夢一匁
爛漫に咲き誇る、一本の大桜。
冬の間は恥じらう乙女のごとく固く閉ざしていた蕾も、春の麗かな光によってほころび、薄紅色の花びらを穏やかな風に揺らしている。
色とりどりの花が一斉に咲き乱れ、蜜蜂たちが忙しなく花粉を集めるために飛び交う花畑とは違い、凛とたたずむ大桜はほとんど人の寄りつかない小さな裏山の上にあった。
ざあっ───、突風が薄紅の花びらを空にいくつも舞わせた。
掴もうにもすり抜けていってしまう無数の花びらに、大桜のすぐ下で呆然と立ち尽くしていた少女は、必死になって腕を伸ばしていた。
(花嵐、って言うの……って、言ってた……)
掴めない花びらをもどかしく感じながら少女は思う。
花嵐──桜の花の盛りのころに吹く強い風のことなのだと、幼くはにかんだ笑顔とともに教えてくれたのはいつだったろう。遠い昔のようで、実はそうではないのかもしれないと独りごち、掴めない花びらを諦めて腕を下ろす。静けさだけが耳に痛く響いた。苦しいのに、涙を流すこともできない。胸が痛くて、左手でそれを押さえながら下を向いた。その目に、奇妙なものが飛び込んでくる。
「………手が生えてる……?」
大桜の根元からにゅっと人間の手があった。まさかこんな昼間から幽霊が出るはずもあるまい。少女は、自分の胴体の四倍ほどはあろう幹の反対側に顔をひょこりと出した。そして、自分の目線よりも下に、背を幹に預け、手を投げ出して座っている人物を見つける。
明るい春の光を浴びた黒髪が風でなびいた。その髪は肩よりも長く、後ろでゆるく一つに結んでいた。
「男の、ひと?」
つい本心が零れ出る。生まれてこのかた、髪の長い男の人を見たことがなかったからだ。とうの相手は寝ているようで反応はなかったが。
自分よりも年上であろう青年は濃紺の着物と黒の袴を身にまとい、無造作に足も投げ出している。本を持つ左手は読みかけなのか開かれたまま腹の上にあった。そのそばには片眼鏡(モノクル)が転がっている。本を読んでいるうちに眠気に誘われ、片眼鏡を外して転寝を始めた、と言うようなところだろうか。少女はしゃがみこみ、左手に持っている本の題名を読もうとして顔を歪めた。
「……読めない……何語?」
代わりに少女は寝ている青年の顔をじっと覗き込み、つい桜の花びらが乗っている髪に触れる。良家の子女であるならば、自ら男性に触れることなど恥だと言われるところだろうが、いかんせん少女はそうでありながらもそんな観点は持ち合わせていなかった。
「……? うわぁっ!」
「え──きゃ……」
「わっ、危ない!」
起きるとは思っていなかった少女はその声に驚き、身体の均衡を崩す。それに驚いた青年も慌てて少女の腕を掴んで引き寄せた。引き寄せられた反動で、少女はちょうど青年の上にかぶさるような体勢となる。
「ご、ごめんなさい!」
いくらいつもお転婆すぎると注意されている少女でも、さすがに狼狽えてぱっと離れた。青年は対して気にした様子もなく、じっと少女を見て口を開いた。
「大丈夫ですか? 怪我とかないですか?」
「え? あ、はい……大丈夫、です」
青年はほっとしたように微笑み、それにつられてつい少女も微笑う。
「よかった。すみません、驚かせてしまって」
「こちらこそ、ごめんなさい。桜の花びらがついていて、つい手が伸びてしまって……」
青年は何も悪くないのにぺこりと頭を下げた。どうやら人が好い人物のようである。
「え? ああ、本当だ。ちょっと転寝をしただけなのに。……そう言えば、貴女は?」
髪の毛をポンポンと払いながら不思議そうにきょろきょろと周りを見る。その仕草が可愛らしくて、つい笑みが浮かぶ。思ったより高めで優しい声も、心にすとんと落ちてきて心地いい。
「……あの?」
返答がないのを訝しんだのか、困った顔でひょいと少女の顔を覗きこむ。はっと我に返った少女は、なぜか高まる心臓を押さえつけながら、冷静を装って答えた。
「あ、ええと……私は鳴滝(なるたき)真咲(まさき)と申します」
「鳴滝……、と言うとあの"鳴屋(なるや)"のご息女ですか?」
鳴屋とは真咲の父親が経営する店の名前だ。明治維新が起こり、元号が慶応から明治に改まった今日も変わらず商売を続けている歴史ある商家であり、真咲はその鳴屋の長女であった。ただ、あまりその自覚はなく、知られていることに驚いて聞き返す。
「はい。ご存知なんですか?」
「ええ、有名ですから。それより、貴女のようなうら若き娘さんが一人で出歩くのは危ないのでは」
心配そうに案じた声にふるふると首を振る。一人で出歩くのはよくないけれど、いまは帰りたくなかった。
「いいんです。家に閉じ込められてばかりじゃ、気分が晴れませんもの。それにお父様は口を開けばお見合いのことばかり」
