今までの部屋は、山田の尻からこぼれた血液で、生臭くなっていた。シーツはろくすっぽ取り替えられなかった。それに加えて、掃除も滅多にされない小部屋には点々と黒いものがこびり付き、嫌な臭いを放っていた。新しい病室は清潔だったが、山田はすぐにまたあの部屋のようになるだろう、と何の感情も伴わず、ただそう考えていた。
 白い壁が稜線を描くように視界を取り囲む。丸い部屋だ。まさにサナトリウムだな、と山田は思った。病室には、ひとつ、水槽が置いてあった。そんなに大きくない水槽には、赤、青、緑、黒、銀、と色鮮やかな小魚たちが幾匹か優雅に泳ぎまわっていた。山田はそれをなんとなしに眺めて、やがて飽きて、つまらなさそうに唇を尖らした。ここには、窓がなかった。空の一切ない生活は、はじめてだ。
 看護師は変わらなかった。あの女だ。しかし山田はどうでもいいと思った。どうでもよかった。あの水槽で泳ぐ魚のように、俺はここに閉じ込められて幾日か生き延び、そののちに死んで食われるんだろう。しかし山田は悔しくなかった。人間は、いつだって自分勝手に、気まぐれに魚を取って食うし、草を引き抜いて食う。獣も猛禽も、人間の食料だ。それはどんなに山田がもがいたところで、なにも変えられないそれは、この世の真理のようなものだったから、彼はとっくに諦めていた。山田は、自分が人間なのか家畜なのか、よく分からなくなっていた。

 妻が子を殺した話を聞いたのは、新しい病室にうつって、うつらうつらとしていた夕べのことだった。窓がないから本当に夕べかどうだったか分からないが、たぶん、そのくらいだと思う。子は無残にも髪を引きちぎられ、唇を抉られ、しかし大事な何かを慈しむ様な、ひどく穏やかな顔で死んでいたという。きっと、妻もじきにここに来ることになるだろう。なんとなく、山田は頭痛を覚え始めていた。日にちを数えることが、日増しに億劫になっていた。