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夢一匁

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 鳴屋に着いたのはちょうど昼にさしかかるころだった。
 馬車を降り、桜に引っ張られるかたちで鳴屋の奥座敷へ入っていく。カラリと障子を開けると桜が予想していた通り、父である由岐家当主が出された茶を飲んでいるところだった。
「桜、何をしている? ……おや、後ろにいるのは貴方のご息女ではないか、鳴滝殿?」
 さして驚いた様子も見せず由岐家当主は真咲の父を見やった。それに慌てたのは真咲の父だ。
「真咲!? 学校は……いやそれよりなぜその御仁と一緒なんだ!」
「満開の桜の下で会ったのです。それよりお父様、桜さんをご存知なのですか?」
「知っているも何も──、相手がこの方ではければどうするつもりだったんだ!」
 激高する父の理由が分からず、真咲はきょとんとして父を見る。隣では桜が握った手をぎゅっと強めたのが分かった。けれどその理由が分からず、真咲は彼を見上げる。そこには穏やかな彼からは想像がつかないくらい強い意志を宿した瞳が、由岐家の当主──つまりは自分の父を見つめていた。
「……父上、僕は僕の意思で貴方の跡を継いで当主となります」
「ふふん、理由は明白だな」
 面白そうに顔を歪めて笑う自分の父に桜は照れからか軽く睨み、次いで困惑する真咲を見つめた。
「すみません、真咲さん。お見合いは嫌だと、好きではない人との結婚は嫌だと言っていたのに……でも僕は貴女に一目で惹かれて、どうしても一緒にいてほしくて」
 しゅんと項垂れながら言う桜に、真咲はようやく事態を理解する。自分の見合い相手がこの桜であったことを。そしてまたじんわりと胸が熱くなった。
 一目惚れなんてあるわけがないと決めつけていた。でも、それならば桜を想うだけで締め付けられるように切なくなるこの胸は何だろうか。ふと気付けばずっと桜のことを想っている自分はどうしてだろうか。そこでようやく真咲は自覚する。
(私……桜さんのことを好きなのだわ……)
 ごく自然にそう思っていた。そして、隣でずっとしょんぼりしている桜が可愛くて、思わず笑みが零れる。するりと繋いでいた手を離して桜に向き合った。
「相手が桜さんならば私はお断りしません。私は桜さんだったから惹かれたのです。もしお見合いの相手が違う方だったらお断りして、私が桜さんをさらって駆け落ちしています」
「なっ……かけっ……真咲!」
真っ赤になって詰まった鳴滝家の当主と娘を見て、不意に由岐家の当主が笑う。
「ずいぶんとしっかりしたご令嬢をお持ちなのだな、鳴滝殿。桜にはもったいないくらいだ」
 由岐家当主は目の前の喧嘩をただゆったり座って眺めている。真咲は由岐家当主にぺこりとお辞儀をすると、いまだ困惑している父を真っ直ぐ見据えた。
「桜さんは私の夢を聞いてくださいました。お父様のように下らないなどと言わずに」
「夢? 真咲……まさか」
 言いかけた父親の言葉を塞ぐように、真咲は言葉を続ける。守るようにして隣にいてくれる桜の存在が心強い。
「私は撫子と約束しました。お医者様になって必ず撫子の病気を治すと。それは叶わなかったから、せめて撫子と同じように病気にかかっている人たちを助けたい。……だから私は医者になります」
「何を馬鹿なことを。女子は家庭に入り、跡継ぎを──」
 その言葉を強い口調で遮ったのは真咲ではなく桜だった。否、桜自身もほとんど反射的だった。けれど言わずにはいられなかったのだ。彼女を守るために。
「いずれ! ……いずれ、その考え方が覆される日が来ましょう。僕はそう信じています」
 そう、いずれはきっと──。
 桜は誰が信じなくとも信じている。いや、願っているのかもしれない。
「彼女の夢ごと、僕が必ず守ります。それが、いまの僕の夢です」
 はしたないと、あとで怒られると分かっていながら、にっこりと微笑んだ桜の胸に飛び込んだ。大きな桜模様の袖が、ふわりと翻った。


 ──固き蕾は、叶わぬ夢の如し
   されど、蕾はいつしか花を咲かせけり
   かくして花は咲き、夢儚く散ることなかれ

のちに名医と呼ばれるまでになる彼女の夫が詠んだ詩(うた)は、生涯彼女を守り続けた。
作品名:夢一匁 作家名:深月