「……お見合い、ですか?」
「はい、聞いていないのでどなかたも存じませんけれど」
見合いなどする気もない真咲にとってはいい迷惑だったが、父親にとってはとても良縁らしい。いますぐ嫁に行けと言わんばかりの父に、真咲はこのところ気が滅入っていた。
「……会ったこともない方と結婚するなんて、私は嫌なんです。それは私のわがままですけれど……」
会ってまもない、しかも名前も知らない相手に愚痴を言ってしまい、はたと口をふさぐ。
「ごめんなさい。突然こんなこと言ってしまって……」
「え、いいえ。僕は大丈夫ですよ。口下手なのでうまい答えは返せませんけど」
照れたように笑う青年のまとう空気は穏やかだった。そばにいるのがなぜかとても自然で、居心地がいい。つい寄りかかりたくなるような雰囲気を持つその青年に、真咲は「あの」と言いかけて止まる。
「……お名前を、教えてくださいませんか?」
「あ、すみません、先に名乗るべきでした。僕は由岐(ゆき)桜(さくら)と言います」
「ゆき?」
首を傾げれば、由岐桜はそばに落ちていた木の枝を拾ってガリガリと地面に書く。
「これで由岐です。変わった姓でしょう?」
「きれいな名前……桜さまと言うのですね」
「様だなんて……、どうぞ普通に呼んで下さい」
桜はしきりに恐縮して首を振る。その仕草が、何となく自分よりも年下に見えてくすりと笑った。
「では桜さんとお呼びしますね。桜さんも私のことは真咲とお呼びください」
「マ、サキさん……、ええと字はどのような?」
「真(まこと)に咲くで真咲です。男の方のような響きですけれど……」
「そんなことないですよ。僕の名前こそ男らしくないですし」
ふんわりと笑う桜はむしろ名前にとてもよく合っている。舞い散る桜の花びらが真咲を肯定するかのようにくるりと舞った。それが落ちた先を視線で追い、その先にさっきの本が目に入った。落とした視線に気付いた桜は持っていた本を差し出してみせる。
「……これは何と書いてあるのですか?」
「これは阿蘭陀(オランダ)語で"医学"と書いてあるのですよ。本が好きで、蘭医の知り合いに本を借りたら医学書を持ってきたので、読んでみているんです。とは言ってもまだ勉強中で、全部は読めないのですが」
「蘭……、医」
「どうかしましたか?」
「え、あ……いいえ。……蘭医はとても優れているそうですね」
冬の間は恥じらう乙女のごとく固く閉ざしていた蕾も、春の麗かな光によってほころび、薄紅色の花びらを穏やかな風に揺らしている。
色とりどりの花が一斉に咲き乱れ、蜜蜂たちが忙しなく花粉を集めるために飛び交う花畑とは違い、凛とたたずむ大桜はほとんど人の寄りつかない小さな裏山の上にあった。
ざあっ───、突風が薄紅の花びらを空にいくつも舞わせた。
掴もうにもすり抜けていってしまう無数の花びらに、大桜のすぐ下で呆然と立ち尽くしていた少女は、必死になって腕を伸ばしていた。
(花嵐、って言うの……って、言ってた……)
掴めない花びらをもどかしく感じながら少女は思う。
花嵐──桜の花の盛りのころに吹く強い風のことなのだと、幼くはにかんだ笑顔とともに教えてくれたのはいつだったろう。遠い昔のようで、実はそうではないのかもしれないと独りごち、掴めない花びらを諦めて腕を下ろす。静けさだけが耳に痛く響いた。苦しいのに、涙を流すこともできない。胸が痛くて、左手でそれを押さえながら下を向いた。その目に、奇妙なものが飛び込んでくる。
「………手が生えてる……?」
大桜の根元からにゅっと人間の手があった。まさかこんな昼間から幽霊が出るはずもあるまい。少女は、自分の胴体の四倍ほどはあろう幹の反対側に顔をひょこりと出した。そして、自分の目線よりも下に、背を幹に預け、手を投げ出して座っている人物を見つける。
明るい春の光を浴びた黒髪が風でなびいた。その髪は肩よりも長く、後ろでゆるく一つに結んでいた。
「男の、ひと?」
つい本心が零れ出る。生まれてこのかた、髪の長い男の人を見たことがなかったからだ。とうの相手は寝ているようで反応はなかったが。
自分よりも年上であろう青年は濃紺の着物と黒の袴を身にまとい、無造作に足も投げ出している。本を持つ左手は読みかけなのか開かれたまま腹の上にあった。そのそばには片眼鏡(モノクル)が転がっている。本を読んでいるうちに眠気に誘われ、片眼鏡を外して転寝を始めた、と言うようなところだろうか。少女はしゃがみこみ、左手に持っている本の題名を読もうとして顔を歪めた。
「……読めない……何語?」
代わりに少女は寝ている青年の顔をじっと覗き込み、つい桜の花びらが乗っている髪に触れる。良家の子女であるならば、自ら男性に触れることなど恥だと言われるところだろうが、いかんせん少女はそうでありながらもそんな観点は持ち合わせていなかった。
「……? うわぁっ!」
「え──きゃ……」
「わっ、危ない!」
起きるとは思っていなかった少女はその声に驚き、身体の均衡を崩す。それに驚いた青年も慌てて少女の腕を掴んで引き寄せた。引き寄せられた反動で、少女はちょうど青年の上にかぶさるような体勢となる。
「ご、ごめんなさい!」
いくらいつもお転婆すぎると注意されている少女でも、さすがに狼狽えてぱっと離れた。青年は対して気にした様子もなく、じっと少女を見て口を開いた。
「大丈夫ですか? 怪我とかないですか?」
「え? あ、はい……大丈夫、です」
青年はほっとしたように微笑み、それにつられてつい少女も微笑う。
「よかった。すみません、驚かせてしまって」
「こちらこそ、ごめんなさい。桜の花びらがついていて、つい手が伸びてしまって……」
青年は何も悪くないのにぺこりと頭を下げた。どうやら人が好い人物のようである。
「え? ああ、本当だ。ちょっと転寝をしただけなのに。……そう言えば、貴女は?」
髪の毛をポンポンと払いながら不思議そうにきょろきょろと周りを見る。その仕草が可愛らしくて、つい笑みが浮かぶ。思ったより高めで優しい声も、心にすとんと落ちてきて心地いい。
「……あの?」
返答がないのを訝しんだのか、困った顔でひょいと少女の顔を覗きこむ。はっと我に返った少女は、なぜか高まる心臓を押さえつけながら、冷静を装って答えた。
「あ、ええと……私は鳴滝(なるたき)真咲(まさき)と申します」
「鳴滝……、と言うとあの"鳴屋(なるや)"のご息女ですか?」
鳴屋とは真咲の父親が経営する店の名前だ。明治維新が起こり、元号が慶応から明治に改まった今日も変わらず商売を続けている歴史ある商家であり、真咲はその鳴屋の長女であった。ただ、あまりその自覚はなく、知られていることに驚いて聞き返す。
「はい。ご存知なんですか?」
「ええ、有名ですから。それより、貴女のようなうら若き娘さんが一人で出歩くのは危ないのでは」
心配そうに案じた声にふるふると首を振る。一人で出歩くのはよくないけれど、いまは帰りたくなかった。
「いいんです。家に閉じ込められてばかりじゃ、気分が晴れませんもの。それにお父様は口を開けばお見合いのことばかり」
「……お見合い、ですか?」
「はい、聞いていないのでどなかたも存じませんけれど」
見合いなどする気もない真咲にとってはいい迷惑だったが、父親にとってはとても良縁らしい。いますぐ嫁に行けと言わんばかりの父に、真咲はこのところ気が滅入っていた。
「……会ったこともない方と結婚するなんて、私は嫌なんです。それは私のわがままですけれど……」
会ってまもない、しかも名前も知らない相手に愚痴を言ってしまい、はたと口をふさぐ。
「ごめんなさい。突然こんなこと言ってしまって……」
「え、いいえ。僕は大丈夫ですよ。口下手なのでうまい答えは返せませんけど」
照れたように笑う青年のまとう空気は穏やかだった。そばにいるのがなぜかとても自然で、居心地がいい。つい寄りかかりたくなるような雰囲気を持つその青年に、真咲は「あの」と言いかけて止まる。
「……お名前を、教えてくださいませんか?」
「あ、すみません、先に名乗るべきでした。僕は由岐(ゆき)桜(さくら)と言います」
「ゆき?」
首を傾げれば、由岐桜はそばに落ちていた木の枝を拾ってガリガリと地面に書く。
「これで由岐です。変わった姓でしょう?」
「きれいな名前……桜さまと言うのですね」
「様だなんて……、どうぞ普通に呼んで下さい」
桜はしきりに恐縮して首を振る。その仕草が、何となく自分よりも年下に見えてくすりと笑った。
「では桜さんとお呼びしますね。桜さんも私のことは真咲とお呼びください」
「マ、サキさん……、ええと字はどのような?」
「真(まこと)に咲くで真咲です。男の方のような響きですけれど……」
「そんなことないですよ。僕の名前こそ男らしくないですし」
ふんわりと笑う桜はむしろ名前にとてもよく合っている。舞い散る桜の花びらが真咲を肯定するかのようにくるりと舞った。それが落ちた先を視線で追い、その先にさっきの本が目に入った。落とした視線に気付いた桜は持っていた本を差し出してみせる。
「……これは何と書いてあるのですか?」
「これは阿蘭陀(オランダ)語で"医学"と書いてあるのですよ。本が好きで、蘭医の知り合いに本を借りたら医学書を持ってきたので、読んでみているんです。とは言ってもまだ勉強中で、全部は読めないのですが」
「蘭……、医」
「どうかしましたか?」
「え、あ……いいえ。……蘭医はとても優れているそうですね」